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セイネンキ・ゼロ・君は独りじゃない<後編>

2019-01-06 11:35:36 | セイネンキ・ゼロ/君は独りじゃない


直也は、ただチャンピオンになるだけが役割ではない。彼は直也の本当の姿を想像し気づいていたのだ。彼は直也とのスパーリングの中で、直也がどんな思いで何を考えているのかに気づいていた。
「私ってダメだわ、大馬鹿だわ」と由子は思った。
出来ない約束はしない直也だった。そんな直也が私の呟いた一言の言葉に微笑みながら約束してくれた。
直也は試合の事など、どうでも良かったのだ、ただ目の前の壁と叩き潰すだけ、コツコツと1つずつ自分の役割を果たそうとしている。
大きな直也の存在感はチャンピオンになったら周囲から見られる目が変わると信じていたに違いない。直也だけじゃない、周りにいる仲間君達もジムの練習生達も皆同じ思いを感じていたんだ。
環境を変えなきゃ何も変わらない、約束をした言葉に直也は答えを出そうとしてたんだ。
直也を信じる思いの揺らぎは由子の心から消えた。
もしも本当に環境が変わったら暴力は消えるのかな?由子の心に光を灯し、それは新たな希望に生まれ変わっていく。
「直也、やっつけてね!」と、直也と見つめ合う由子の瞳は輝いていた。
「おお!」小さな声で笑みを浮かべ少し驚いたような直也。由子の思いは少しずつ再び直也の心に届いていた、つかの間の時間である。
なぜ直也の父とは母は試合会場にいないのか。それは親子の愛情が今の直也には逆行させてしまうと考えていたのだろうか。
それゆえに華やかしい試合会場に来なかった。自分の子供の成長を信じて試練を与える事になるが、これこそ親としての愛情であったのかもしれない。黙々と仕事に集中する直也の父と母の思いは心配だらけだったと思う、けどそれは親子だからこそ、直也の成長の為にそうしたのだと思う。
そして由子の希望の光は新たな輝きを増し突っ走る時、直也の戦いが始まる。

「カーン!」見てろよ由子!
2ラウンド目のゴングが鳴ると直也がとった行動は、相手にパンチを出来る限り打たせるという行動だった。あえて隙を見せガードを深く、ガードによってパンチ力を見ると同時に相手のボクサーとしての癖を見つけていくのだ。まさかここまで、中学生では恐怖を感じるところだが、直也は腕でガードをする中で相手を見つめながら笑っていた。
「来い!来い!来い!来い!来い!」
直也の胸の中では囁きながら、この二ラウンドは相手のパンチ力、ボクサーとしての癖を知る事と体力を奪う策略だった。プロテスト前の彼はプロとしての策略を直也に話していたのだ。中学生で初心者が出来る策略ではなかったが直也をプロテスト前の彼は認めていた。
「直也ー!直也ー!直也ー!・・・」
「ジャブ、ジャブ、ジャブ、ボディ、ボディ、ボディだ」
応援する観客は、打たれっぱなしの直也の応援を始める。これも策略の一つだった。この声援を聞けば相手の選手は焦る事もありノックアウトを狙いに来る。
しかし、そう簡単に策略にはまる選手でもなかった。ずっと打たれ続ける姿を見れば、何かがあると考えるだろう。しかし、目的の為なら直也は冷静に打たれ続けた。

相手がパンチを出さなければ、隙を突きながら軽いパンチを相手に当てるのだ。相手の選手は冷静にパンチを出す直也に、まんまと策略にはまっていく。
しかし、この策略は直也にとってもリスクがあったのだ。直也の体力は保持されるが身体のどこかを痛める可能性がある。
中学生の直也は、そんな事はどうでも良かった。
「勝ちたい、優勝したい」
この思いだけで直也は打たれ強いタイプとみられたかったのだ。
なぜか?それは前回優勝者に勝ち、優勝トロフィーを由子に渡したい思いがあった。直也が、この二ラウンドで何を求めていたのかと言えば最終の四回戦だけであったのだ。
この思いが闘争心に変わり直也に力を与えていたが、この思いは直也の奥深くの心にあった、まだ本当の直也自身は気づく事はなかった。
「直也ー!直也ー!直也ー!・・・」
久美子のような由子の声援が直也を石に変え、いや岩となりサンドバックのように殴られ続けていたのだ。
二ラウンド二分を過ぎると直也の姿勢に変化が起きた。初心者の直也にとってメリットよりもリスクが大きかった。
直也の姿勢は、やや下に下がりガードも甘くなっていった。
「やばいか!」
リンサイドにいるコーチは、次の試合は無くなると思い始める。コーチは会長の顔を見ながら首を縦にふりうなずいていた。
二ラウンドは、もう数十秒で終わる。三ラウンドで、もし直也の姿勢が崩れる事あればタオルを投げる指示を会長は出していた。
あと十秒、九秒、八秒、七秒、六秒、五秒、四秒、三秒、二秒、一秒。
「十、九、八、七、六、五・・・・・」観客がタイムカウントを口ずさむ。
きっと、観客達は興奮した応援のあまり叫び始めたのだろう。
直也が立っていられるかどうか?と・・・
そして・・・
「カーン!」二ラウンド終了のゴングが鳴った。

二ラウンドのゴングが鳴り直也はリングサイドの椅子へ戻ろうとするが、直也の足運びと歩く平衡感覚に変化が見られた。直也の身体は左に傾きやや疲れた感じ、リングの床を見ながらリングサイドの椅子に座った。
「どうした、直也?」
「え? なんで?」
「お前まさか、左腕を見せてみろ」
「はい」
「直也お前、左腕を痛めたな」
相手のパンチを打たれ続けた事で腕は赤くなり左腕はしびれ、直也は息を荒くしていた。
相手の選手は直也と同じ右利き、それだけに左腕にパンチが集中していた。ノックアウトKO勝ちを相手の選手は狙っていたのだ。
勝利の為の左腕を痛めた直也にコーチは、次のラウンドで動きが止まればタオルを投げると、直也に告げていた。
しかし、直也は、
「コーチ、タオルを投げるのは、次の試合にしてください」
「お前の身体の事、考えるのがコーチの仕事だ!」
「わかってます、でも俺は勝ちたいんです」
「このままだと、次のラウンドはもたないぞ」
「俺は、必ず勝ちます」
コーチと直也の会話を聞いていた、プロテスト前の彼は直也の持つ潜在的能力を考えている。
「直也、右腕はどうだ?」
「右腕は、問題ないです」
「なら、相手は体力をかなり消耗してる、見てみろアイツを」
「苦しい感じですね」
「そんな時は、左ストレートをフェイントして、右でボディだけを狙え」
コーチとは正反対に彼は直也の気持ちを優先させた。彼はプロテスト前だ、勝利と言うものを考えるのは当たり前だった。
「これからが本番だ」
直也の気持ちを良く理解していた彼だ。由子は直也の傍に行き涙目で笑う。
「直也なら、勝てるよ、絶対に勝てるから」
由子の言葉は直也の心に強く響くものがあった。
会長やコーチは一分の間、三人の間での会話を聞いていて直也なら勝てるか?と、そんな思いを持つようになる。
「直也、勝ちたいのなら、コイツの言う通り、ボディだ」
「もう、勝ちに行くしかないぞ、判定では相手が有利だ」
「そうですね、相手もそのことを充分理解してるはずですから」
「わかりました、やってみます」
いよいよ三ラウンドのゴングが鳴る。
「カーン!」
両者ともに勢い良く走り出しリングの中央で戦いは始まった。

両者ともに必死な戦いが始まり、負け劣らずパンチを出し合う。
ジャブ、ジャブ、ジャブ、フック、ボディー!
下がれ、下がれ、右だ
ジャブ、ジャブ、ジャブ、フック、ボディー!
左に回れ、左に回れ
ジャブ、ジャブ、ジャブ、フック、ボディー!まるでリズムを打つメトロノームになっているかのようだった。
繰り返されるパンチの連打、十秒が過ぎた頃、直也の右ボディが炸裂した。
相手は、一瞬、嫌な顔をし後ろに下がり足を動かし直也から離れる。
「直也のボディが確実に効いたぞ!よし!」
「直也ー!ボディボディボディー!」
直也のリングコーナーから大きな声が聞こえる。観客達は皆立ち上がり、リング上の二人の選手を見つめていた。
声援は一瞬だけ消え去り、しばらくすると大きな声援が始まる。この繰り返しだ。
直也は相手を追い詰めていく、どこまでも。
「チャンス到来か?」
直也の脳裏に、この言葉がよぎった。
「いける、いける、いける!」
直也が近づくと、相手はすぐにクリンチをするようになる。そして、相手のクリンチが多くなっていく。直也はクリンチをする相手を冷静によく見ていた。
相手のクリンチの瞬間を直也は見逃す事はなかった。徐々にクリンチをして来る間隔があいて来る。
直也は相手を追い詰めていく、どこまでも。
このクリンチは、ムエタイではクリンチ状態から頭や首を制して肘打ちや膝蹴りを放つ技術であるが、ボクシングでは相手に抱きつき動きを止める事である。
相手がクリンチする瞬間、直也のボディが炸裂する。相手はボディを打たれても必死にクリンチで逃れようとする。
直也はクリンチされる時、相手の息づかいを聞き、三ラウンド二分が経過した後だった。
直也は相手に対しクリンチさせず、ボディボディボディ!の連打。
「ボディボディボディ!ボディボディボディ!」
リングサイドからも、ボディボディボディ!の声ばかりが聞こえる。
ボディボディボディ!の声援で、直也は右アッパーのように必死にボディ。直也のボディが炸裂すると、相手の選手は無防備状態になりボディボディボディ!の連打によって、相手の選手はリング床に膝まついた。
ダウン・ダウン・ダウン・ダウン・ダウンだ!ダウンを奪いカウントダウンだ!
「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス・・・」
相手の選手は首を振りマウスピースを吐き出し、相手のリングコーナーからタオルが投げられた。
この三回戦三ラウンド、激戦の末、直也の手が挙げられた。

直也の三回戦目の勝利、手が挙げられた時、直也の瞳には涙が浮かぶ。リングサイドに向かう直也は、もうろうとしながら歩いていた。
「おれ、限界かな」と、弱気になる直也だった。痛みからの苦しみは直也にとって初めての事だった。
こんな思いに駆られながらリング下に降りる。
四回戦目までは、休憩は十分だけ。しかし、レフリーや審判員達は何かを話し合い主催者側と協議を行っていた。
直也がリング下の椅子に座った時だった。
「四回戦、優勝決定戦は、三十分後に行います」
「どういうことだ?」と、誰もが思った。
優勝決定戦には協議の結果、充分ではないが三十分の休息。これまでにない試合が行われ、直也をドクターに診てもらう事だった。審判員は、このまま直也が試合を続けられるか気にかけていたのだ。
直也達は控室に行き、ドクターの診察を受ける事になる。
「君は、なぜ、あそこまで・・・」
「先生、俺は勝たなきゃならないんです」
「なぜ? 教えてもらえないか?」
「相手に勝つ為だけにボクシングはしてないんです」
直也はドクターと話をしながら診察を受けた。ドクターが言うには三ラウンドは無理だと、会長に話したが会長は反論する。
「先生、私は直也の問題と考え、試合に出場させたんですよ」
「もしもの事があったら、だれが責任を・・・」
「私が責任を取り、ボクシングジムを閉鎖します、保証も」
「会長!」
「なあ、直也、お前の気持ち充分感じたぞ、やれるか?」
「・・・はい、できます」
ドクターは、しばらく考え直也の左腕にテーピングを巻いた。そして条件が付けられた。
もしも、左腕が下がりガードも出来ない状況になった時、タオルを投げるようドクターは指示を出した。
その指示に会長達は従うという事で試合続行が認められた。
直也は筋肉質の身体だが誰が見ても左腕の腫れはわかる。相手の選手は必ず直也の左腕を見ながら戦うだろう。
もう、どんなに策をこうじても、左腕が動かなくなれば勝利はない。
「俺は、必ず勝ちます、どんな事をしても勝ちたい!」
「何故、そこまでして勝つ事に拘る?」
「この試合の勝利は、俺自身の勝利なんです」
「自分自身に勝ちたいという意味か?」

直也の中には、友の死によって抱いてはならないものがあった。怒りと憎しみ、憎しみが憎悪となる事が直也は怖かった。思春期の直也は自分の心と向き合う事も怖かった。
捉われた感情から逃れたい、逃れたいといつも思っていた。仲間がいても直也の抱いた思いは、仲間達には判らない。ただ漠然と感じるだけの仲間達、それだけに直也は孤独だった。
ボクシングを学ぶ事で直也は知った事があった。スパーリングで倒され、意識を失った時の涙が直也のありのままの心だったのだ。涙を流す事で負けを認めると、直也の持つ感情を大きくしてしまう。
直也は決して負ける事を認めるわけにはいかなかった。そして、強い自分をいつも寄り添ってくれた由子に見せたかった。
由子が直也に対する思いは伝わっていたものの、久美子の死が由子への思いを打ち消してしまうのだ。由子は直也の本当の心を知っていた。直也と由子の関係は幼なじみであり由子の片思い。
由子は久美子に渡された、久美子が作っていた大切なアクセサリーを直也がリング上で戦っている時、ドリームキャッチャーを握りしめていた。
直也はリング上で戦い由子はリング下で自分の気持ちと戦っていたのだ。
由子の直也への思いは、十二年もの間、変わってはいなかった。
「時間だ、そろそろ行くぞ、直也」
「絶対に勝つって、約束してよ、直也」
「え?おまえ・・・」
由子の思いは直也を思うだけでなく勝利への導きであった。由子の思いを受け入れる事の出来ない直也にとって、この試合だけは由子の希望通り勝利しかないと思う直也だった。
控室を出て廊下を歩きながら直也は自分が出来る事を考える。これまでの三回戦で何を学んできたのか?
直也には試合で学んだ事を生かせる事が出来れば必ず勝てる自身があったが、それは後々の直也に襲い掛かるものでもあった。
直也は一回戦目からをさかのぼって考えた事がある。それは、パンチを繰り出す時のバランスとパンチ後の引き際である。このタイミングを逃すと相手の策略にはまる。
四回戦の相手は前回プロ並みの選手、そして優勝を勝ち取った。直也と相手の選手の身長差や腕のリーチ幅に大差はなく、試合を見る限りパンチ力は直也以上とみられる。ただ違いと言えば足の5センチほどの長さだ。
この差が直也のフットワークに活かられれば、相手のパンチ力へのリスクを有利に変える事が出来るとリングサイドでは考えていた。
直也は、引き際のタイミングだけで勝負を挑む事を考える。しかし直也の左腕が耐えられるかどうか。
「あのフットワーク、どう引いたらいいのか・・・」
直也が引き際の事を考えていると、プロテスト前の彼は直也に何かを察知したのだろう。
「直也、引き際の時、パンチを受けながら弾く事が出来るか?」
「先輩、どういうことですか?」
「相手のパンチを受けている事が、相手にとって不安材料になる」
「不安材料ですか?」
「相手はパンチが当たってると思い始めるはずだが相手はパンチ力に自信を持っているんだ、それを逆手にとれ」
直也は彼の言葉を信じてみようと思った。しかし、どうしたらそんな事が出来るのか?直也はボクシングを始めて約四カ月の素人と一緒だ。
「試合の中で、学ぶしかないか?」
直也は不安とプレッシャーの中、試合会場へと向かった。

直也と前回優勝者の相手が会場へ入ると、観客席から拍手が湧いた。直也は周囲の観客達を見つめると何故かファイトが沸いて来た。
左腕の痛みは観客達の声援と拍手によって少しは和らぎ消え去っていく。
「なんなんだ、これってなんなんだ」
直也は、声援によって不安もプレッシャーも軽くなるという事は初めてだった。思春期の直也は、それが何故なのか知らなかった。
思いもよらぬ感情に捉われていた感情が消えていく事が信じられない。
試合開始まで、あと五分、椅子に座り何度も深呼吸をする直也。その直也の肩や首をマッサージするコーチ。由子は強く強くドリームキャッチャーを握りしめ直也の勝利を祈っていた。
「久美ちゃん、直也に力を与えてね」
直也は軽く体を動かしながらリングの上の椅子に座った。プロテスト前の彼は、直也の耳元で同じ事を囁く。
「引き際のタイミング、相手のパンチ力を弱くしろ・・・」
直也は、彼の声にうなずきながら時計を見るとあと一分後、直也の口の中にマウスピースがはめられた。
そして、あと十五秒後「両者、リングの中央に・・・」
レフリーからの言葉によりリング中央に歩き出す二人の選手。直也と相手の選手は見つめ合い首を縦に振り挨拶を交わす。
四回戦目「カーン!」ゴングが鳴った。

ゴングと共に両者ともに軽いフットワークで距離を測りはじめた。そして、直也の左腕を気にしながら相手の選手はジャプを打ち始める。
そのジャブは軽いもので相手の選手は何かしらの策を講じていると直也は思い、その策略にのってみようとする。
右利き同士の対戦だ、コーナーからは動け動き回れの指示。
直也は、その指示を無視し相手に向かっていく。
「直也は馬鹿か、それとも変人か?」
それもそのはずハンディのある直也はフットワークで相手を追い詰めている。追い詰められる相手は嫌な顔も見せず左ジャブで距離を計る。
「来いよ!来い、来いよ!」
優勝経験のある相手は余裕で直也に声を掛ける。一ラウンド二分を過ぎた時、相手の右ボディ、直也は左腕で受けた。
相手の右ボディーの連打、直也は左腕でカバーをする。
「やばいか、まずいぞ!、直也ー!離れろ!」と、コーナーサイドでは叫び、ボディの軽い瞬間に直也は左腕で受けながら右に動いていた。
「軽い、軽いぞ、パンチが軽い、このタイミングか」
直也は一瞬の瞬発力で相手のパンチ力を弱める事を知った。相手の選手は、この一ラウンドでダウンを奪おうと考えていたが、ダウンを奪う事が出来ない事で、相手選手の胸の内に直也は何かを植え付けていた。
「次は、顔面か?それとも、ボディか?」
直也は左腕に軽いパンチを受けて続けていたが、あえて左腕を下げ次のパンチはどんなものかを試す。直也が左腕を下げると相手は右フックを直也の頬に打って来た。
まともに受けてしまった直也は、よろけるがロープに助けられダウンと観られる事はなかった。一瞬の隙で相手の右フックの強さを感じる直也であった。
「まともに受けるのは、まずいな」
直也はロープに助けられた時、相手のパンチ力の強さを知った。
「どうする?どうする?俺」
「カーン!」
相手は直也の身体がよろけた瞬間、ロープからのカウンターを狙ってきたが直也は相手にクリンチで逃げクリンチ後、一ラウンドのゴングで直也は助かった。
直也は自分のコーナーへ戻らず、もうろうとしていた。相手のフックをまともに受けたせいか自分のコーナーを一時見失った。
「直也ー!、こっちだー!」
コーナーサイドからのコーチの声で、息を荒くしながらコーナーへと戻った。
「直也、大丈夫か?左腕が下がってるぞ」
「すみません・・・」
「左腕は、きついか?いたみは?」
「腕は、下げてみたんです、何かを見つけないと勝てない」
「左腕は、大丈夫なんだな」
「はい、問題ないです、ただ、相手のパンチ力は凄いです」
コーチと直也の会話を聞きながら会話が終わると、プロテスト前の彼は囁いた。
「直也、お前何か、見つけたか?」
「なんとなくですけど、どうしたらいいのか解らないです」
「なら、あたりにいき、当たった瞬間後ろに下がる事が出来るか?」
「え?あたりにいくんですか?」
直也はボディを受けた時の事を考えていた。相手のパンチが顔面を打って来た時も、ボディの時と同じように当たりながら後ろに下がる事が出来れば、相手のパンチ力を軽く出来ると直也は思った。
二ラウンド目、直也は実行に移す事を考える。
「フェイントで隙を作り、あたりにいく、か・・・」
直也は深呼吸をした時「カーン!」二ラウンド目のゴングが鳴った。

ゴングが鳴った時、直也はすぐに立ち上がろうとはしなかった。一ラウンド最終の時の相手のパンチでよろけ、直也の体力は落ち気力はあっても身体が動かなかった。
直也が立ち上がらない・・・観客達はざわめきだした時、直也は焦るかのように立ち上がりリングの中央に向かう。
体力だけでなく、直也の足にも何かしらの影響があったのだ。この二ラウンド、直也のフットワークは限界に達していたのか。
相手の選手は直也の動きを見ながら、おそらくノックアウトKO勝ちを狙っている。
直也も一ラウンドでノックアウト勝ちを狙い、パンチの数は多く体力も落ちていたが、軽いフットワークは減少する事はなかった。
直也は、相手からの軽いジャブに圧されピンチの状態が続く。
「大島!直也!、大島!直也!、大島!直也!・・・」
観客の声援が直也の応援に変わっていくが直也の動きは完全に相手のペースによって崩され、相手のパンチは相手の思い通りに直也の顔面をとらえていた。
「やばい!やばい!やばいぞ!」
「直也ー!離れろ!直也ー!離れろ!直也ー!離れろ!」
コーナーの声は、もう直也の耳に入る事なく直也の左腕は下がりつつありガードは右腕しかない。
「よーし!行けー!行けー!行けー!」
相手サイドからの声だけが聞こえてくる。直也は、どこまで耐えられるのか?このまま続けるか?直也の左腕のガードは下がりつつあった。
会長はコーチの肩をたたき、コーチはタオルを握る。
「もう無理だ、立っているだけで、もう直也には無理だ」
プロテストの彼も首を振り、もう直也には無理だと言っているようだ。
コーチがタオルを投げようとした時、由子はコーチのタオルを握る。
「なんだお前、もう終わりだ!無理だ」
「直也は、何かしようとしてるんだと思う」
「あれを見てみろ!もう無理だ!殺す気か!」
「もう直也は死んでるわ、きっと戻って来るから」
「女のお前に何がわかる?」
「女の私だから、わかるのよ!」
由子は、コーチだけでなく会長からもプロテストの彼からも全てのタオルを強引に手で取りあげる。
「タオル投げるなら、私が投げるから」
「お前は、直也を殺す気かー!?」
殴られ続ける直也、相手は思い通りにジャブにフック、ボディ。それでも倒れない直也。ノックアウトを狙う相手。
しかし、直也は倒れるような様子ではなかった。会長やコーチは焦る事から直也の様子を冷静に見始める。
「あいつ、まさか・・・死ぬ気か?」

直也は喧嘩をしていた時の事、仲間達の顔を思い、そして直也の中にある怒りや憎しみの感情を打たれ続けている中で思い出していたのだ。
「打てよ、打てよ、打てよ、打てよ、打てー!」
直也は心の中で打たれる痛みよりも、失った苦痛の方が何よりも痛みを感じていたのだ。そして、直也自ら相手のパンチに頭突きをするように直也は気づかないうちに打たれ強い自分を相手にも周囲の観客にもレフリーや審判員にも印象付けていたのだ。
直也は何時しか何も考える事なく本能だけで戦っていた。
「もっと打てよ、もっと打てよ、もっと打てよ・・・」
このまま時間が流れ、判定まで持ち込んでも勝利はない。この二ラウンドは、直也にとってこれまでより苦しい戦いだった。
それでも、体が倒れそうでも打たれ続ける直也だが、相手はノックアウトに焦り始めパンチが当たっているのに、どんなにパンチを打っても直也は立ち続けてる事に、どんどん焦り始め直也への恐怖心を持つようになっていく。
「ダッシュ!ダッシュ!ダッシュ!ダッシュだー!」
相手のコーナーからの声が直也には良く聞こえるようになる。
「もっと打てよ、もっと打てよ、もっと打てよ・・・」
直也の心は研ぎ澄まされていく、もろい刃が鋼鉄の刃に。
「直也ー!離れろー!直也ー!離れろー!」
直也のコーナーのコーチ達の声も聞こえるようになると、直也は何かに取りつかれたように打たれる事に笑みを見せる。
「来いよ!殺してみろよ!来いー!来いー!来いー!」
直也は、もう自分が見えなくなっていく、もうボクシングじゃない。この二ラウンドは直也を無心にし直也の持つ素質が育ち始めていたのだ。
「もう無理だー!直也ー!やめさせろー!」
誰がどんなに叫んでいても、直也の耳に入る事がなくなった。
「俺なんか、生きてても仕方がないよな、クーコ、春樹よ」
直也の中にある思いが、久美子の命、春樹の命を蘇えらせようとしていた。
そんな時だった「カーン!」2ラウンド目の終了のゴングが鳴った。
直也は、よろけながらでも笑みを浮かべながら何かに取りつかれたように、真っ直ぐ自分のコーナーの椅子へ足を向ける。
「直也!聞こえるか!」
「へへへ、へへへ、はい、次です、次ですよ、俺が死ぬのは」
二ラウンド終了後、直也は狂ってしまったのだろうか?会長やコーチは直也の脳へのダメージを考える。プロテスト前の彼は、直也の前に立ち直也の瞳を見つめる。
「おまえ、まだやるつもりか?マジで勝つもりか?」
「はい、俺は勝つ、必ず俺は勝つ、おれは必ず・・・勝つ」
プロテスト前の彼は、直也の頬を軽く叩き声を掛ける。そして、直也の瞳を見つめている。
直也の眼つきは、死んではいない、むしろ輝くような瞳だった。
「直也、思い通りに戦え、戦って優勝を勝ち取れ!」
プロテスト前の彼と由子だけは、直也の本当の姿を見ていたような気がしていた。
「直也なら、どんな事をしても勝てる、優勝は目の前だ」
由子は、久美子の渡されたドリームキャッチャーを強く握りしめる。
「神様、お願い」
「カーン!」
ラストチャンスの3ラウンドスタートの鐘が鳴る。

疲れきっているのは直也だけではない相手の選手も同じだ。ラストチャンスへ向けて両者リングの中央に走る。
その時、リングの中央で起きた出来事は誰もが予期せぬ事だった。
息を荒くしガードの下がった直也の顔面に相手の選手は右ストレートを放ち、直也はまともにパンチを受けてしまう。
「ダウン!ダウン!ダウン!ダウン!ダウン!」
直也の力は抜けロープの前で膝まつき、全て終わりかのようにリングの上に直也は倒れこんでしまった。
カウントダウンの声だけが直也に聞こえてくる。観客達や関係者などは総立ちとなり直也の経過を見守る。
そんな時だった。
「直也ー!見てよ!こっち向いてー見てよー!」
由子の必死な声は直也の眼を開けさせ由子が直也に見せていたのは、久美子が仲間達に残し思いを託したドリームキャッチャーであった。
「直也は死なない、こんなとこで倒れてる場合じゃないでしょ!」
由子の叫びと反対に会長やコーチ達は、直也に大声で叫んでいた。
「もう無理だ、直也!立つんじゃない!」
由子の声掛けで直也はレフリーのカウントダウンの声が消えた。
時間が止まったように、直也は由子のドリームキャッチャーを見ながら幼き頃の事を思い出していた。
春樹と久美子、直也の三人で小さな輝く蛍の群れを見ている。三人は輝く蛍の灯火を見て驚きながら笑顔で見ている。蛍の群れの後に見ているものは夜の海辺で見る月明かりだった。
月は海に明かりを灯し、その灯火は3人の歩いて行く道のように一本の線だった。灯された一本の線が消え去ると、そこには海の中に蛍の灯火。ホタルイカの大群は海の中で輝きを見せる。
まるで夢世界の中にいるかのような直也だった。

その夢の中で春樹と久美子を見つめた直也は、由子が手を伸ばしドリームキャッチャーを直也に近づけると、直也は荒い息をつきながらヨロヨロよろけながら立ち上がろうとしていた。
「ガンバだよ!ガンバ!ガンバ!」と、由子は叫ぶ。由子の声に合わせて周囲からもガンバの声援。
この時、これは「頑張れ!」の意味ではなかった。幼い頃の直也と久美子はガンバの冒険というアニメを見て久美子が気に入っていた言葉だ。
ガンバの冒険というアニメは、久美子にとって元気になれる番組であった。
「なんでだよ由子、なんでお前が知ってるんだ」と、直也は思った。
由子は幼い頃から久美子のお気に入りだった言葉を口にせず、久美子が消えてからガンバの言葉は由子が受け継がれていた。
ガンバの意味を知らない観客たちも、由子の声に合わせて、ガンバ!ガンバ!ガンバ!…。
ガンバの言葉が大きく大きく大きな声援となり、崩れかける直也の心に再び戦いの炎を与える。
そして、ふらつきながら直也は眼を大きく開き立ち上がり、レフリーにやれるぞという意志を伝えていた。
「ファイブ、シックス、エイト・・・」
直也は立ち上がりレフリーに腕を上げ試合は続行と知らせる。レフリーは審判員達や直也のコーナーを見て試合続行を伝えていた。
「なんだアイツ、何で立ちやがるんだ!ハァーハァー」
直也が立ち上がると相手の選手は息を荒くし首を振り虚ろな目つきで直也を見つめ、ゆっくりとリングの中央まで歩き直也を待っていた。
「大島直也ー大島直也ー立ちましたー」

このアナウンスが観客達は聞くと今までで最大の声援が起きた。椅子に座る観客達は、誰一人おらず立ちながらの声援だった。
その声援によって残り二分、直也はどう戦うのか?直也にとって最終ラウンド、判定負けになるのか?
直也は永遠の別れとなった春樹と久美子の姿を見た時、そして由子が見せてくれたドリームキャッチャーによって、直也の気力は復活し本能のままボクシングが進められた。
おそらく相手の選手は、そんな直也を見て判定勝ちを狙っていたのだろう。
直也は無心の中、そんな相手を見て軽いフットワークで軽いジャブを出している相手を見逃す事はなかった。
「おれは、おれは、俺は勝つ!」
直也は限界を超えていたが、一瞬の瞬発力で相手の懐へ入る。
相手は嫌がりクリンチで時間を稼ごうとする。前回の試合で学んだタイミングを武器として何度も繰り返し相手の懐へ何度も入り込む。
偶然なのかわからないが直也のボディ一発が相手の動きを止めた。
残り一分をきったところで・・・
直也のボディが炸裂し相手は逃げるが阿修羅のような直也は逃がさない。
「イケー!直也ー!ボディー!ボディー!ボディー!」
直也のコーナーサイドからの声に合わせるかのように、直也のボディーは相手の選手の全てを奪いリング上に沈めた。
レフリーのカウントダウンが始まった時だった、相手のコーナーサイドからタオルが投げられた。相手のコーナー下では皆首を振っていた。
「大島!直也!大島!直也!大島!直也!大島!直也!」
そして観客達は直也に向けての声援一色になった。

「勝ったぞー!」直也の耳に入るのは、この言葉だけである。

試合後から2週間ほど静養した直也が戻ってきた。
「直也、プロになって見ないか?」
「いいえ、俺は約束を果たしたし、高校決めなきゃ」
「ねえ、直也の約束って何?」
「さあね、俺だけの約束かなあ」
薄暗いジムのリングの上で直也と由子、会長の3人で話をした。直也の約束は久美子と春樹の為、そして由子へのの約束。直也は由子に話す事はなかった。
このボクシングでの体験は直也の心を成長させた。心のもろさ、心の強さ、このバランスを持たなければ、これからの直也が消えてしまう事を学んだ。
しばらく時が流れると直也はもう中学三年生だ。もう直也の通う中学校では、暴力的なものはほとんどなくなった。
「静かなもんだなあー」

もう苦しむ事もない直也。この一年間だけは…。

あとは今後の進路の事だけだ。両親や仲間達と相談し合いながら三者面談、模擬試験、進学への道を直也と仲間達は歩いていた。
直也は、地元の公立高校と春樹のいた街にある私立高校を受験する。誰もが直也と同じ地元の公立高校へ通えると思っていたが、直也は春樹のいた街へ地元から2時間かかる私立高校を選んだ。
直也の父と春樹の父は兄弟である。直也は三年間で失った命の思い出がある地元に残る事が出来なかった。
由子は、直也に告白したが直也は受け入れる事はなかった。

由子は「好きだ」という気持ちを直也に告白したが、彼は由子の思いを受け入れる事はなかった。
本当の気持ちは「好きだよ」と言いたかった。でも今の状況では直也は無理だったのだ。

「しばらく時間が欲しいんだ」
「ちゃんと考えておいてね」
直也の進路の行方によって、由子との会話は全てシャットダウンされるかもしれない。

卒業前の事、直也の竹馬の友と言える暴走族の特攻隊長の宇冶木大地とある約束をした。
大地は、直也のボクシングトーナメントを壁に寄り添い見ていたのだ。
直也が試合中もうろうとした時、見つめていたヤツであった。
「お前は俺とは違う、お前は強く、俺の誇りだな」
「何言ってんだ、俺なんかどうでもいいだろ」
「試合見たよ、お前は強く優しい、仲間が慕うのがわかるぜ」
「俺はもう、地元に残るつもりはないよ」
「そういうと思ってたよ、苦しかったろ直也、でもただ約束してくれ」
「約束なんかするかよ」
「俺は、これから年少に入るが、お前の拳は凶器だ、絶対使うな」
「年少かー、大地も覚悟してたんだよな」
「ああ、お前と同じ、覚悟して生きて来て苦しんだかな」
「たまには会いに行くよ、お前の馬鹿顔見にな、近くなるから」
「お前、春樹の所行くんか?」
「さあな、お前に話しても意味なし、年少入れば、お前は静かになるよな」
「長い付き合いだよな、お前との約束守るよ」
「これー久美子が、俺のところに持ってきたよ」
「久美子のドリームキャッチャーか、それが無かったら勝てなかったよ」
「そうか、良かったな」
「なあ大地、お前にはお前に向いた仲間がいるだろ、俺にもお前の仲間と違う仲間がいるんだよ」
直也は、いつかきっと本当の自分自身を見つける冒険に出かけようとしていた。

「僕も君達も独りぼっちじゃないんだ!」
卒業式が終わるとクラスのまとめ役である由子の代わりに直也が叫び言った。
中学校最後の直也の言葉だった。
きっと誰もが中学校という現実に苦しめられていたのだと思う。
教室の雰囲気が一瞬にして急変しクラスの生徒達は静かになり、中学時代の何かを思い出していたのだろうか。
涙目になる生徒、泣く事を我慢する生徒、手を強く握る生徒、窓の外を見つめる生徒、あっけに捉われる生徒、生徒には様々なドラマがあったのだろう。
教室内の雰囲気を見てクラス担任教師は何も話す言葉はなかった。
その教師も話したかったのだろうが、直也の直球のような言葉で何も言えなかったのだ。
教師の間接的な言い方で話は長くなるだろう、しかし直也は教師が言わんとする事をたった一言で伝えていたのかもしれない。
「卒業おめでとう」
中学最後に一言だけ担任教師は言った。この教師は初めて担任を任された教師で僕らは初めての卒業生になる。
涙を流しなら、みんなありがとう、と何度も繰り返し涙を流していた。
クラスメイトからは、泣き虫先生と良く言われていた。でも担任教師は初めての卒業生を持ち教え子を持った事が嬉しかったのだろうな。
その後は卒業アルバムに、みんなで笑顔になりメッセージを書いていた。
そして直也のアルバムのメッセージには「ありがとう」という言葉が多く書かれていたが、直也はアルバムのページを開く事はなかった。
いつの日か中学のアルバムを開きメッセージを読む直也の姿はどんなものだろう。

直也は大地の思いを受け入れ約束し地元から春樹の街へ向かう。高校へは春樹の自宅から通う事になる。

引っ越しの準備をする母、2、3日で準備が終わった。
直也が引越しをする前日の夜に直也は由子の夢を見る。
「また会おうよ、いつでも会えるよね」という由子の言葉から始まり、由子のメッセージが夢の中で語られた。

私が「恋する乙女」になれたのは「恋」って、こういうものだと教えてくれたのは直也のおかげだったかも。
私と直也は保育園から中学まで一緒だった。保育園の時「金子清美(かねこきよみ)」さんも一緒にいて、直也は清美の事を好きだったと思う。女の直感かな。清美も同じ思いで行事が無い時は、いつも二人で一緒に遊具で遊んでいたから。
直也を見てると何故か安心感があって、幼い時の事だからあまり覚えてないけど、駄菓子屋さんの店の前で良く直也たちは遊んでいて、仲間に入れてもらえなかったのを良く覚えてる。
でも清美は違った。清美は毎日じゃなかったけど、行けば仲間になるというのか、直也が喜んでる姿をみせて仲間のように遊んでた事を思い出します。

私は清美がうらやましかったな。幼い頃から嫉妬していたみたい。
直也と近くにいて清美のお迎えが来るのが遅くなると、直也のお迎えがあっても直也は清美のそばにいて一緒に遊んでた。
清美は親の仕事上で引越しをするということ聞いたのは、一年ほどたってからだったかな。
引越しのあと1カ月頃、直也と清美は、いつもよりも笑顔で寄り添いながら遊んでた。私は幼いながらに嫉妬して、わざと直也の下駄箱にゴミを入れてやった。
「最悪だったわ。でも・・・」
直也の事をその時、好きか嫌いかなんて考えた事はなかった。自分でも良くわからなかった。ただ嫌だった。
清美の引越し前日、保育園が終わると保育園の門のところで2人きりで何かを話していましたね。
少し離れた所で直也と清美のお迎えさんも何かを話しながら、2人の話が終わるのを待ってたような気がします。

清美がいなくなってからの事、直也はクラス全体が仲間のようにして遊んでた。きっと寂しさを笑う事でまぎわらしていたのかも。
保育士さんも大変だったろうなと思ってた。そして、小学校に入る頃には色々な感情が生まれて好きか嫌いかなんて話も出来るようになってた。
小学校では同じクラスになる事はなかったけど、直也の噂話はよく聞いてた。
「女の子に泣かされてるって」私は噂が気になって様子を見に行ってた。
休憩時間や自由時間の時、直也の事を見にいったんだけど、結構、掃除用具でやられてたな。
もう一つの噂は「わざと泣かないと、終わらないんだ」と言う事。
あの子「井上」さんて言ってたと思うけど、直也の事が「好き」だったのかもしれない。

小学校の高学年になると、そんな噂もおさまり中学生になりました。地元以外に転校する子もいたけど殆どが顔見知りだった。
中学に入って直也と同じクラスになれてクラス委員を頼まれ、いつも直也の事が気になってしょうがなかった。話をすると以前とあまり変わらず、ただの幼なじみの会話かな。
私の一番好きな授業は音楽でした。
音楽の授業は週に2回あって席は自由席で、直也はいつも1人一番後ろ、私と友達は2人で直也の前に座ってた。この授業の時だけは誰にも席取りは負けられなかった。
この時ぐらいしか直也と話が出来る時がなかった。
直也の周りには友達が集まっていて、 私はその風景を見る事がすごく嫌でした。
私にも親友と呼べる1人の友達が出来たんだけど、2人で直也の事を見てた。
「えーっ!」
その親友は直也の事が好きだという事を私に告白してきたわ。小学校の時と一緒だって思った。
直也は中学生になってから他のクラスの子からも手紙をもらったりしてた。
でも直也がどんな思いで中学を卒業したか、良く知ってるのは私だと思うようにしてました。
小さい頃からずーっと一緒だったんだもの。本当に苦しくて泣いてる直也の姿を見たのは私だけだったもの。
私は直也と一緒に苦しんでいきたいって思いました。

そんな思いで中学卒業式が終わってから、私は直也に「好きです」という告白をしたけど遠くへ行っちゃった。
私から見た直也は「優しさか思いやりか・・・」なんて思った。直也は、きっと一緒に苦しめたくなかったんだと思う。
直也の内面には暖かさや優しさ、思いやりの心を持っていたもの。
私は、そのあと自宅へ帰って缶の箱の中を見てみると、直也と一緒に描いた絵が1枚だけを出して良く見てると涙が止まらなくなりました。
その絵の中に描かれたものは、直也と私が結婚式を挙げている絵だったからです。
小学校入学前に描いた絵だったと思う。
直也と私には秘密が一つだけあったかな。 怒りや憎しみをどうしていいか考えていて私の叔父が持つボクシングジムへ通っていたこと。
直也の練習をベンチに座って、ずっと見ていたの。直也は本当に苦しかったんだと思う。

ジムに入って直也は変わった。いいえ、そうじゃないのかも、アマチュアボクシングのチャンピオンになってから変わった。顔つきも考え方も全てが変わったみたいだった。でも、忘れられない事からの悲しみだけは直也を苦しめていたかな。直也の事を真一君へ手紙で報告したわ。また何処かで出会う事があるかもしれないと思ってね。出会う事がなくても直也が元気でいる事で、きっと真一君も元気になれると思ってね。
返信はなくて届いたかどうかはわからなかった。
でも私の役割かなって思ったから。

高校の3年間一度も直也には会いませんでした。もしかしたら私を見ると昔の苦しみが、再び直也に表れてしまうのではないかと思ったからです。
私は、この三年間で少しずつ大人になったような気がして直也の事は忘れようとも思いました。でも忘れる事がどうしてもできなかった。
大学への進学を決めた私は直也の両親のもとへ行き、直也の居場所を聞き一度だけ会いに行きました。直也はラーメン屋さんの後継ぎになり、声をかけようとした時 「直也」と呼ぶ女性と会いました。2人の関係は女の直感ですぐにわかりました。
中学の時の直也を思い出すと今の直也と違う事を感じました。
声をかけていたら、もしかしたら後ろから追いかけてきてくれる、なんて思いながら。
私は大学へ進学してサークルに入り直也の事は忘れず、直也の気持ちも良い思い出として残す事にしました。
直也は今、何をしてるのでしょう。
きっと仲の良いお仲間さん達と毎日を生きているのでしょうか。彼女と仲良くしてるのかな。正直に言うと、あの時声をかけておけば良かったと後悔する時があります。
またラーメンを食べに行けばいいのかな。私は18年の間で一番良い思い出を直也からもらった気がします。

なんなんだよ未来を創造するなよ由子、と思うと同時に直也は飛び起き窓のカーテンを開ける。
息苦しさを感じていた直也だったが、窓を開けると太陽の光は眩しく、少し肌寒い風は彼の心の中を一瞬にしてすり抜けて行った。
夢を見るのは当たり前だと思っていた直也だが、これで過去と未来の2人目の彼女の思いを感じると戸惑いうばかりであった。
しかし、その戸惑いは春樹のいた新天地へ車での引越し中に薄れていったが、心の隅の引き出しに直也は置いていた。
久美子とは肩で寄り添い永遠に心に残る関係、由子はひざ掛け毛布のように暖かい温もりをくれる関係だったのかもしれない。

何故、久美子は魔除けのアクセサリーを選んだのだろうか。
「そうか、だからドリーム・キャッチャーだったからか」
直也は幻の夢を観る事の意味を由子の2度目の夢で久美子の「糸」がわかったような気がした。でも偶然だったのか?
しかし、久美子からもらった仲間達はドリームキャッチャーの意味を考えた事があるのだろうか。

ありがとう、いつまでも、ありがとう、忘れないで・・・。
君達は孤独じゃないってこと。

運命とは言い切れないが・・・
高校へ通う直也に再び襲い掛かるものがある。出逢いと別れの繰り返し、またもや暴力との戦い、直也の時計は空回りする。が・・・。
中学同様、悲しみ苦しみ重い荷物を背負う直也は、高校を卒業していけるのだろうか。

久美子の思いや願いは、なぜか後にも新たな出会いの中で受け継がれていく。
直也が中学を卒業するまでの間に、直也の母と若年で永眠した春樹の母はある相談をしていた。
直也には弟が2人いた。春樹の母は子供が生まれてくる体ではなかった。それだけに春樹を愛していた。
直也の父や春樹の父は、母達の相談事は知っていたのかもしれない。
春樹の母の思いがそこにあったのだろう。
子を失った悲しみは、いつしか救済を求めていた。
直也は母達の秘密の約束事は、何も知らされず、父達や母達の思いも知らず、気づく事もなく中学を卒業していく。
卒業と同時に、大島直也の環境全ての転換期の訪れである。

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2019H31:明けましておめでとうごさいます

2019-01-01 13:52:34 | イラスト

明けましておめでとうごさいます
本年も宜しくお願いします



今年は平成から変わり2019H31は元年となりますね
年号はまだわかりませんが新しい元号となり新しい日本の始まりです
皆様、新しい出会いや新しい事へのチャレンジが出来るよう願っています
お体を大切に、体調不良になりませんしょうに


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水彩画イラスト:バッドボーイズ<2>メリークリスマス

2018-12-14 12:33:06 | イラスト

水彩画イラスト:バッドボーイズ<2>カラーバージョン
メリークリスマス


アザラシなどをテーマにした水彩画キャラクターイラストレーションです

モノクロ:イラスト:バットボーイズ

いよいよ寒くなってきましたね
皆さんインフルエンザに気を付けて体調に気を付けて
メリークリスマス
良いお年を、お過ごしください



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ペンキ:エアーブラシイラスト:壁画

2018-12-09 10:08:54 | イラスト

ペンキ:エアーブラシイラストレーション:壁画

中央の壁画


右側の壁画


左側の壁画


20代半ばの頃に描いた駐車場の壁画です。
ペンキを使用してエアーブラシで作成しました。
高さ約3メートル、中央約8メートル、右側、左側

入り口の壁の壁画


現在:駐車場は取り壊され建物はありませんが駐車場にはなっています



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セイネンキ・ゼロ・君は独りじゃない<前編>

2018-12-04 10:42:24 | セイネンキ・ゼロ/君は独りじゃない



人は誰でも宝物を持っている。宝物は人それぞれ違うが大切な物であったり大切な人であったり恋人であったり大切な心であったり。恋は気づかないうちに心の中で感じる。良いタイミングで気づいたり、気づいた時には遅かったり。青少年期、直也という主人公が大切なものを失い心が揺れ動いていく物語です。

直也には大切な妹分の久美子がいた。そして、春樹という同じ年の従兄弟がいた。他に、幼少期に出会った転勤族の真一がいた。
まずは、直也と久美子との関係は・・・久美子は直也の一つ下の妹分であった。直也の家と久美子の家は隣どうし。久美子の大切なものは直也だった。
この頃は、恋をしていたのか気づく事はなかった。久美子はいつも「ドリームキャッチャー」というアクセサリーを作り続けていた。
一般的には、迷信で、魔除けや悪夢を取り除き眠れない子供を眠らせるというものだった。
久美子の口癖は「直兄ちゃん、久美子が守ってあげる」であった。
直也からすれば何を言っているのか意味が解らなかった。でもこの頃の直也は久美子の笑顔に何か救われているような気がしていた。時が過ぎ直也と久美子が中学生になると、久美子は電車事故で神は直也から久美子という存在を奪い去ってしまう。
直也の心中には、どうしても事故とは思えない、自殺とも思えなかった。警察が事故処理したことを信じる事が出来ず、久美子の死によって、直也は苦しんでいく。
直也には仲間が多くいたが、心の中には孤独感が産まれ、痛と苦痛に悩んでいく。中学生の直也は久美子の死によって、久美子への思いを恋だったとして感じていた。久美子は直也に「ドリームキャッチャー」だけを残し天国へ旅立ってしまった。久美子が亡くなった場所には、多くの花束とドリームキャッチャーが飾られていた。
なぜ、ドリームキャッチャーばかりなんだ。携帯もない時代あの頃は考える事もなかった。ただ何かで繋がっていたいという思いだけだった。
真一は父親が転勤するごとに新しい場所に移り住み、直也と出会った頃はライバル的な存在である。彼の転勤と共に直也は友との別れに寂しさを感じていた。

直也は久美子への思いを幼少期の頃から思い出していた頃、直也は縁側に座り庭と空を見ていると空は薄暗くなり雷が鳴った。
プルルルー プルルルー
電話が鳴るが直也には聞こえず、直也の父はそっと傍に寄り添う
「春樹が死んだ?」
直也と春樹は兄弟のように育った。今度は直也から神は従兄弟の春樹を奪い去る。直也は大切な久美子を奪われ従兄弟の春樹を奪われていった。
直也の心は もう爆発寸前だ。でも、直也は苦痛と悲痛に耐える事しかできなかった。どんなに仲間いても二人の死によって孤独感が増していく。
直也と春樹の関係は・・・双子のように育つ二人、幼少期は良く遊び喧嘩もした。 
直也と春樹の共有するものは歴史上の人物であったが、直也は自分だけを信じ前を向いて歩いていくだけで自分からは仲間を作らない。
春樹は自分だけでなく相手も信じ自ら仲間を求め仲間を作っていく。春樹は常に「義」というものを重んじ考えていた。

直也はある事を思い出した。直也の父は直也が物心がついたころから人の器の話をしていた。
幼少期の直也にとっては意味不明の言葉だった。
中学へ入学し大切な友を亡くした心に父の言葉があった。怒りと憎しみに耐えながら、直也は父の言葉の意味にすがり父の言葉によって耐える事が来たのだろう。
そして直也は父の言葉の意味を探し始める事になる。意味不明な言葉とは、その答えを探し始める直也。血まみれの喧嘩によって父の言葉を思い出すことになったのだ。
直也は自らの心の中に持つ怒りと憎しみを抑えるためある行動を起こす。
それは保育園から一緒であった、由子の伯父のもとへ行き、怒りと憎しみから逃れる術を学び始めるのだ。
由子の伯父はボクシングジムの会長で子供会の会長を務める人物だった。
仲間達は直也の思いを感じ取っていたため、いつも一緒にいた直也を探そうともしなかった。中学の教員達も直也の気持ちを知っていた。そして直也がどういう人物かも知っていた。
直也は教員達や仲間達に見守られていた。教員達は直也には、仲間から慕われるだけの器があった事を気づいていたが、教員達は直也に出来る事は見守る事しかできなかった。これからの先に自ら気づけるよう見守る中で対応を考えていく。この対応は中学を卒業し高校への進学時、申し送る内容の一つであった。
直也にとって ボクシングを学ぶ事とは…

この頃には、柔道・剣道・空手教室などがあった。
直也はボクシングを選んだ理由は2つの理由があったのかもしれない。直也と由子の関係とジム経営は、由子の伯父である事だ。由子の気持ちを知っている直也は、この時は誰かにすがりたかったのだと思う。
直也と由子は保育園の頃からの友だ。由子の伯父のボクシングジムへ通う事により由子は必ず直也のもとへ足を運ぶ。
直也と由子の間には言葉はなく、由子の片思いの恋にすがった。直也にとって由子の恋にすがる事は、絶対にあってはいけないと思っていたはず。この時の直也は由子の恋に、どうしてもすがるしかなかったのだ。
ボクシングを学ぶことによって怒りと憎しみをサンドバックに全てをこめる。
無心になりサンドバックを全力で殴りつける事で全てを忘れるのだ。そんな直也のいるベンチには由子が必ず座り由子は直也を見つめている。由子は直也を見つめながら幼き頃の事を思い出していた。
直也がジムに通い始めてスパーリングの相手をする事になる。相手はプロテスト前の人物だ。三ラウンドで直也のマウスピースは宙に飛んだ。
意識を失い横になる直也の横には由子の姿。
「ばか」小さな由子の声。
直也は天井を観ながら自分よりも強い相手とのスパーリングで自分に何かを感じるようになる。
この日から三か月後アマチュアの試合があり直也はその試合に出場する事になる。スパーリングを観た会長とコーチは、直也の素質を見抜いていたのだ。
直也と由子の間には無言の約束があった。由子の思いは直也が優勝すること。直也の思いは、どれだけ冷静に試合に臨む事が出来るか?二人の思いの中で共通するものは直也と由子の自分自身との戦いである。
ボクシングジムでは会長やコーチによって試合に臨む直也の調整に入っていた。
前へ進む為に直也の思いは・・・
そんな直也を見つめる由子の思いは・・・
直也は久美子が作った「どりーむきゃっちゃー」を毎日握りしめていた。どりーむきゃっちゃーを握りしめる直也の姿を見つめる由子は、直也の久美子への深い思いを感じ取っていた。 
直也の仲間達のカバンにはどりーむきゃっちゃーが縛り付けられている。
久美子の作ったどりーむきゃっちゃーが、直也と仲間達を結びつけている事に気づいていた由子である。
由子は直也のどんな行為も許す事が出来たのは、直也の悲痛と苦痛を受け止めていたからだった。

いよいよアマチュアボクシングの試合が近づいてくる。
何故?ボクシングジムの会長やコーチは、直也を中学生市町村のトーナメント試合に出場させようと考えたのか?
人はそれぞれ何かしらの徳分や得意分野、素質というものを産まれつき持っている。
しかしそれは、気づき生きている場合と気づかずに生きている場合がある。
素質とは・・・人それぞれにある天命的なもの。
直也が持つ素質というものは、まれにみる天命的な素質だったが、漠然と感じるだけだ。
会長やコーチは、直也の幼き過去からの人生を由子や教師達から聞いていた。
直也の保育園時期は、とてもやんちゃな子供でもあり繊細さを備えた時期で、直也には好きな女の子がいたが、卒園前に彼女は親の転勤と共に去って行った。
二人は両思い、初恋と失恋、別れがどんなに辛いものかを知った時期でもある。
直也は皆に好かれた存在で小学校へ入学すると、直也の友達の中には特別学級というクラスへ入るものもいた。
特別学級へ入った友を馬鹿にする生徒達、直也とは別の幼稚園や保育園から入学した子供達は「馬鹿なやつら」として差別をし、からかう事からエスカレートしそれは「いじめ」として始まった。
直也にとっては友を馬鹿にされる事で喧嘩を始めるようになる。
直也にとっては信頼ある友ゆえ。
「許せなかった」
小学校の教師達は暴力として直也の行為を観ていた。
このような行為は約二年間続き三年生になると、教師達は直也を部活へ入れる事にした。
体操部と水泳部へ直也を入部させ様子を見るが、直也の行為は止まる事はない。何度も何度も親への連絡が途絶える事はなかった。直也は教師達に呼ばれ注意はされるが、直也は何も話す事も答える事もなかった。
直也の素質が見られ始めたのは水泳の選手になった頃からだ。

水泳は、クロール、平泳ぎ、背泳ぎの三種目。入部したての頃は、クロールの選手で、これがまた学年上の選手でも追いつく事は出来なかった。本来なら直也はクロールの選手として大会に出るところだろう。しかし水泳部では背泳ぎが出来る選手がいなかった。
背泳ぎの選手に手を長く挙げたのが直也だった。
クロールの選手でも追いつく事が出来ないスピード、それも背泳ぎで。
なぜ直也は水泳部に入部させられたのか、それは父と母の希望でもあった。
駆け足が出来る頃には、家族同士で海や川で遊んでいた。そして父のサーフィンボードの上に乗っていた。直也にとって興味津々の景色がそこにあったのだ。直也は自然と海や川での泳ぎ方を学んでいた。
それだけではない、幼いながらに自然の中から浮力というものを漠然と身体で感じていた。
海は川よりも浮力があり、海と川には流れというものがある。しかし流れは海と川では違う。川は普通に流れるが海では海上は海岸に流れるが海の下では、水平線に向かって動いているという事も直也は気づいていたのかもしれない。どうしたら波の中で泳げる事が出来るのか好奇心によって学習していたようだ。
直也素質というものが目覚めたのは、努力をして身につけたものである。努力の末に身につけた力を父や母は認めていた。
本来、素質とは言えないだろうが、創られた素質だったのだろう。

この三種目の選手がいなければ、市町村の水泳大会に参加する事は出来なかったが、この直也が背泳ぎの選手になった事で通う小学校は市町村の大会に参加する事が出来るようになる。
それだけではない、直也の存在は他の選手へも影響を及ぼした。「ライバル」という観点で他の選手もスピードを上げて行く。
市町村小学生水泳大会で、初出場で優勝を果たすのだ。
この時をもって直也の存在感が、教師達の中で見直される事になったばかりでなく、特別学級の生徒へのいじめもなくなり直也は喧嘩をする事が無くなったという。
直也の素質を知ったのは、まず久美子だった。次に両親、由子、真一、仲間達、教師達の順だろう。

直也の周りには常に仲間達がいた。中学へ入学すると他の小学校からの生徒も仲間に入る。
直也は慕われる存在として見られるようになっていくが、中学に入ってから大切なものを失う事が多くあった。
しかしそれに耐える力を持てるようになると、この頃の中学では先輩達からの暴力やかつあげ等、様々な問題があり荒れた時代の中、直也の存在は先輩達から仲間達を守る事。他のクラスの同級生をも守る事が出来ていたのだ。
直也の素質とは何か、それは中学を卒業した時に周囲の人達は知る事になる。
「直也とは何者か」と・・・
ボクシングジムの会長やコーチは、直也の過去を知る事によって直也の持った悲痛や苦痛に怒りや憎しみを知り、直也の心の更生を考えると共に「優勝」というものに賭けてみようとしたのだ。
ボクシングを始めて日は浅い、しかし試合までの間、約三か月間で、どれだけの成長をするのだろうか。
直也は必死に生きていた時期でもあった。中学二年生の直也、直也の成長に欠かせない存在が2人いた。この2人の存在が直也を成長を促すきっかけを作り、直也は自分というものに気づく事になる。
11月下旬、中学生市町村ボクシングトーナメントまで、あと三か月。
直也は孤独となり心にある悲痛と苦痛そして何よりも強い世界全てへの怒りに戦いを挑む。

直也は中学一年の時に、久美子、春樹、真一と三人との別れとなった。別れてからの直也の心は、自分でも抑えきれないものだったと思う。
中学二年になった直也は七月下旬の夏休みに入ると、春樹の事故死現場や久美子の事故死現場に行き、父転勤にて一学期で転校してしまった真一を思いながら、ある思いを胸に置き、八月一日からボクシングジムに通う事になった。
ボクシングを始めて2週間程した頃にプロテスト前の選手とのスパーリングで、たった一発のアッパーカットで意識を失うことがあった。
「負けた・・・」
直也は、負けた事など、どうでも良かった。意識を失った時、直也は無意識に初めて涙を流していたのだ。その涙を見ていたのは由子1人だった。
直也は夢を見ていたのか?それとも友との別れによって、直也の心が泣いていたのか?
この日を境に直也にはある決意というものが心の中に産まれていた。ジムの会長とコーチより、ボクシング試合の事を聞いた時の直也は・・・。何も答える事はなく首を縦に振るだけでボクシングの試合に出場する事を承諾した。
この2週間、直也はサンドバックだけを殴りつけていたが・・・
試合に出場する事が決まってからは、毎朝早朝10kmのマラソンをした後ジムに入り練習。
孤独との戦いが本格的に始まった時だった。
早朝マラソンは2学期が始まってからも続ける事になり、その後は学校。学校が終わると真っ直ぐに学校からジムへ直行する。
ジムでは直也を含め6人が通っていた。直也よりも年上、無口、プロボクサーを目指す学生達だった。
直也の学校からジムへ通うものはいなかった。由子はいつもジムのベンチに座っていたが、仲間達に知られる事はなく直也は練習を続ける。
本格的にボクシングを始めると、毎日のようにリングに上がりコーチとのスパーリングがおこなわれた。
ジムに通い始めて1カ月を過ぎると。
「ジャブ、ジャブ、ジャブ、フック、ボディーーーーー」
コーチの声も大きく、そして早口になっていく。
何という速さだろうか?直也は限界を越えようとしている。
コーチは限界を超えさせまいとしていたのだが直也は自分の限界というよりは心の中で何かを守りたいという思いがあったのかもしれない。
しかし、直也がスパ―リングの時にはサンバのBGMが響く。早朝マラソンではサンバの曲を聴きながらだった。
直也はサンバの音楽のリズムから自分の動き方を学んでいたようだ。
直也にサンバのカセットテープを渡したのは会長であるが、直也が良く座るベンチに置いておいただけである。
直也が自分を見つけられるようさりげなく。そして直也を試していたのかもしれない。会長は直也に言葉をかける事なく自分で見つける事を学ばせた。
ジムに通うプロボクサーを目指す学生達は練習の手足を止めリングを見つめる事もあった。
「こんなの普通の練習じゃない!」ジムの訓練生の誰もが思っただろう。しかし直也の身体力の基礎は出来ていた。水泳部の練習だけではなく、幼き頃から海ではサーフィンを山遊びや川遊びで自然の中で直也の基礎は身につけられていた。これは父や母が同じ体験をしていたからかもしれない。
日に日に直也は限界を越えながら、コーチは直也の思いを受け入れ強い言葉で接していた。
由子はベンチに座る事を忘れリング下で見るようになっていたが、時折、涙を見せるようになる。
由子の涙は、直也が泣く事が出来ない代わりに泣いていたのかもしれない。
九月下旬、ボクシング試合の日時と場所と条件が決められた。

市町村からは、中学生十六名の出場が決まり、条件を満たせなければ出場停止となる事を告げられている。その条件とは。体重は五十五キロから六十キロ以下、身長には条件はなかった。直也には身長には条件が無い事が有利とみられたのだが。
直也の身長は、一メートル七十センチ、体重は六十九キロ。体重を九キロから十キロ減量しなければならなかった。
十月に入ると減量と練習のプランが作られた。ジムの会長は、直也の両親へ会い直也の今後の事を相談した。直也の両親はジムから学校へ通う事を承諾し、ジムの会長の元に預ける事になったのだ。
減量と練習のプランは厳しいものだったが、直也にとっては有りがたい事だった。
「何もかもが忘れられる」
直也は心の刃を隠し、無心の中でプランをこなしていく。ジムへ通う他の学生達は直也を見ながらも声を掛けようとはしない。由子も同じく直也の姿を見ながらベンチに座っているだけだ。
汗を流しながらの減量、リング上へ直也が上がれば由子はリング下で直也を見つめる。
直也はジムの隅で減量の為、汗をかきながら微かな声で何かを口ずさむようになる。
「一試合三ラウンド、試合は四回戦・・・四回戦で優勝・・・」
狂い始めたかのように思えた直也は、優勝すると心の中の決意が自然と口に出ていたのだ。
「頑張って・・・直也!」
由子は優勝と口ずさむ直也に微かな声を掛けていた。
十一月上旬、プラン通りに進み体重五十九キロまで減量は終了した。
毎日毎日、早朝マラソン、学校、ジムの練習が続く。直也は、いつもTシャツを着ていたが減量が終わるとTシャツを脱ぎリングの上でのスパーリング。年上の学生達とのスパーリングが毎日三ラウンドずつ行われた。
そして、会長はモノクロのポスターを直也に見せた。
優勝に近いとされる選手は大きく載せられ、たったの三センチ角に映っていたのが直也だった。コピーで作られたポスターに直也が写っているとは誰も思えないようだった。
「直也!お前は小っちゃいなー」
ジムの会長は、笑いながら直也をからかってるように見えるが直也の心の中の闘争心に火をつけていた。試合に必要なのは、無心の闘争心だけで良かったのだ。
試合まで後三日、直也の眼の色は、これまでの直也の眼ではなくなった。ポスターは公民館に貼られていた。偶然か?そのポスターを見て、直也に気づいたヤツがいた直也にとっては竹馬の友だ。ポスターを見ながら久美子の作った「ドリームキャッチャー」を握りしめていた。
「直兄ちゃんを、守ってあげてね」ヤツは久美子と約束があったのだ。

そして、時は早くも中学生市町村ボクシングトーナメント当日となる。
日時場所は、十一月月二十二日、時間は十時から十一時三十分、場所は○○市体育館、控室は公民館二階、一号室と二号室。中学生市町村ボクシングトーナメントは十六名、控室には八名ずつ。計量時間は、九時からとなり十六名の出場が決まった。
直也は計量が終わるとすぐに控室へ戻る事はなかった。
「少し走って来るから」
会長やコーチ、由子は何も声をかける事もなく直也の言葉にうなずくだけだった。直也以外の選手は控室で軽く運動を始めると同室者は凄い熱気に包まれているように感じる由子だった。
直也は、遮断機のない踏み切りを見つめ、久美子を思い出しドリームキャッチャーを握しめる。

なあ久美子お前はどうして消えちまったんだ?と、何度も勝手踏切に向かって心の中で叫んでいた。
もう答えてはもらえないと思いつつも真実を知りたかった直也でもある。
「直兄ちゃん、いつもありがとう、そしてごめんなさい」と、何度も叫んだ事で直也に久美子の声が聞こえていたのかもしれない。
一瞬の時間だったのかもしれないが、その時間は踏切を見つめる直也には時計が止まったようで長い時間であったのかもしれない。
直也は踏み切りの前にある駐輪場で座り久美子の話を聞いているようだった。

「誰よりも先に直兄ちゃんに出会いと別れをしたのは恐らくきっと私でしょうね」
私久美子が生まれた当時、直兄ちゃんは一才、家は隣同士で仕事の都合で隣りに行き来していたそうです。記憶には無いのですが同じ布団に寝かされていた事があったと、直兄ちゃんのお母さんは言っていました。
そんな頃から出会えるとは思いもよりませんでした。久美子は一緒にいる事が当たり前のように思っていました。直兄ちゃんは保育園に行きましたが、久美子は幼稚園に入りました。幼い頃は毎日お隣同士の行き来はありました。
久美子の幼いときの記憶は確か…。
夏場にビニールで作られた空気を入れるプール。直兄ちゃんと一緒に入った写真が残されていました。
とても嬉しかったです。
小学校に入ると低学年でも、子ども会によって強制ではなく任意のはずでしたが男の子は、絶対的に町内のソフトボールチームに参加するのです。学校が終わると直兄ちゃんは毎日のように練習をしていました。久美子は小学校の平行棒に寄りかかりながら、直兄ちゃんをいつも見ていました。
どうしてか久美子にもわかりません。直兄ちゃんとお友達は、いつも駄菓子屋を溜まり場にしていました。久美子の姿をみるとクーコと呼んでくれて、お仲間に入れてくれました。低学年時期いつも一緒にいる時は、直兄ちゃんに守られているような気がして、すごく安心していました。

中学年になると直兄ちゃんの家の裏の木戸から裏口から、縁側にいる直にいちゃんに会いに行くようになりました。
久美子は家族で海へ出かけた時、この先々直兄ちゃんに試練を与えてしまうとは思わず、あるアクセサリーを買ってもらってしまったのです。
眠れぬ子供を眠らせる昔シャーマンが使用していたという、悪魔よけのドリームキャッチャーというものでした。
久美子は、いつもドリームキャッチャーを見ると何故か直兄ちゃんを思い浮かべていました。
クーコは手先が器用だと良く言われたものです。きっと直兄ちゃんも器用だったと思います。
綺麗な手で綺麗な長い指先を見ていて、そう思いました。ドリームキャッチャーをたくさん作って直兄ちゃんのお仲間さんへ渡し、直兄ちゃんを守ってもらおうと思っていました。
ただとにかくたくさん作って守ってもらっていたお返しに、ドリームキャッチャーをお守り代わりに渡していきました。
直兄ちゃんには内緒で秘密だからと一言の言葉を残して、直兄ちゃんの周りには、すごく良い人ばかりが集まっていました。
久美ちゃんは直兄ちゃんが好きなの?と良く友達に聞かれることが多かった。久美子は、そんな気持ちは、いっさいなくて、ただ一緒にいる事が当たり前と思っているだけだった。高学年になると学校へ行くのが楽しかったよ。

でも家には帰りたくなかった。いつの日もお金の話ばかりをして、親戚の叔父叔母が頻繁に東京からやってくるようになり来れない時は電話をかけてくる。幼い頃のことだったから、どういう事だかわからなかったけど、大きい婆ちゃんは久美子を包み込んで両手で耳をふさぎ話を聞こえないようにしてくれました。
でも直にいちゃんと一緒にいるときが、久美子が一番安心できた一時でした。
久美子が小学校の高学年の時、家族で唯一助けてくれた大きい婆ちゃん。遮断機のない二メートル幅の踏み切りで自殺を事故扱いされました。
本当は違う、本当は違うって何度も胸の中で思いました。でも誰にも言えなかった。直にいちゃんにも言えなかった。
直にいちゃんの両肩にドリームキャッチャーに似せた絵柄を入れ墨みたいに油性マジックのマッキーで描きました。マッキーの色が消えてくると直兄ちゃんの家の縁側でまた描いていました。中学に入ると直にいちゃんは、水泳部の顧問の先生から水泳部に入るよう言われたようですが、久美子が描いたものを優先し部活には入部する事はなかった。
久美子が両肩に描かなければ水泳の選手になっていたかもしれません。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」もしかしたら直にいちゃんは水泳部に入部したかったのかもしれません。
直兄ちゃんは、小学校の時には水泳部で背泳の選手で記録を持つ選手でもあったもの。
直兄ちゃんの人生を狂わせてしまったのかもしれない。
「直兄ちゃんごめんなさい、いまさら誤っても許されないよね」

大きい婆ちゃんがなくなると保険のお金が入ってきて、東京にいる叔父夫婦と半分ずつにしたそうです。
「人の命をお金にするなんて・・・」
いつも思うようになっていて夕方は家ではなく直兄ちゃんの家の縁側でドリームキャッチャーを作っていました。
直兄ちゃんの事は好きか嫌いかで言うと、どちらでもなかった。どっちに近いかと聞かれれば「好き」と言ったでしょう。
でも直兄ちゃんに告白する前に久美子は、あの踏み切りで死んでしまい、直兄ちゃん本当にごめんなさい。
久美子は産まれてこなければ良かったって思うこともあったよ。でもこの世に生きていてはいけない人間じゃないよ。ただただ直兄ちゃんに出会えた事だけが久美子の幸せだった。
大きいお婆ちゃんが呼んでくれたのかもしれない。クーコの役割は直兄ちゃんとの幸せだけで終わりって。許されることではないのはわかってた、でも私もお金に返られた。
「久美子は先に旅立ちます。ごめんね直にいちゃん、きっとまた会えるような気がします。またその時まで元気でね、直兄ちゃんと仲間になる人たちと楽しい生き方を見つけてくださいね」
あとね直兄ちゃんと春ちゃんと蛍を見たとき思ったの。とっても綺麗な蛍だわって。今度産まれてくる時は蛍のようになりたいって思ったわ。蛍の寿命が短い事は知ってるよ。光り輝く蛍になって飛び回りたいよ。直兄ちゃんにくっついてね。

「馬鹿だなクーコ、大馬鹿だよ、蛍なんかどうでもいいんだ」

久美子の直也への想いが彼の心の中で思い出と共に映し出されていた。
そして直也は自分の弱さと決意というものを久美子に伝え、踏み切りの前から突っ走り体育館へ戻る。
直也は自分の決意というものを久美子に伝えに行っていたのだ。由子は、控室で直也の事を考えると久美子が消えた遮断機のない踏み切りに行っているのではないかと感じていた。

控室で暇な由子は、一人でリングのある体育館に足を向け、体育館に入ると応援団らしき観客の熱気で包まれる。
直也の応援団は全くいない、ジムに通うプロテスト前の学生を含め五人は控室で待っている。
直也がフードをかぶり控室に戻って来ると、同室の選手達は不思議そうに直也を見ていた。
フードをかぶったままの直也は椅子に座るとコーチは声もかけず、あうんの呼吸のように直也の肩や首へのマッサージをする。
「勝とう等と思うな、自分を信じて前へ進め」
会長は直也の耳元で囁きかけると、直也はフードをかぶったまま、身動きする事もなく下を向き顔を見せようとはしなかった。
「時間だ直也、信じるものを見つければいい、それだけでいいんだ」
直也は、控室で同室者には決して顔を見せる事がなかった。
こんな直也に、同室者達の目にどう映っていたのだろうか。
思っている事は解らないが推測で言えば、きっと直也に何かしらの疑問符を抱いていたのではないだろうか。
初めての直也は無意識に心理戦をおこなっていたのだろうか。

いよいよだ、トーナメント会場へ控室から十六名の選手達が向かう。
会場へ入るとファイター達に向けて盛大な拍手が湧いていた。
直也以外は中学一年生の時には皆、リング上に立っていた選手達だった。
「頑張ってー頑張れー・・・」
特に盛大な拍手で迎えられたのは、中学一年生の時に一位と二位の選手で優勝候補者だった。
十六名はリングに上がり紹介されるが、直也はフードをかぶったまま自分の顔と身体を見せる事はなかった。
紹介された後はリングから降り、ボクシングトーナメントが始まった。
直也の一回戦は四番目、リング下にいて椅子に座っていたが、フードをかぶったまま。
応援団やサポーターの声は、直也にプレッシャーをかけていたと思うが直也は動じない。。
一試合三ラウンド、試合は四回戦・・・四回戦で優勝と、囁きながら微かな声で直也はプレッシャーに立ち向かっていた。
直也は目の前でボクシングをしている他の選手を見る事もなく時は流れる。
「ジャブ、ジャブ、イケーイケー、今だー」直也の耳に届く事は無くなっていった。

直也が遮断機ない踏み切りの前に立ちドリームキャッチャーを握る姿を見ていたヤツがいた。
「直兄ちゃんを守ってね」
ヤツには久美子の言葉が忘れる事はなかった。ヤツは試合会場の体育館の壁に寄り掛かりボクシングの試合を見つめていた。ビジターの観客で直也を応援していた一人だろう。
一組目終了、二組目終了、三組目終了、優勝者候補者は確実に勝ち進んでいた。そして八組目の紹介が始まり、直也はフードコートを脱ぎジム関係者に見送られリングに上がった。
直也がリングに上がると一瞬だけ周囲は静まり返り、しばらくすると対戦相手の選手の名前だけが飛び交った。直也の噂は市町村では知られている方だったが、この時はまだ直也の顔を知る者はいなかった。
由子は負けまいと、「直也ー直也ー・・・」と大声を出していた。
「大島ー大島ー、直也ー直也ー・・・」
「えっ大島直也?って・・・」
「あの噂の直也って?・・・」
由子が大きな声で叫んでいた事で観客達は直也を見つめながら、え?と口を開けっぱなしの状況になる。
おそらく噂になっている大島直也がリング上にいる事が不思議だったに違いない。水泳大会で優勝に導き喧嘩っ早く強く、仲間達から慕われる存在というのが大島直也の噂だった。
それどころか、リング上に立つ直也の身長の高さや筋肉のつき方が他の選手とは違うと思ったのか。
直也は紹介されるとリング下の周囲を見回していた。
まるで「俺が、大島直也だ!」と言わんばかりに笑う事なく冷静で冷めた目つき、いや睨みつけて観客を黙らせていた。
直也は産まれつき鋭い目つきをしているのを観客達は全く知らない。
試合開始のゴングまで、リング下にいる由子を見つめる直也。由子は直也を見つめていると、直也は由子に何かを伝えているかのようだった。
「タオルは投げるな」と、由子は直也に言われたような気がしていた。
「直也は絶対に勝つよね」と、由子は心の中で直也に沈黙して声を掛ける。
直也は由子の心の声を聴いたかのように、由子だけには笑顔を見せた。
直也が笑顔を見せた時「カーン!」ゴングが鳴った。

一回戦目、直也は動かず相手の姿をじっと見つめたままパンチを出そうとはしなかった。
「直也ー!行けー動けー!」
「ジャブ、ジャブ、ジャブ、ボディ、ボディ、ボディ・・・」
「直也ー!行けー動けー!動けー!」
そのまま動かなければ身長差があるとはいえ相手の思うつぼ、コーチと思ったのだろう。
観客達も応援するのではなく、何が起きているのか解らなかったのかソワソワしながらざわめきだした。
しかし、相手はパンチを出そうとするが直也にパンチは全く当たらない。直也は対戦対手を静かに様子を見て、全てのパンチを除けていた。
一ラウンド二分が過ぎた頃、相手は直也の懐へ入りボディーブローがはいった。
しかし、直也へのボディーブローは直也の必死の策であり、相手にあえて撃たせたのだ。
相手のボディーブローを、直也は後ろに身を引きダメージ最小限に抑えていた。
懐へ入れば相手はボディーを狙うしかない、これが緊張の中で直也の出した答えだった。そして相手の癖などを見切っていたのかもしれない。
その後すぐに直也は近づいてきた相手に軽い右フックから左ジャブ、ジャブ、ジャブ、右ストレート。
相手の選手はリングの中央あたりからロープまで飛ばされ、ダウン!ダウンだ。
前回三位の選手は、よろけながら立ち上がろうとするが立ち上がる事は出来なかった。
予期せぬ事に観客だけでなく、体躯館内の誰もが自分の目を疑ったであろう。
直也は冷静に相手がどう動くのかを冷静に見極めていた。
「え?一ラウンドで?KOだなんて、ありえないよ」
たったボクシングを始めて三カ月の直也は、一ラウンド二分三十秒でKO勝ちだ。
ジムの会長やコーチ共にジムに通う学生達は、直也の運動能力を知った時だった。
観客達は、驚いたような感じで無言で静まり返り、直也は静けさの中リングから降りて行く。
リングを降りると由子の前に立つ直也。「勝ったよ」と小さな声由子にで囁き三十分の休憩で控室へ戻った。

次は二回戦目、優勝候補者で前回二位の選手である。
控室に戻る時、一瞬だが集中力に疲れかけた直也は、あの「ヤツ」を見かけたような気がした。
ヤツの姿は幻か?私服でいるヤツじゃないはずだ、と直也は笑みを浮かべ思った。
この幻は、直也に勇気や安心感を与えていた。
「ジャブ、ジャブ、ジャブ、ボディ、ボディ、ボディだ」
試合を振り返りながら控室に戻ると、直也はため息をつき椅子に座ると由子だけに「怖かった」と本心を伝えた。
控室で休む直也は、由子が今までに見てきた直也ではなくなっていたようだ、由子は怖いという言葉はないと見ていたからだ。
コーチは直也に声を掛ける事はなかったが、会長の脳裏に浮かぶ直也の姿があった。
直也は、おそらく自分というものを見つけ始めたのではないか?と、会長は思い直也を見つめていた。
コーチは会長に話しかけるが上の空だったが、会長は直也の前に座り両手で直也の頬に触れ声を掛けた。
「自分を見つけ始めたのなら、自分を信じてみる事も大切な事だ、勝つも負けるもお前しだいだ」
会長は直也に静かな声で言葉を掛けると、直也は会長の眼を見つめていた。
自分を信じる事、そう直也が探し求めていたもの、怒りや憎しみに捉われていた直也の心の中にある、ぽっかり空いた隙間を埋めていく。
一回戦を勝ち抜いたものは八人の選手、控室は一号室だけになると、直也は控室にいる他の七人の様子を見つめ伺い始める。
この時に優勝という言葉が、はっきりとした本当の決意となり直也の心の中に小さな光が芽生えていた。
一回戦を勝ち抜いても中途半端な決意であった事を、直也は自分自身に気づいていく。
この気づきが直也を変える。

試合を振り返る直也は声を出して応援してくれるのは、由子だけである事を知った。
しかし「ジャブ、ジャブ、ジャブ・・・」と、リングサイドで会長やコーチの言葉があった事を直也は思い出していた。
「俺は一人じゃない、孤独でもない、応援してくれる人はいるんだ」
応援をしてくれる人が一人でもいるのなら、その期待に応えたいと直也は思った。
「次の相手は、アイツか」
次の試合相手の動きやその周りにいるサポーターを見ながら勝つ為の直也なりの策を練るようになる。
直也お前なら勝つ為の策を見つけられるはずだ、と念じて、会長やコーチは全て直也に託していた為、何も言わずマッサージを施すだけだった。
一回戦と同じようにいけるのか、しかし一回戦の時は畏怖しながらの策で余裕がなかったんだ。
控室の中で、相手の動きを見つめる中で策を練る事に余裕ができていた。
「そろそろ行くか、直也」と、コーチが直也に声を掛ける。
「はい」と直也は余裕のある言葉で返事を返し控室からリングへ向かう。
「どうしたんだろう、直也が違って見える」
直也の後ろについて歩いていると、直也の背中が違って見える由子であった。
会場内に入ると観客の熱気に包まれたが、直也は特にプレッシャーを感じる事はなく余裕をみせていた。この余裕は対戦相手だけではなく観客達へも心理戦だ。
いよいよ二回戦、次の相手は前回三位の選手だ。身長差十二センチ、直也よりも背が低くフットワークに優れている選手だった。
フットワークに優れている同じタイプの選手。直也はいかに次の対戦を勝ち抜くかを考えていた。
「俺は、独りじゃないんだ!」

試合会場に入ると直也には最初に感じていたものとは違う感じがした。
二回戦目から八名で控室に戻る事はない。
一回戦目は、強度のの緊張がある事から控室で休憩をするが、二回戦目からはリング下で自分の順番が来るまでリング上を見つめる事になる。
強度の緊張は思春期の頃の選手であれば、誰もが持つものだった。
それを配慮したルールだった。
二回戦目から試合が終わったとしても、次の試合までリング下でリング上を見つめる。
「強い、強いぞ」
二回戦目となると、それぞれが自分の体力を考え一回戦目とは違うと思う直也。
直也は、次の相手の選手を見つめていた。
「笑ってやがる」
直也は、前回三位だった次の相手を見ながら思っていた。
直也は、次の相手の笑う姿によって再び緊張が始まった。
「直也、相手の作戦に惑わされるな」
「え?なんで?」
コーチは直也に声を掛け緊張をほぐそうとしていた。
二回戦目からは誰もが緊張がほぐれる。
しかし、互いに戦うもの同士は、相手を気にする。
直也にとっては初めてのトーナメントだ、自分一人で戦う事は出来なかった。
コーチの声掛けで直也の緊張は消えていく。
「これが、ボクシング、相手を思い、心理的な作戦もあるんだ」
コーチの声掛けは、緊張をほぐすだけでなく直也に本当のボクシングを教えていた。
ジムでの練習では、教えられない事を試合の中で教えていくのだ。
一回戦目は八組目、二回戦目は、四組目。
前回一位の選手は一組目、という事は直也が勝ち進めば最終的に前回優勝者との戦いだ。
由子は直也の隣に座り、直也の横顔を見つめている。
コーチは直也の肩や首をマッサージし、由子の反対の隣には同じジムに通うプロテスト前の学生が座っていた。
「直也、次の試合から、俺がリングサイドにつくからな」
「会長じゃないの?」
「お前が面白くなったよ」
「え?」
「三カ月ぐらいで、お前はプロテスト受けてるみたいだ」
スパーリングでアッパーで倒された相手からの言葉は直也を勇気づけた。
「俺、面白いって?なんだよ!」
言葉にはしないが直也は胸の内で思った。
会場の観客やサポーター、次の相手の選手はプロテスト前の彼を知っている。
「まさか、プレッシャーを?」
会長はリング上だけでなく周囲の観客や選手達を見ていた。
そして、直也が選手達にプレッシャーをかけるとすれば、プロテスト前の知られた彼をリングサイドに置く事こそ最善の作戦であったのだ。
プロテスト前の彼は、高校一年生、中学時代トーナメント三回の優勝した選手だった。
彼は、会長に自分がリングサイドにつく事を交渉していた。
彼は、直也の天才的なものがどういうものか、知りたかったのだ。
直也にとっても強い彼がリングサイドにつく事で安心感を感じていた。
そろそろ四組目の試合だ。
「直也、気を付けてね」
由子が直也に声を掛けると直也は笑顔でうなずいてリング上へ向かう。

リングの上に立つ直也は、何かを祈るかのように深呼吸をしている。プロテスト前の彼は、直也に言葉を掛けずに直也の姿を見つめるだけだ。リングサイドについたコーチと彼に、直也は首を縦に振り笑顔を見せる。
「え?直也が笑った?どうして」
由子は、直也は誰にも心を開く事がなかったのにと胸の内で思った。一時的なものだがルールのある戦いの中からから直也の成長が始まったのだ。
「カーン!」と、ゴングが鳴ると直也の眼つきは変わった。
眼(ガンツケ)を飛ばす眼ではなく、冷静な覚めた目つきでリングの中央に向かう。
ジム関係者によって勝利への策は作られる。あとは、直也がどう動いていくか試合をどう進めていくかである。
さすがに二年目の選手、フットワークで直也の動きを崩そうとする。しかし、直也は何かに取りつかれたように相手の動きに冷静についていく。相手の選手は、自分のフットワークについてこられる事に直也に対しイライラしているようだった。直也のフットワークは相手の選手の動きに楽について行ける。直也は何かに気づいたようで距離を測り始めた。
相手の選手は、よほどイライラしていたのだろう。
先にジャブ(パンチ)を出して来たのは相手の方だった。
「いける、いけるぞ、誘いにのった」と、直也の中で何かが動き始めていた。
直也のフットワークは相手をうわまり、瞬時に相手のパンチに反応する。直也は軽く手を伸ばすだけで自分の体力を考えていたに違いない。
「カーン」一ラウンド終了のゴングが鳴る。
コーナーの椅子に座り、直也は笑っていた。
「直也!いけるか?」
「当り前のこと聞かないで下さいよ」
「・・・」
リングサイドからの声に直也が答えると、誰も何も言う事が出来なかった。
二ラウンド目のゴングが鳴ると直也は一気に走リ抜く。
身長差があるというのに不利な事を知りながら、相手の懐に入り腰を低くしボディ、ボディ、ボディと直也のボディに相手は苦しかったのか顔色を変えガードが下がったところでジャブ、ジャブの連打。
相手がガードを上げたところで再びボディ、ボディ、ボディの三連打。
相手の選手は膝をつきダウン、そしてカウントが始まり直也は両手を挙げコーナーへ戻る。
「もう終わったよ、ふー」
深い深呼吸をし、この二回戦目は二ラウンド目では、約一分で終わった。この二回戦で観客の応援の声の中に由子が叫ぶように。
「大島!直也ー!大島!直也ー!・・・」
直也への声援が、増えていった。
「・・・・・」
「やあ、ん」
直也はコーナーに座ると、思惑通りいかなかった相手へ握手を求めていた。

リングから降りた直也が見つめる先にいるのは前回優勝選手で今回の試合で1番の期待された有力者の姿。
「直也、お前、優勝狙ってるのか?」
「俺は、勝つ為に、リングに立ってるんでしょ」
直也は会長の声掛けに答えた。
ボクシングを始めて、まだ三カ月という直也。直也のボクサーとしての成長は直也の心の成長となるよう、会長は願っていた。直也が何故ボクシングジムに通う事になったのかを良く知っていたからだ。
「なら絶対に勝て、直也、優勝は目の前だからな」
「はい」
直也はボクシングトーナメントで言葉では表せない何か見つけていた。
次は三回戦目、しかし、直也は集中力と緊張感で息を荒くしていた。直也の頭の中にあるのは、もう優勝しか考える事はなかったが、それが直也の緊張の元になる。
由子は、直也が久美子や春樹、真一との別れから怒りと憎しみを持ち囚われた身の思いから「逃れたい」と思っている事も知っている。そしてそっと直也の傍に寄り添い水とタオルを渡した。そんな由子の顔を見て、直也は頭をかきながら笑っていた。由子も直也と同じように笑うと、まるで恋人同士のようだ。
直也の通うジムの会長やコーチ、他の通う学生達、きっと周囲で二人を見ていた人達は、彼氏と彼女、恋人同士と思っていただろう。
近くで見ていた観客の中で、由子に声を掛けてくる人達がいたが由子は悲しそうな顔をしながら。
「話しかけないでください!」と、由子は何故か涙目で言葉を返した。
「お前、そんな事言うな」
「ごめんなさい、でもね、直也の為に言ったの」
「どうして?」
「優勝するんでしょ、邪魔な言葉は、私が許さない」
直也は、由子の思いも気持ちも知っていた。
「まるで、久美子みたいだな」
「え?、今なんて言った?」
「なんでもないよ、お前は馬鹿だ、昔から大馬鹿だよ」
「馬鹿でけっこう、直也の為になるなら、どんな事でもするから」
二人の関係は由子の片思いかもしれないが、直也の心は由子の思いに揺れ動いていたように感じるが、今は心が動くとは思う事もなかった直也はリング上のボクシングだけに目を向けた。
三回戦目となると更なる強い選手同士の戦いだった。
「強いなー、それでも俺は勝つしかないんだな由子」と、直也は由子に声を掛ける。、
「絶対に勝ってよね、直也がどんな人間なのか、思い知らせてよね」
由子は、まるで自分がボクシングをしている気持ちで直也に答えていた。

いよいよ直也の三回戦目が始まろうとしていた。直也は軽く体を動かしリング上の勝者を見つめている。まだ勝者が決まっていないというのに直也は勝者を決めていた。
あいつが勝つ、前回優勝者、あいつだ、この三回戦、絶対勝つ!と、直也は言葉にはせず胸の内で叫んでいた。
三回戦目の前回優勝者は三ラウンドまで行われ判定によって勝者になった。
いよいよ直也の番だ。
この試合を勝ち抜けば、あとは前回優勝者との戦いになる。直也は前回優勝者との戦いばかりを考えるようになっていた。優勝は目の前だ、直也には再び緊張感がうまれていた。
「さてと、どうするか?アイツには隙がなさすぎる、どうする俺」
緊張感の中、直也には戦うに当たり最善の策という作戦というものは無くなった。
その姿をコーチたちは気づいていたのか?わからない。
「直也、やれるだけやればいいからな」
「きっとお前なら勝てるよ、この三回戦」
このコーチ達の言葉で、ふと直也から緊張感が消える。重要なのは一試合ずつ勝って行く事だった。直也は、その事を忘れ自分自身が緊張感を掛けていた事に気づかされた。
直也は、天井を見てスパーリング中のアッパーで気を失った事を思い出した。
リング上では前回優勝者の手が挙げられた時、三回戦目の相手の姿を見つめていると相手も直也を見つめていた。まるで、闘争心というオーラというものを直也も相手も感じているかのようだ。
直也が見つめる先にいる選手は、直也にはない何かを持っているかのような選手だった。三回戦目の相手選手は身長差はほとんどなくパンチ力のある選手だ。
リング下に試合を終えた選手と交代で直也はリングに上がっていく。
「直也ー!直也ー!直也ー!・・・」
直也の声援が多くなっている、由子の声援も聞こえないくらいに。リングコーナーではプロテスト前の彼もコーチも、直也に声を掛ける事はない。ただ直也の顔を見つめているだけだ。

「カーン!」三回戦目のゴングが鳴った。
相手選手のフットワークの速さは直也とほぼ同じ、今までの選手の眼つきとは違った。
直也はとにかく勝つ事、自分を信じて相手の動きにあわせる。
「なんだコイツ、コイツ強いぞ」
直也は距離を計りながら心の中で少し焦りを感じながら思った。
「どうする、どうする、俺、大島直也」
直也は、自分をコントロールし焦る事はないと思い込みを作り、冷静さを保ちながら身体を揺さぶっていく。
直也は、相手の隙を伺いながら相手よりも先に、ジャブ!
「入った!これならいける」
直也は身体で感じるものがあった。見た目ばかりを見ていた直也は、軽いジャブが入る事に相手の懐へ入るとジャブ!そしてすぐに後ろに下がる。
この繰り返しが1ラウンド続けられ相手は嫌な顔を見せていた。
「チャンスが来た!」と思った時だった。
「カーン!」
三回戦目、1ラウンドの終了のゴングが鳴った。
「くそっ!」
手ごたえを感じた直也はコーナーの椅子に座ると相手を見ながら笑っている。会長やコーチが教えていない事をトーナメントの試合で直也は自分自身で学んでいた。同じジムに通う学生達は、首を振りながら信じられないと思っていたのだろう。
これが直也の持つ強さでもあり弱さでもあったのだ。見た目は強く感じるが、落胆した時、直也のもろい刃の様な心は立ち直る事に時間がかかる。
人間はある程度に強さと弱さを持っているが、直也の場合は完璧さを求めるため、ある程度では済ます事が出来ないのだ。やり遂げるためには、どんな事を考え、どういう行動を起こせばいいのか。
直也は、自然と身についている産まれつきの素質の一つだったが、会長とコーチだけは、その素質は強いものでもあり直也自身を自分を壊してしまう事もある素質でもある事に気づいていた。
プライドを持つ事は良いが、直也のプライドの使い方によっては、人を傷つけ自分をも傷つけてしまう事もあるのだ。
直也が持つプライドを直也は本当にコントロール出来るのだろうか?
直也優先に動いているが、この三回戦は厳しい戦いになると会長やコーチは思っていた。
直也に声を掛けようか迷う会長とコーチだったが迷ったまま、しかしプロテスト前の彼はリングサイドで直也に耳打ちしていた。
何を伝えているのかは直也と彼にしかわからない。
何を伝えたのか、それは二ラウンドの結果に出てくるのだ。
「直也!思い通りにやって来い!」
「はい、先輩」
ジムでは敬遠の中であったプロテスト前の彼は、直也の何かに気づいたようで直也と顔を合わせ笑っていた。

この数十秒の間、由子は自分の心と葛藤し思いの先に変化があった。
直也が呟いた1つの言葉を聞いたのは由子だけだった。
あの呟いた言葉の意味はなんだったんだろう、と由子は直也の姿を見つめて思っていた。
なぜ由子が直也の一言を気にしていたのは、幼き頃からの直也の強い姿だけを思い出していたからだ。
試合が上手くいかない、相手への不満の言葉、弱さや迷い、直也は何を考えていたのだろう。
直也は今まで暗くあんな顔、あんな一言を呟いたのを初めて見た由子だった。冷静な目つきで強さがある直也の姿だけだった。
成長と共に直也には失ったものは大きな荷物だ、私は直也を支える事ができるだろうか。
なぜ直也の父と母は試合を観に来ていないのか。親子仲良しで愛情に包まれいたのに、と由子は思っていた。
直也が失った荷物の重さは由子には想像もつかないものになっていたのかもしれない。

一瞬だったが、貴方は人の心をもて遊ぶただの人間なの?直也の馬鹿。由子は直也が離れてしまうように受け取った。
直也を見ながら独りよがりで自己中心的な子供のような弱い心に由子はなってしまった。
なぜか大島直也の成長は早く、由子自身は成長していないと実感させられた時だった。
そんな時に由子が、ふと顔を上げると会長は直也の耳のそばで声をかけていた。
由子には聞こえなかったが会長の顔を見て直也は笑っている。何が起きているんだろう、と由子は思った。

直也を信じて好きだ、由子の「好きだ」という思いに心は揺らぐ事はなかったが、この時の直也の姿を見て信じる事への思いは少しだけ揺らいでいた。
どういう事なの?と、由子は何度も胸の内で繰り返していた。そして由子は直也に伝えた自分の言葉を思い出す。
私はどうして馬鹿な事を言ったんだろう、ごめんね直也。
「なあ、俺より君の方が直也を知ってるよな、違うのか?」と、寂しさの中で下を向いたままの由子にプロテスト前の彼は声をかけてきた。
「えっ?」と由子は思った。直也が呟いた言葉を彼も耳にしていたの。そんなわけない。そんなわけないと胸の奥で繰り返す由子だった。
「本当に苦しい時の直也って弱いよな、泣いちゃうしさ」
「ジムでの事、知ってるの?」
「知ってるよ、君は寄り添ってたじゃんか、たまたま見ちゃったんだよな」と、彼は直也が呟いた事には触れなかった。
「うん」
「もう一度だけ聞くけど、俺よりも知ってるよな」と言う彼は由子の頭の上に手を当てた。
「うん、ありがとう」小さな小さな声で涙目で由子は彼に言った。
彼からの問いかけに由子は記憶の中で、忘れかけていた思い出の1ページに気づき、泣き虫直也は何も変わってはいないと思う由子だった。

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