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<戦後73年> 生還後に隔離の特攻隊員、歌残す

2018年08月13日 18時11分35秒 | ●YAMACHANの雑記帳

<戦後73年> 生還後に隔離の特攻隊員、歌残す

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特攻隊に所属していた当時の上田克彦さん=群馬県の館林飛行場で(堀山久生さん提供) 

太平洋戦争末期、厳しい戦局を打開するため、飛行機で敵艦に体当たり攻撃を試みた特攻隊。一度は死を覚悟して出撃しながらも、機体の不調や悪天候から帰還した陸軍の隊員が、現在の福岡市中央区にあった「振武(しんぶ)寮」に収容され、人目に付かないよう隔離されていた事実はあまり知られていない。そんな隊員たちが任務を果たせなかった無念や戦死した仲間を思う和歌が、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館に保管されている。

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知覧特攻平和会館に保管されている上田克彦さんの歌=同館提供

 爆音に つと身をおこし 気がつきぬ

 喜界の人の ことぞしのばる 

 岐阜県高山市出身の上田克彦さんが振武寮で、縦二十五センチ、横九センチの便せんの裏に記した歌だ。一九四五(昭和二十)年四月、当時二十六歳だった上田さんは、奄美群島の徳之島の飛行場から、特攻隊として沖縄戦に出撃する予定だったが、直前に米軍機の空襲で飛行機を失った。

 北東の喜界島に船で移動し、迎えの飛行機で福岡県の軍司令部に戻ることになった上田さんは再び、九死に一生を得る。乗る予定で乗れなかった迎えの飛行機が、離陸した直後に米軍機に撃ち落とされたのだ。その後、振武寮に収容された上田さんは、再び群馬県の部隊に配属され、そこで終戦を迎えた。戦後は林野庁に務め、晩年は東京で過ごして二〇〇八年に八十九歳で亡くなった。上田さんの次女恭子さん(63)=東京都多摩市=は今年七月、父の知人を介して父が詠んだ歌の存在を初めて知った。歌の意味について「父は特攻隊の話をしなかったが、喜界島での出来事は子どもの頃に聞いたことがある。振武寮にいた時、飛行機の爆音を耳にするたびに、目の前で亡くなった仲間をしのび、もう一度特攻隊として出撃しようという決意を固めたのではないか」と語った。 

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山久生さん(左)と父上田克彦さんの戦争体験について語る恭子さん=東京都練馬区で

上田さんが最後に所属した群馬県の部隊の隊長だった堀山久生さん(95)=東京都練馬区=は、上田さんに戦後再会した際に漏らした言葉を覚えている。「特攻のことはもう忘れたい、と話していた。振武寮に収容された特攻隊員は、周囲からひきょう者呼ばわりされたと聞いている。国への忠誠心が厚かった上田さんは、我慢できないほどの屈辱を味わったと思う」上田さんら振武寮に収容された五十五人が詠んだ歌は一六年に、ある軍関係者の遺族が遺品を整理中に見つけ、知覧特攻平和会館に寄贈した。計五十九首の中に、生き延びた喜びを記した歌は一首もなく、任務を果たせなかった無念や、再出撃への強い願い、先に戦死した仲間への思いを記したものがほとんどだ。同館専門員の八巻聡さん(42)は、歌について「振武寮を管理する軍側が、風紀の乱れを防ぐため、隊員に気持ちの整理をさせるとともに、その心情を把握しようとしたのではないか」と指摘。「生き残った特攻隊員の研究は、まだ進んでいない。歌は彼らの心情をひもとくきっかけになると思う」と話している。(加藤拓)

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●大竹まこと ゴールデンラジオ! 2018年08月13日

2018年08月13日 18時03分59秒 | ●YAMACHANの雑記帳

大竹まこと ゴールデンラジオ! 2018年08月13日

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【イージスアショアはいらない】秋田県議石田ひろしさんと語る

2018年08月13日 14時58分41秒 | ●政治と市民運動

【イージスアショアはいらない】秋田県議石田ひろしさんと語る

福島 みずほ
 地上配備型ミサイル迎撃システムのイージスアショア。あまりに予算がかかりすぎるだけでなく、強力なレーダーの地元への影響など、さまざまな問題が懸念されています。配備候補地の秋田では、反対の声が高まっています。
↑そもそもイージスアショアはいらない。無駄な軍備です。
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◆「駅の子」の闘い 戦災孤児 駅構内を棲み処として生き延びた子供たちの悲痛と苦闘の人生 餓死、自殺で命を絶たれた子供も。

2018年08月13日 10時46分22秒 | ●YAMACHANの雑記帳

「駅の子」の闘い 戦災孤児 駅構内を棲み処として生き延びた子供たちの悲痛と苦闘の人生 餓死、自殺で命を絶たれた子供も。

NHKスペシャル 2018.8.12 政治家と、政治家を志す人、そして誰よりもそれを選ぶ全国民にみていただきたい。
自国民が自国の孤児を放置し殺したに等しいこの現実を過去の出来事として忘れないで欲しい。特に好戦的なアベ政権に言いたい(喝)
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20180812 UPLAN 日本軍「慰安婦」メモリアル・デーin東京 金学順さんから始まった #MeToo

2018年08月13日 07時56分00秒 | ●政治と市民運動

20180812 UPLAN 日本軍「慰安婦」メモリアル・デーin東京 金学順さんから始まった #MeToo

三輪祐児
 【戦時性暴力問題連絡協議会/日本軍「慰安婦」問題解決全国行動】 1991年8月14日、韓国の「慰安婦」被害者、金学順さんが半世紀の沈黙を破って、自らが日本軍「慰安婦」とされたことを告白しました。その後、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、東ティモールなど 次々と勇気をだして名乗り出る「慰安婦」被害女性が現れ、数ケ国に及ぶ被害の実態が明らかにされてきました。私たちは、最初に名乗り出た金学順さんの勇気と思いを忘れないために、8月14日を8.14日本 軍「慰安婦」メモリアル・デーとしています。海外で、日本各地で、この日、「慰安婦」問題について多様な視点から、一刻も早い解決のために、様々なイベントを企画して、連帯して取り組んでいます。 一方、海外では、セクハラを受けた女性たちが次々と名乗り出て、twitterで「#MeToo」と声を上げる世界的なセクハラ告発運動が広がっています。告発される側にはハリウッドの映画監督や国会議員など地 位や権力のある人物も含まれており、これまでセクハラを許してきた社会全体に猛省を促す契機となっています。 しかし、残念なが日本ではこの「#MeToo」運動が広がっているとは言えません。「#MeToo」運動の先駆けとも言える、日本軍「慰安婦」被害者が次々と数カ国で名乗り出たときも、日本人女性の被害者は ほとんど名乗り出ることは出来ませんでした。なぜ、日本では性暴力の被害者がこれほど沈黙を強いられるのか。なぜ、日本は「慰安婦」問題をいつまでも解決できないのか。そして、性暴力を許さない社会 を築いていくために何をすべきかということについて考えます。 シンポジウム発言者 梁澄子 日本軍慰安婦問題解決全国行動共同代表 「#MeToo」運動の先駆けとしての日本軍「慰安婦」被害者たち 角田由紀子 弁護士 「#MeToo」運動がなぜ日本で広がらないのか 川田文子 ノンフィクション作家 なぜ日本の“慰安婦”被害者は名乗れないのか 発言者プロフィール 川田文子(かわたふみこ) 出版社勤務を経て文筆業に。日本の戦争責任資料センター共同代表。希望のたね基金顧問。著書に『赤瓦の家――朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房1987年)、『皇軍慰安所の女たち』(筑摩書房1993年)、『インドネシアの「慰安婦」』(明石書店1997年)、(『イアンフとよばれた戦場の少女』(高文研2006年)、『「慰安婦」問題が問うてきたこと』(岩波ブックレット2010年共著)、『ハルモニの唄――在日女性の戦中・戦後』(岩波書店2014年)等。 角田由紀子(つのだゆきこ) 弁護士。NPO法人女性の安全と健康のための支援教育センター代表理事。著書に『性の法律学』(有斐閣選書1991年)、『性差別と暴力』(有斐閣選書2001年)、『性と法律』(岩波新書2013年)、『ドメスティック・バイオレンス』(有斐閣選書1998年共著)、「セクシュアル・ハラスメント―福岡裁判から24年目の到達点」(『ジェンダーと法』11巻2014年所収)等。 梁澄子(やんちんじゃ) 通訳・翻訳・語学講師。日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表、一般社団法人希望のたね基金代表理事。共著書に『海を渡った朝鮮人海女』(新宿書房1988年)、『朝鮮人女性が見た慰安婦問題』(三一書房1992年)、『もっと知りたい慰安婦問題』(明石書店1995年)、『朝鮮学校ってどんなとこ?』(社会評論社2001年)、『オレの心は負けてない』(樹花舎2007年)等。訳書に尹美香著『20年間の水曜日』(東方出版2011年)。
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