
世紀末象徴主義を語る上で欠かすことの出来ない概念が
「愛」(エロス)と「死」(タナトス)です。
今回はその「死」(タナトス)について語ってみたいと思います。
ギリシア神話では、「死」(タナトス)は「眠り」(ヒュプノス)の兄弟であり、
共に「夜」(ニュクス)を母とするとされています。
さらに「眠り」には息子の「夢」(モルペウス)がいるとなっています。
つまり、夢は眠りによって生み出され、
眠りはまた死へも通ずるということです。
今回のタイトル画像はウォーターハウス「眠りとその兄弟、死」です。
手前で眠るのがヒュプノス、奥にいるのがタナトスです。
それゆえに、眠り、死、夢はいずれも現実世界や自我意識からの解放と
新たな時空への飛翔を促すものとして、
芸術の創造と深くかかわる重要なテーマとなりました。

上の作品はベルギー象徴主義の画家クノップフの作品です。
この作品は英国の詩人クリスティナ・ロセッティの詩「誰が私を解き放つ」に霊感を受けて描かれたもので、
題名もその詩の一節からとられました。
画面の後ろに翼をつけた顔の石膏像がありますが、
これが「眠り」の象徴であるヒュプノスです。
ヒュプノス像のすぐ横にはやはり「眠り」を象徴する花である罌粟が描かれています。
手前には百合の花が描かれていますが、いずれもしおれかけています。
盛りを過ぎ去ったものにに美を見出すのも世紀末象徴主義の美学の一つです。
女性がひじをついている物体は黒布がかけられていることもあり棺桶のようにも見えます。
また横長の画面全体が棺桶に見立てられているともいわれます。
肘をつき、顔を支えるポーズは内省を示すポーズで、
彼女がもの思いに耽っていることを表します。
これらはすべて「眠り」および「死」を象徴するもので、
「私は私自身に扉を閉ざす」は「死」による魂の解放をテーマにしています。

この作品にもヒュプノスが描かれています。
クノップフは自宅にヒュプノス像を置くための祭壇を作り、
「眠りは我々の人生の中で最も完全なもの」と語ったとの事です。
クノップフにとって「眠り」そして「死」による魂の解放は
自らの芸術世界を展開する上で最も重要なことだったのだと思います。
逆説的ですが、「死」を思うことは「生」を思うことにもつながるのではないかと思います。
「生」は人が生きていく限り常に思い続けなければならない命題だと思うからです。
「愛」(エロス)と「死」(タナトス)です。
今回はその「死」(タナトス)について語ってみたいと思います。
ギリシア神話では、「死」(タナトス)は「眠り」(ヒュプノス)の兄弟であり、
共に「夜」(ニュクス)を母とするとされています。
さらに「眠り」には息子の「夢」(モルペウス)がいるとなっています。
つまり、夢は眠りによって生み出され、
眠りはまた死へも通ずるということです。
今回のタイトル画像はウォーターハウス「眠りとその兄弟、死」です。
手前で眠るのがヒュプノス、奥にいるのがタナトスです。
それゆえに、眠り、死、夢はいずれも現実世界や自我意識からの解放と
新たな時空への飛翔を促すものとして、
芸術の創造と深くかかわる重要なテーマとなりました。

フェルナン・クノップフ
私は私自身に扉を閉ざす
上の作品はベルギー象徴主義の画家クノップフの作品です。
この作品は英国の詩人クリスティナ・ロセッティの詩「誰が私を解き放つ」に霊感を受けて描かれたもので、
題名もその詩の一節からとられました。
画面の後ろに翼をつけた顔の石膏像がありますが、
これが「眠り」の象徴であるヒュプノスです。
ヒュプノス像のすぐ横にはやはり「眠り」を象徴する花である罌粟が描かれています。
手前には百合の花が描かれていますが、いずれもしおれかけています。
盛りを過ぎ去ったものにに美を見出すのも世紀末象徴主義の美学の一つです。
女性がひじをついている物体は黒布がかけられていることもあり棺桶のようにも見えます。
また横長の画面全体が棺桶に見立てられているともいわれます。
肘をつき、顔を支えるポーズは内省を示すポーズで、
彼女がもの思いに耽っていることを表します。
これらはすべて「眠り」および「死」を象徴するもので、
「私は私自身に扉を閉ざす」は「死」による魂の解放をテーマにしています。

フェルナン・クノップフ
蒼い翼
この作品にもヒュプノスが描かれています。
クノップフは自宅にヒュプノス像を置くための祭壇を作り、
「眠りは我々の人生の中で最も完全なもの」と語ったとの事です。
クノップフにとって「眠り」そして「死」による魂の解放は
自らの芸術世界を展開する上で最も重要なことだったのだと思います。
逆説的ですが、「死」を思うことは「生」を思うことにもつながるのではないかと思います。
「生」は人が生きていく限り常に思い続けなければならない命題だと思うからです。
ホントに象徴主義の世界がお好きなのがよく伝わってきます。
どちらかと言えばフェルナン・クノップフがより強く印象に残ります。
「私は私自身に扉を閉ざす」女性は、過ぎ去った、あるいは過ぎ去って行く3本の花を見つめているのでしょうか。
それとも外には目を閉じて、自分の心の中を見つめているのでしょうか。
眠りと死、私にとっても大変興味深いテーマです。
私はクノップフで修論を書いたくらいクノップフの作品を愛しているのですが、この「私は私自身に扉を閉ざす」は最も好きな作品の中の一つです。
不思議な構図の絵ですよね。背景に描かれた景色(窓の外の風景? 女の心象風景なのかもしれないですね…)への奥行きが感じられないし、現実味が薄い。直線と円で仕切られた背景の構図、百合の位置など、本当に奇妙な印象です。
クノップフの自邸の建設や、そこに設けられた祭壇など、本当に興味は尽きません!
今回の記事は以前HPのほうで公開していた文章に加筆したものです。
クノップフの作品の「扉を閉ざす」女性はいったい何を見つめているのか大変興味深いものです。
過ぎ去ったものを懐かしんでいるのか、いつかはその身にも訪れる死を思っているのか、
あるいはそのどちらともなのかもしれません。
>saya様
「私は私自身に扉を閉ざす」は本当に謎に満ちた作品ですね。
クノップフはあえて非現実的な表現をとることによって
この世には存在し得ないような夢幻の世界を作り出そうとしたのでしょうね。
そしてヒュプノスの祭壇はその幻想世界を作品上のものだけではなく、
自分の現実世界においても実現しようとしたのではないでしょうか?