青少年論語学習講座

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子路第十三‐18

2011-09-14 05:59:14 | 学習
 陽貨第十七-8で学問しなければ独善となり、バランスを欠き「六言六蔽」に陥ることを孔子の言を通じて学びました。本日はその六蔽の内、『直』であっても学問しなければ、『絞』と言われる様に縄を首にかけ絞めるように、人を厳しく責めて情理を省みなくなるということを歴史を通じて学びましょう。
まずは子路第十三-18です。

子路第十三‐18
○ 本文
 葉公語孔子日、吾党有直躬者、其父攘羊而子證之。孔子日、吾党之直者、異於是。父為子隠、子為父隠。直在其中矣。

○ 書き下し
 葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて日(いわ)く、吾(わ)が党(とう)に直躬(ちょっきゅう)という者(もの)有(あ)り、其(そ)の父(ちち)羊(ひつじ)を攘(ぬす)みて而(しこう)して子(こ)之(これ)を證(しょう)せりと。孔子日わく、吾が党の直(なお)き者は、是(これ)に異(こと)なり。父は子の為(ため)に隠(かく)し、子は父の為に隠す。直(なお)きこと其の中(うち)に在(あ)りと。

○ 通釈
 葉公が孔子に告げて言うには「私の仲間の中に直躬と呼ばれている者が居ます。その父が自分の家に迷い込んだ羊を盗んだのを父の子供でありながら直躬は証人となって之を訴え出ました。親子でありながらこのような真っ直ぐな行為はいかがでしょうか。」孔子が答えて「私の仲間で真っ直ぐな行いする者はこれと異なります。子供に過ちがある時は、父は子供のためにこれを隠して人には知らせません。父に過ちがある時には子は父のためにこれを隠して人には知らせません。親子がお互いに隠すのは人情ですが、その人情の中に偽らない本当の正直というものがあるのです。」と、おっしゃいました。

○ 説明
 『直躬』は人名であり、真っ直ぐな人で名を躬と云います。『攘む』とは他人の物が自分の方に来るのを盗むことをいいます。
 この章は親子がお互いに隠すことは「直」では有りませんが、その隠そうとする人情の中に直の意義があること説明し、葉公の迷いを解かれました。

 六言六蔽の中に『直』であっても学問しなければ、『絞』と言われる様に縄を首にかけ絞めるように、人を厳しく責めて情理を省みなくなるとありました。直と云うのは学問を積む事により、人の情理を通す中に「直」の真意があるのです。

 同様の事例が日本においてもありました。それが保元の乱です。
 時は、1156(保元1)年。京の都において皇位継承を巡って皇族・公家・武士が二手に分かれ、肉親同士が相争う戦いが起こりました。これが保元の乱です。その構図を見ると、勝者の後白河法皇方には皇族の後白河天皇(四ノ宮)、公家の藤原忠道、源氏の源義朝、平家の平清盛・平重盛が味方に付き、敗者となった崇徳上皇方には皇族の後白河院の兄の重仁親王が付きましたが、戦後、崇徳上皇は讃岐へ流され憤死されました。また公家では忠道の弟の藤原頼長が付きましたが、戦後は逃亡の末自害しました。また源氏では義朝の父源為義・弟鎮西八郎為朝が付きましたが、戦後義朝が父・弟を斬首しました。さらに平家は清盛の叔父の平忠正とその子供4名が付きましたが、戦後清盛が叔父らを斬首しました。このように皇族及び公家は兄弟で、源氏は親子兄弟で、平家は叔父・従兄弟で戦うという肉親同士が血で血を流す凄惨な構図となっただけでなく、勝者の敗者に対する戦後処理は過酷なものであり、人倫(人の道)を破壊するものでした。この後、京の町では地震・火災・大風が収まらず、都の人々を悩まし続けます。人々は敗者となられ讃岐で恨みを残して崩御された崇徳院の怨念であると噂しました。また清盛とともに勝者となった源義朝は、敗者である父や弟を自らの手に掛けたにも係らず、清盛と較べて戦後の報酬が余りにも少なく、これが原因で、3年後に平治の乱を引き起こし、自ら滅んで行きます。

 その後、平清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は不快を感じるようになり、後白川法皇の近臣らが平家を滅ぼそうと鹿ヶ谷(ししがたに)事件と呼ばれる陰謀を安元3年(1177年)6月に京都で起こそうとしますが、事前に露見してしまいます。そこで清盛は起こそうとした者を流罪にし、後白河法皇をも幽閉しようとしました。これを知ったその子の重盛が「君に忠(ちゅう)ならんとすれば孝(こう)ならず、親に孝ならんとすれば忠ならず」と嘆いて法皇の幽閉を諌めます。
このことが戦前の尋常小学国史に掲載されています。判りやすく書かれて居ますので、引用しましょう。
『重盛は、はらはらと涙を流しながら、「恩を知ってこそ人といえるので、知らないものは、鳥やけだものと同じです。恩の中でも一番重いものは君の恩です。まして、我が家は桓武天皇の御末でありながら、中ごろ大変衰えていたところ、父上になって大いに立身出世せられ、われわれのような愚か者までも高い官位を頂いているのは、これ全く君のご恩ではありませんか。今、このご恩を忘れて、天皇のご威光を軽んじ申すような事があっては、たちまち神罰を受けて、一族はやがて滅びてしまうでしょう。それでも、なお、父上がお聞き入れなさらないなら、私は兵を率いて法皇をお守りせねばなりません。しかしまた、父上にむかうことも、子として私には耐えられません。それゆえ、父上がどうしてもこの企てをなしとげようとなさるのなら、まづ私の首をはねてからにしてください。」と、真心こめて諌めたので、さすがの清盛も、暫くは、思いとどまるようになった。重盛のような人こそ、まことに忠孝の道を全うした、立派な人というべきである。』

 保元の乱で見た人倫の乱れの直後ですが、全ての人の道徳まで廃れていたのではなったのです。清盛の子の重盛は学問をしていましたので、『絞』と言われる様に縄を首にかけ絞めるように、自分の親を厳しく責めて訴えて出る事も無く、情理の中に『直』を求めたのです。

 次回は16日(金)です。金曜日は、『勇』であっても学問しなければ、『乱』と言われる事を論語の中で見てみると共にその事例を歴史上で見てみましょう。 
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