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【中日社説】「韓国のヒロシマ」から 原爆忌に考え

2018年08月06日 09時23分40秒 | ●YAMACHANの雑記帳

「韓国のヒロシマ」から 原爆忌に考える

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広島、長崎、そして韓国の原爆資料館。被爆者の命の証しに触れる場所。伝えたい言葉はきっと同じです。「過ちを二度と繰り返してはなりません」-。

http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2018080602000108.html

 慶尚南道陜川(ハプチョン)郡-。釜山(プサン)から北西へ車でおよそ二時間半。山間にたたずむ人口六万人ほどの小都市は「韓国のヒロシマ」とも呼ばれています。広島と長崎の被爆者の約一割が、朝鮮半島出身者。広島で三万五千人、長崎では一万五千人が、あの原爆の犠牲になりました。韓国人被爆者の六割が、陜川出身だったと言われています。現在韓国国内には、約二千五百人の被爆者が住んでおり、うち約六百人が陜川で暮らしています。日本の植民地支配下で、陜川から釜山、釜山から長崎や下関に至る陸路と海路が整備され、徴用や徴兵だけでなく、同郷のつてを頼って多くの人が、職を求めて家族とともに、長崎の造船所や広島の軍需工場などに渡ったからでもありました。その「韓国のヒロシマ」に昨年の八月六日、陜川原爆資料館=写真=が開設されたのです。日本円で二億数千万円の建設費には、主に韓国の宝くじ基金が充てられました。延べ床面積約五百三十平方メートルの二階建て。一九九六年に日本からの支援で建てられた被爆者の療養施設「原爆被害者福祉会館」の隣に並んでいます。一階が展示室。核関連の詳細な年表や被爆直後の惨状などの写真パネルが掲げられ、原爆の構造を示す模型や、被爆者が持ち帰った愛用品や証明書類が展示されています。♪核のない世界がほしい…と繰り返す子どもたちの合唱が、ビデオ画面から聞こえてくるのが印象的でした。二階には、被爆者が日本で愛読した本や、数次にわたる実態調査の分厚いファイルが並ぶ資料室。書物の中には「はだしのゲン」もありました。韓国原爆被害者協会陜川支部の聞き取り調査は続いています。というよりも、被爆一世の高齢化が進み、記憶が薄れていく中で、一層力を入れています。どういう経緯で日本に渡ったか、被爆当時は何をしていたか、いつ、どのようにして、陜川に帰ってきたか、帰国後障害は出ているか…。面談を重ねて書き取ったり、自ら書いてもらったり-。韓国の被爆一世、二世も今もなお、原爆の放射能が、自身の健康や子孫に及ぼす影響を恐れて生活しています。人は過ちを繰り返す。戦後、やっとの思いでふるさとへ帰りついたのに、周りから「自業自得」と非難を受けた人たちも、少なからずいたそうです。固く口を閉ざすのも、無理からぬことでしょう。日本で生まれ育った被爆者には「悲しいくらい日本語が上手」と言われても、ハングルが書けない人がいます。難しい調査です。それでも「原爆のあるところには、戦争が必ずつきまとう。事実を超える真実を伝え残しておかないと、人は過ちを繰り返す」という信念が、支部長の沈鎮泰(シムジンテ)さんらを支えています。沈さんは二歳の時、広島市内で被爆しました。原爆の記憶はほとんどありません。後遺障害も出ていません。しかし、記憶の底に刻まれた“ピカドン”への恐怖が消え去ることもありません。沈さんは資料館の建設に二千万円相当の私財を投じています。「“事実を超える真実”とは何ですか」と尋ねると、沈さんは「例えば、二十数万人が原爆の犠牲になったという数字は事実。真実とは被爆者一人一人の人生そのものだと思う-」と答えてくれました。私たち自身が想像力を働かせ、その中から、くみ上げるべきものなのでしょう。核兵器の恐ろしさ、戦争の愚かさ、悲しさなどを。記録にとどめ何度でも真実を伝え残していかないと、人は過ちを繰り返す-。それは「国」も同じでしょうか。夏休み。重い宿題を出されたような気がしています。仮にも“エリート”と呼ばれるほどの人たちが、大切な公文書をいともあっさり改竄(かいざん)したり、隠蔽(いんぺい)したりできる国ならなおのこと。原爆や戦争の真実を掘り起こし、記録にとどめ、繰り返し、繰り返し、繰り返し、伝えていかねばならないと。


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