飛騨の山猿マーベリック新聞

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◎真白リョウ officialブログより転載(私が希望の党に移った理由)

2017年10月09日 11時34分22秒 | ●YAMACHANの雑記帳

真白リョウ・・・私が希望の党に移った理由

一昨日から横須賀に入りました。

事務所もスタッフの皆様がなんと3時間で見つけてくれました!

事務所の住所です。

〒238−0008

神奈川県横須賀市大滝町2−17

筑波中央ビル

046−824−1101

※10日のポスター貼り、証紙貼り、運転手要員が不足しています。お手伝い頂ける方は、(070)5575-5593 勝目までご連絡ください!

本日は前の東京都知事選に出馬した上杉隆さんが激励にかけつけてくれ、

他の仲間達もみんなお手伝いにきてくれています。

 皆様、大忙しです。そして、Facebookやツィッターなどで、なぜ私が希望の党にうつったのかの真意がわからないとのことで、ここに書かせて頂きます。

長文ですが、お読みください。

 私は自由党の大阪12区総支部長として一年間、毎日12区で活動してきました。自由党は割と体育会系な党で、これは12区の皆様に言われますが、スタッフの皆様と朝から晩まで、相当活動していたと思います。その中で、私がいつも思っていたことがあります。12区では市民の野党共闘が活発で、そのような集会、街宣がけっこうありましたし、SND 12区市民連合サポート の決起会には沢山の人が集まりました。私は自由党代表として、そして共産党、社民党、市民連合のみなさんが集い、野党共闘を実現させようという集会が多数ありました。しかしなぜか野党第一党である民進党は、毎回欠席です。メッセージさえもない事が多かったのです。これは大阪府内の集会全てに共通する傾向でした。この一年間、『安倍政権打倒!と言いながら、民進党は本当に政権交代をする気があるのか?』という疑問が常にありました。

数の論理で考えてみてください。

民進党一党では政権交代は無理です。必ず他党の協力がいる。なのに『共産党とは一緒にできない』とか、あーだこーだ言ってる場合なのだろうか?次回、安倍政権がもう一度政権を取ってしまったら、本当に日本は危機的状況に陥る、と思っていました。そこで野党結集をしようと動き回っていたのが、小沢一郎代表でした。共産党との選挙協力をこぎつけ、安倍政権を倒すには大野党共闘しかない、という主張の元、粘り強く行動していました。しかし選挙が近づいても、一向に民進党はそういう決意を示す気配がありません。そして前原代表が突然、事実上の民進党解党をし、希望の党との合流をはかりました。その時に合流できず党を追い出された人たちは、立憲民主党を結党しました。『リベラルな人達』というとらえられ方なのかもしれませんが、私の目には、そのメンバーの多くは『反小沢』に映りました。解散と同時に、自由党は希望と合流か、などの報道がありましたが、党本部からは希望か立憲か無所属、どれを選ぶか、と聞かれました。私は小沢代表と話し合った結果、希望に行く事になりました。選んだ理由は簡単です。単純に、数です。希望は、次の選挙に候補者を立てる数が圧倒的に多いからです。本気で政権を取りにいっているから候補者を立てるんです。小沢代表は昔、未来の党で候補者を沢山立てて、大惨敗した過去もありますが。でもその姿勢と行動力さえあれば、いつか二大政党、政権交代を果たすことも夢ではない。今回希望がたとえ、過半数を取れなくても、多くの候補者が希望から当選すれば、今の安倍政権に影響力を持つことができます。ネットでは『立憲民主の人たちはポリシーを通している!』との論調がありますが、元々ポリシーは主張していますが、政権交代を本気でする気はない人たちです。去年の参議院選挙の初の共産党との選挙協力でも、結局は共産党が候補者をおろしてくれただけです。ポリシーを通すことは良いことですが、政治家はアーティストではないんです。昔、忌野清志郎さんが反原発のアルバムを東芝EMIから発売して発売禁止になりましたが、それはアーティストだから意味があるしカッコいいのであって、政治家は表現者ではなく『国の経営者』なんです。一億人の運命がかかってるのに『自分のポリシーを表現する』ことだけに特化する会社の経営陣なんて、どこにいるんでしょうか。従業員の生活がかかってるのに、かっこよく自分たちのポリシーを通して、会社が倒産しても良いんでしょうか。昔、いくつかの反原発の団体に顔を出していた時に、なぜ反原発団体は皆、内ゲバを起こして割れて行き、結局目標達成ができないのか、と考えたことがあります。一つは、全て『感情のまま』に行動をしている、またはその活動自体が目的になっている、その団体でのポジションを主張しだす、そして自分たちと少しでも違う意見の人は攻撃、排除する。だから組織が大きくならない。熱心に自分たちの主張を叫んでも、いつまでたっても目的達成できない。自分達の感情表現やポリシーを通すことが目的なのか、自分達の目標を本気で達成することが目的なのか、正直、私にはよくわからなかったです。とにかく、野党共闘にいつまでもきちんと参加する気がない民進党は、政権交代する気はないんだな、と思っていました。故に、私は立憲民主党は選びませんでした。無所属も同じです。見え方はアーティストみたいでカッコいいですが。勿論、自由党から立憲、無所属にいった同士達は応援しています。本当にみんな頑張ってほしいし、お互い頑張ろう!と言って大阪を出ました。そして、希望の党の『安保法制の踏み絵』と言われている話です。私が希望の党に行ったことで応援して下さる方もいるし、『安保法制を認めるのか!』『裏切り者!』などなど批判をする方もいますが。では今、野党でどこにいけば、次の選挙で安倍政権を止められるのでしょうか。安倍政権が政権を取った場合、『安保法制はそのまま』『原発は推進、海外に売り続ける』『消費税は10%に増税』希望が政権を取った場合、『安保法制はそのまま』『原発は12年後に全て廃炉』『消費増税撤廃』

どちらがベターですか?感情論ではなく、リアルな話をしています。立憲と共産と社民が組んで、安倍政権を止めてくれますか?私的にもそうできたら一番良いと思っていますが、とてもじゃないですが無理です。数が全く足りません。その先には安保はそのまま、原発推進、消費税は10%の現実が待っています。どのみち安保がそのままなら、せめて他の公約が自分と同じか近い方が良い。それも希望を選んだ理由の一つです。最後に『希望が自民の補完勢力になるのではないか』という話です。確かにもし政権交代できなければ、小池さんなら自民と大連立を組むということも可能性があると思います。しかし、小池さんは自民の中でも野田聖子さんや石破さんには選挙区の配慮をしています。野田さんは私的には、自民の中で一番主張が近い政治家だと思っていて、アベノミクス反対だし、比較的弱者に寄り添った政治主張をしています。これは私の予測ですが、もし自民と大連立した場合、小池さんは少なくとも『安倍政権』は終わらせると思っています。希望の中にはリベラルな政策陣が入っているので、極右的なことにはならない、と予測しています。とにかく、今は安倍政権を止めること。これが一番の大義だと思っています。それには私の感情や想いがどうだとか、私の身柄がどうだとか、一切関係ありません。私のミッションは『一票でも多く票を取りに行くこと』私が小沢代表を尊敬し、ついていく理由は、政策が一番自分の考えに近い事と、合理主義、リアリストであるということです。そのために自由党の先輩方からは、選挙一週間前に党名変更で印刷物変更に追われたり、直前に突然の選挙区替えがあったり、色々な苦労話を聞いています(笑)しかし、国を変えるというのはそれくらい大変な事なんです。理想を語る、理想を思い描くことはとても大切ですが、リアリストでなければ、そして行動しなければ、この世界は1ミリも変えられません。そして私の選挙区は神奈川11区。小泉王国での選挙戦です。5日の深夜に選挙区が決まり、6日の朝に大阪から4人で横須賀入りし、8日現在、スタッフも皆帰れず、泊まり込みで準備作業をしてくれています。

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因みに小泉進次郎氏は日本一の得票数です(笑)突然の選挙区替えの上に、こんな選挙区に来てしまった、と可哀想がってる人も沢山いると思いますが。選挙4日前の選挙区替えなんて、私の中では想定内です。それが『政治』なんです。私は小沢一郎の自由党の総支部長になった時点で、それは多いにありうる事だとずっと思ってきました(笑)昔の武将たちは命を賭けて国取り合戦をしていたわけで、選挙で何が起こっても命までは取られないので、そう考えるとラクです(笑)人類も少しずつ、進化しているんですね。この選挙区は、希望からの打診があり、私と代表で選びましたし、私の気持ち的には正直、めっちゃワクワクしています。大阪での街宣で度々、小泉、竹中が進めた新自由主義を批判してきました。その超本人の選挙区で、それに対するアンチテーゼの演説ができることは、考えただけでもテンションが上がります。私の今のミッションは『小泉王国で、一票でも多く票を取ること』これのみです。そして最後に、日本の国を変えたいと思っている人達へ。真白からのお願いです。SNS上で野党支持の人達が、批判合戦みたいな事が繰り広げられていますが、本気でこの国を変えたいと思っている人は、そんな時間があるのなら、自分の想いに近い候補の応援に行ってあげてください。応援の内容はなんでもいいです。自分の出来ることで良いです。この一年間大阪での政治活動で、候補者として立つ、という事がどんなに大変なことか、という事を身を持って知りました。今まで築いた環境を捨て、仕事も捨て、趣味も捨て、プライベートも捨て、借金を背負うかもしれないリスクを負いながら、家族に迷惑をかけながら、毎日朝5時半に起き、晩まで政治活動を続ける。みんなができる事ではありません。特に野党の候補者は厳しいです。確かに流行りに乗ってぽっと当選する人もいると思いますが、私は基本、候補者全員をリスペクトします。なので、本当に日本を変えたいと思う人は、自分の支持する候補者の応援に行ってあげてください。よろしくお願いいたします。さて。いよいよ明後日です!!真白選対はフル稼働ですが、大阪で選挙準備を進めていたため、全く準備が追いつきません^^;しかしこの一年の積み重ねが、最初は全身に出来物できて出血しながら(見た目がとても気持ち悪かったですw)半ベソをかきながらやっていた活動が、この神奈川11区で役立つのだと信じています。真白選対、私たちのやり方で、思いっきりやりますよーーーーーー!!!!そして突然の決定に翌朝一緒についてきてくれたオレンジャーの皆様、お手伝いに来てくれた仲間の皆様、本当に感謝です。

↓亀の夢の再現&実現(笑)

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頑張ります!!!!!!!

 

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◆「負傷兵の血や膿、汚物…失神しそうな悪臭だ」 沖縄・南風原で再現された陸軍病院壕の「臭い」

2017年10月09日 09時37分12秒 | ●YAMACHANの雑記帳
◎選挙です。沖縄にもっと思いを!!!
戦後、壕の入り口付近の地中で発見された200点あまりの医薬品の一部。当時の状況などから、必要に応じて戻ってまた使おうと、撤退時に一時的に隠したものと考えられている。72年前から一度も開封されていない、リンゲル、ヨードチンキ、軟こうの瓶=2017年9月28日、沖縄県南風原町
 9月28日、私は壕を訪れた。強い日差しに少し汗を流しながら、入り口でヘルメットと懐中電灯を受け取った。「臭いを嗅ぎたいのだが」と申し出ると、係員は「じゃあ、壕に入る前に嗅いでもらいましょう」と言い、事務室で保管している臭気の瓶を取り出した。瓶は、透明な青色で、手中に収まるほどの大きさだった。一見すると、清潔な匂いがしそうな瓶に「壕内臭気」というシールが貼られている。文字のフォントは丸みを帯びていて、あくまで優しい印象だった。「はい」と手渡された私は、瓶を右手に持ち一呼吸置いた。軽く深呼吸してから目を閉じて、瓶を鼻に近づけて臭気を吸い込んだ。吸い込みながら、臭いはこういう方法で展示するのかなどと考えていた。次の瞬間、頭が真っ白になった。

古くて暗い病院の臭いと、食べ物が腐った酸っぱい臭いがした。鼻から目にかけて、黄ばんだ一筋の煙がゆっくり移動していくような不快感を感じた。不潔な便所に押し込まれたような気分になった。喉の奥で、湿った土にまみれた黒い血の臭いを感じた。

◾️臭いで伝える取り組み

 傷口からの炎症を防ぐため、手足や患部をのこぎりのようなもので切断する手術がほとんどでした。気管を切開して喉からビュービュー息がもれる患者、下顎がない患者、火炎放射器で全身を焼かれた患者などが収容されていました。この壕(ごう)が病院として使われたのはおよそ2カ月間です。1945年3月の入壕命令から5月の南部撤退命令まで。当初は内科でしたが、激戦化にともない負傷兵が増え、4月中旬から外科に変っています。ランプのほの暗い明かりで、麻酔なしの手術が行われていました。南風原平和ガイドの会の金城美根子さんは淡々と、気持ちを込めた静かな声で、説明を続けた。 壕の入り口は当時、布をカーテンにしてふさいでいました。それを開けて中にはいると、強烈な悪臭が漂っていて、倒れんばかりでしたという証言があります。壕の中には台所もなければトイレもありません。歩けない負傷兵がたくさんいます。彼らの汚物を樽に溜めていました。樽がいっぱいになると、学徒さんが外に持ち出して捨てる。いっぱいになる前の樽が常時あるわけです。その汚物の臭いと、負傷兵の血と膿(うみ)、皆の汗が入り混ざって悪臭として漂っていました。そんな臭いも苦にならず、「慣れてしまいました。いけませんねえ」と証言があるほど、戦時下の沖縄で悲惨なことが起き続けていたという。金城さんの説明を聞きながら、私は嗅いだばかりの臭いを思い出した。壕の中で起きていたという情景が、臭いを通じて具体的に想像できた。72年前の出来事が、つい先ほどまで起きていた事のように感じられた。

◾️失神するほどの悪臭、漆黒の闇、恐ろしい冷気

第32軍は1944年3月に創設された。沖縄県那覇市に本部を置き、6月に市内で直属の陸軍病院を稼働させた。しかし、10月10日の米軍空襲で病院施設は焼失した。そのため、南風原国民学校校舎に病院を移転。さらなる空襲に備えて、周辺に約30の横穴壕を掘り、負傷兵の治療を続けた。そのうちの一つが20号壕だ。全長は約70メートルで、高さと床幅はおよそ1・8メートル。直線型ではなく、意図的に若干のカーブを取り入れた作りだ。米軍に見つかっても、入り口から奥が見渡せないよう計算したものと考えられている。壕の中は、中央の手術場を挟んで東側が病室、西側が軍医、衛生兵、看護婦用の待機場所となっていた。戦後公開された壕内の壁は一面真っ黒だったという。米軍の火炎放射攻撃で焦がされたためとみられる。また、中央部の天井に「姜」という文字が発見されており、朝鮮人兵士が刻んだものと考えられている。私は、金城さんの説明を受けながら、懐中電灯を手に壕内を歩いた。西の入り口から入り、約5分後に東の出口から出た。通常は15分ほどかけて歩くという。私は苦しくて、それほど長く壕内にいることができなかった。

JINHEE LEE陸軍病院20号壕の西側内部=2017年9月28日、沖縄県南風原町

壕の中は漆黒の闇で、恐ろしいほどの冷気に満ちていた。何も聞こえない暗闇の中、入壕前に嗅いだ臭いが一段と濃く思い出された。誰もいないはずの壕内で、今も誰かが苦しんでいるように思えた。早くここから出たいと感じている一方で、体は恐怖に立ちすくんでしまった。72年前の激戦の空気がそのままの形で漂い続けているようだった。壕内の臭いについて、当時を記憶する生存者らは、これまでに次のように話している。南風原文化センターが、いくつかの証言をまとめている。

  • 耐えがたい腐臭で満ちていた
  • ブタの死骸とネコの死骸が腐ったような臭いに他の何かが混ざったような臭い
  • 血や膿、小便や大便、さらに汗臭いあかだらけの体の臭いなど、さまざまな臭気が混ざって壕内に漂い、気分が悪くなった
  • 包帯をは外すと、うじはボロボロ、膿もいっぱい出て、あまりの悪臭に何度も失神しそうになった
  • 傷口に必ずうじが発生した。生きた人間にうじが湧く。膿でジタジタになった包帯の中でムクムク動いて
  • 虫が入った芋が腐った臭いだったように覚えている。戦後は嗅いだことのない独特の臭いだった

 ◾️見て、聞いて、嗅ぐ追体験

1945年3月下旬、陸軍病院に入壕命令が出た。軍医、衛生兵、看護婦ら約350人に加え、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒らおよそ240人(ひめゆり学徒隊)が補助要員として動員された。5月22日、第32軍は、沖縄本島最南部への撤退を決めた。陸軍病院壕も命令を受け、25日から撤退を始めた。この時、自力で歩けない重症患者に青酸カリを配り、自決を強要したとされる。金城さんによると、20号壕では青酸カリを調合した「ミルク」が配られたという証言があるという。南風原町は1990年、戦争の悲惨さを伝える証として、20号壕を含む陸軍病院壕群を文化財に指定した。

JINHEE LEE南風原平和ガイドの会の金城美根子さん=2017年9月28日、沖縄県南風原町

現場を見て、話を聞き、臭いを嗅いで追体験する戦争の恐ろしさは、想像を超えて生々しく衝撃的だった。取材後、私は夜遅くに原稿を書いたり、写真を確認したりすることができなかった。壕の中で犠牲になった人々と悲惨な沖縄戦の気配が、ただ単に恐ろしかったからだ。

だが、沖縄に住んでいる以上、この感触が頭を離れることはないと思った。そう思った時、恐怖感は徐々に、犠牲者が少しでも安らかに眠れる平和な世界を祈る気持ちに変わっていった。

MORE:社会News沖縄沖縄戦

「臭いは蒸発するので薄くなっているかもしれない」と係員は話した。私は目まいを感じ、無言で瓶を返した。


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