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占いという もう一つの眼

徳川家康 1

2010年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

山岡荘八の徳川家康を読んだのは小6の時だった。祖母の本棚にあったので、読み始めたら面白く、訳のわからないまま、そこにあった全巻を読んでしまった。(まだ完結していなかった)

徳川家康の連載が始まったのは昭和25年。ちょうど高度成長と歩調を合わせて連載され、経済立国を目指す、日本人の心の支えとなった。

一方、大河ドラマ「徳川家康」の放映は、終戦から38年目の昭和58年=1983年であり、日本の絶頂期であったが、
その後27年間。バブルを経て、日本は沈みっぱなしとなる。

大河ドラマは、日本経済の応援歌のような存在だったが、その絶頂期に、時代劇シリーズ総仕上げとして、「徳川家康」が放映されたことは、今にして思えば、極めて意味深い。

「徳川家康」は、それまでの応援歌としての大河ドラマとは違い、
戦後の苦難を乗り越えた日本人が、登って来た坂を振り返り、
『ようやったなあ』と、自賛の余韻に浸るドラマだったのではなかろうか。(つまり、高度成長の緊張感が、ここで途切れてしまった)
その後、日本人は、すっかり我を忘れてしまう。

土星の到来。土星の人「家康」
「徳川家康」放映の3年前から、土星は天秤座に来ている。つまり制作の機運は、天秤座の土星で起こっていた。
今、同じ天秤座の土星の時、坂本龍馬がヒットしているが、龍馬は家康と違い、功成り名遂げることなく、横死する。来年予定の「江」も家康と同じ戦国時代だが、歴史の中心人物ではない。

日本の絶頂期の土星・天秤座では、功成り名遂げた家康のドラマだったのに対し、どん底の今は、歴史の礎となって浮かばれることの無かった人物が主人公だ。
これは、同じ土星でも、国民の覚悟や意志が、真反対に向かっていることを表す指標と言えなくもない。

暗い時代だが、やはり今は一陽来復、春に向かって歩き始める時のようだ。(日本の輪廻

ふと、このことを思いだして、DVD「徳川家康」を借りてきて観始めたが、やはり、面白い。俳優がみな若く、これも見所だ。

この作品で、信長役の役所広司は一躍有名になったが、どうも好きになれない。平凡な個性をハイテンションで無理にインパクトを出そうとする演技は、竹中直人など、その後の役者の主流になったが、これも現実感の喪失。サイバー時代、無菌室時代の、一つの現象だろう。

信長と言えば、無表情な緒形直人もなかなか良かったし、何と言っても高橋幸治は永遠の信長役者だ。しかし、本当の信長はきっと、織田信成君のようなナイーブな人物だったに違いないと信じている。