魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

お総菜

2008年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム

昔のドラマで、
大阪に来たサラリーマンが、うどんを食べたら味がない。「オジサン味が付いてないよ」と言うと、「あんさん東京の人やろ、舌が死んでんのや」
という下りがあった。

関西は、薄味だ。素材の味を引き出すためには味付けは引き立て役に徹するということだろう。関西人の味覚に対するデリカシーは、他の地域の人には説明が付かない。

ところが、ところがだ。
その関西のスーパーで売られている総菜はどうだ。
犬が靴の臭いで「ケーン」とないて失神する、消臭剤のCMがあったが、
それぐらいキツイ味付けだ。関西人がよく黙って買っているものだと不思議でしょうがない。食べていると、胸焼けがして頭が痛くなる。
スーパーだけでもない、デパ地下などの有名店の総菜も相対的に味が濃い。
吉兆の例にも見られるように、デパートに出すようなものは初めから客をバカにしているのかも知れないし、時間が経つことで味が染みこみすぎるのかも知れない。
大阪では、どんな場末の飲食店に入ってもハズレということがないのに、総菜となるとなぜだろう。
穿って考えると、調理人が疲れていると味は濃くなる。このことからも、総菜品がエネルギーを必要とする若者や労働者を対象にして作られていたからかも知れない。それとも、濃いめにすれば保存性が良くなるのだろうか。

薄味でたのむ
グルメとかの話しには興味がない。これは生活文化の話しだ。
社会の変化に伴い、総菜品は一般家庭でも欠かせなくなっている。
今時、魚をおろしたりできるお母さんがどれほどいるだろう。
にもかかわらず、総菜が地域性や家庭の味とかけ離れているのは文化破壊だ。TV語のように、家庭に異文化が持ち込まれていく。
コンビニの総菜や弁当を食べている若者は、おそらく、味に違和感を持たないのではなかろうか。若者だけではない、地域や社会全般がそうなっているのかも知れない。一方で、うるさいグルメ話にはうんざりする。

この現象と、賞味期限の騒ぎは根が同じだ。頭はグルメでも舌は味蒙で、しかもそのことに気が付かない。

ただ、この地域文化無視の味付けにも、面白いことに地域性がある。
同じ系列のスーパーでも、店や地域によって味付けが違うのだ。
外食チェーンでも店によってデキ(味)が違うが、スーパーの総菜担当者にも地域性が出るようだ。
もちろん、「スーパー総菜」の濃い味規格から外れるものではないが。

関西でも京都のスーパー総菜はメチャクチャ甘い。おそらく昔、砂糖が高級品だった頃、都には、砂糖を多用した伝統があるのだろう。今日でも、京都ではトマトやスイカに砂糖を掛けて食べる人がいる。
滋賀県では一段と塩分が強くなる。さらに、巻きずしなど、完全に押しつぶしている。サバ寿司の京都でも巻きずしを押しつぶすことはないから、東海の味や三重のさんま鮨などの影響が出ているのだろう。

会社による規格があるのかも知れないが、いずれにせよ、もう少し基本を薄味にすれば、総菜担当者の地域性も、程良く活かされるような気がする。

作り置きの総菜の味が濃くなるものなら、初めから薄めにしてもらえないものだろうか。
薄味に加味することはできても、濃い味を薄くするのは難しい。