酒とサッカーと・・・

旨い酒とサッカーがあれば人生の大半は・・・

2014FIFAブラジルW杯チケット到着

2014年05月30日 | サッカー

既に各地から到着の声が上がりだしたワールドカップチケット(郵送組)、うちにも今日届きました。
DHLから、最後はいつもの佐川急便のおっちゃんで。



4枚のチケは、それぞれ4つの封筒に小分けされ、それがDHLの配送用封筒ひとつにまとめられていました。何故か小袋はひとつビリビリと開封された跡が・・・・。ま、中身はちゃんと揃ってましたが。

チケットサイトでは、発送したらトラッキング番号のリンクを貼りますよ、となっていたが全然反映されないままメールも何も連絡なく届きました。


封筒に貼ってあったトラッキング番号を、DHLのサイトで見てみました。

27日(火)にスイスを出て翌日ドイツへ。ドイツからいったん香港を経由し29日(木)には関空へ到着したようです。
もう1日かけ30日に九州まで配送されました。

早めの出国予定だった人も、今から航空券やら査証手配の人も、忙しい中、手続きミスしないようにお気をつけて。

 

コメント (2)
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W杯の思い出:ほんとの奇跡

2014年05月30日 | サッカー

※この記事は2000年に執筆したものを転載しています。

W杯の思い出:プラチナの続き <目次


 あの日、会社のテレビで知ったチケット騒動からこの瞬間までの4日間。試合開始直前に入手できた私たちと、多くの不幸なサポーターたちとの差はなんであったのだろうか。
 ジョホールバルの勝利が選手たちにとっての奇跡であったなら、この4日間に渡る私たちの苦労はやはり奇跡に裏打ちされていたというしかない。

 ピレネーの山中で、先にキレた兄が、もし、振り向いて「ねぇ皆さんそうでしょう」とひとこと付け加えていたとすれば、その後の私たちはツアーの中の代表者のようになり、そろって全員が時間切れを迎えていたことだろう。見知らぬツアー客同士が共同戦線をはって連帯感を強め、代理店と交渉し、試合開始直前になって数枚のチケットを渡されたとき、誰もが抽選で選ぶことができずに泣く泣く全員でチケットを燃やしたという話もある。

 あのフランス人母娘やミスタースポックたちが親切にしてくれていなければ、ツールーズでチケット相場を知ることなく当日わずか1000フランを持ったままダフ屋と交渉していたかもしれない。
 また考えてみれば添乗員Mはただ会社からの指示を伝えるだけで、すべての客から憎まれ心身をすり減らし、その添乗員人生の辛さをかみ締めていただけかもしれない。
 そのMを最後の最後になって「この二人だけはなんとか手配せねばならない」と追い込んだ交渉も重要だったが、彼が私たちに本部の電話番号を教えなければチケットは手に入らなかった。彼のかくれたファインプレーと今でも思っている。

 スタジアムへ向かう多くのツアー客たちが、最後の最後になって「裏切られた」「なんで1枚もないのか」と添乗員を小突き回す姿をほんとうに見た。女性添乗員がツアー客に「どんくさいヤツ」と罵られて泣いていた。しかし、その姿を見て私たちは「おまえは自分で何か努力したのか」と逆にツアー客を不快に思った。
 ほんとうに手に入れようと思うなら自分たちで動くべきで、それにいつ気付いたのかが、今回の運命の分かれ目だった。

 初戦アルゼンチン戦の結果は1:0の敗戦であった。だがここではいかに日本代表が戦ったのかを伝えたかったのでは無く、本当に個人的なW杯への思い入れとあのチケット騒動の一面を知ってほしかっただけである。
 そして懲りずにシドニー五輪へサッカー観戦に出ようと思う。今日6月3日に組み合わせが発表された。のん気なもんでチケットは組み合わせ発表のはるか以前の2月に売り切れているという。さぁどうやって手に入れようか。


 選手入場。アルゼンチン人は「たかが初戦になぜ盛り上がっているのか?」と不思議そうだった。


 チケットを持った幸せな人々がゲートをくぐる。
「ドラえもん」は当時監督の岡田さんが「のび太」に似ているため、用意されたキャラクターだった。
 


(左)スタンドにて。
この時気づいた。今日は何も食ってなかった。
(右)チケット入手の報告を、日本の母へ国際電話する兄。

※試合が終わったあと、いったんバスまで戻ったものの、そのままホテルへと帰る気がせず兄と二人ツアーを離れ夜の街に出てみた。
 トゥールーズの、石畳が連なる路地裏を歩いていると、同じスタジアムで数日後に戦う南アフリカやデンマークのサポーター達が国旗を打ち振り気勢を上げていた。
 現地の人やアルゼンチーナが、私達を日本人と見ると「ナカータ、ナカータ」と声を掛けてくる。0:1で破れたものの強豪アルゼンチンを相手に気迫を見せた中田英寿選手は、サッカーにうるさい連中をも魅了したのだろう。
 1軒のバーで、頼んだ黒ビールが長々と注がれていくのを見ているのが最後で、そこからどうやってホテルに、そして空港へ、日本へと戻ったのか全くといっていいほど記憶がない。長かったようなそれでいて一瞬だったかのようにも思える数日間だった。

 私達は、あれから2年後シドニー五輪を観たのち、2002日韓大会、兄と母はドイツ大会、そしていまブラジルへとワールドカップへの旅はまだ終わらない。

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