つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

或る冬の日の孤独。

2017年12月16日 14時38分23秒 | 日記
季語や五・七・五の約束事を無視し
「自由律俳句」を詠んだ大正期の俳人は、次の名句を遺した。

「咳をしても一人」

わずか九音の短律には、人生という旅の終わりが透けて見える。
この句は、作者が晩年、小豆島に小さな庵を構えていた頃に詠んだもの。
身を置く僅かな空間で咳をするも、その音が響くだけ。
声を掛けてくれる人は誰もいない。
忍び寄る死を前にした孤独と達観はいかばかりかと思うが、
僕はまだ「尾崎 放哉(おざき・ほうさい)」の心境には至っていない。
幸いにして、僕の旅には連れ合いがいる。

愛犬「りくすけ」と重ねる散歩は、立派な旅だ。
たとえ距離は短くとも、何かしら発見があり、何かしら出会いがあって、
いつも楽しみが待っている。

…だから、散歩がままならない冬は寂しい。
空からは氷雨が落ちている。

「小さく吠えても一匹」


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風をだに 待つ程もなき徒花は 枝にかかれる 春の淡雪。 ~ 出雲阿国。

2017年12月14日 08時36分10秒 | 手すさびにて候。
ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載・第六十六弾は「出雲阿国(いずものおくに)」。

かつて「河原者(かわらもの)」と呼ばれる人々がいた。
何らかの理由から、人里に属すことを許されなかった(または拒否した)、
士農工商以下の卑しい身分。
屠畜・皮革加工、手工芸、売春、芸能などを生業にしていたそうだ。
彼らが暮らす「川べりの平地」は、砂や石が多く、耕作地には不向き。
水かさが増せば水没するから、居住地としても不適格。
村でも、町でも、道でもない、課税対象外の場所。
つまり、一種の「異世界」である。
そこに目を付け「異空間」を創造したのが「出雲阿国」だった。

彼女の経歴には諸説あり。
名前のとおり出雲(島根県)生まれとも、大和(奈良県)出身とも言われるが、
巫女として、遊女として諸国を巡り、芸のスキルを磨いたようだ。
そして、開幕間もない慶長8年(1603年)、
京都・鴨川の四条河原で「かぶき踊り」興行を立ち上げる。

主役の出で立ちは、短髪で、刀、十字架を小道具にした奇抜な姿。
当時、派手な格好で闊歩する「傾奇(かぶき)者」を真似た。
男装した「阿国」が、男性狂言師演じる人妻や遊女と戯れる
倒錯したセクシーな舞台は、たちまち人気爆発。
しかも、客席から演者を登場させたり、大人数の乱舞を組み込んだり、
新しい演出を考案して刺激的な舞台を創り上げる。
拍手喝采を送る観客に性別の差異はなく、
「阿国」はさながら、売れっ子アイドルか、宝塚のトップスターだ。
評判は、東海道を通って日本橋へ伝播。
花のお江戸でも大成功を収めた。

やがて、四条河原には「阿国一座」に肖る集団が次々と誕生。
遊女屋プロデュースの大規模な興行には、数万人の群衆が詰めかけた。
演者の芸のレベルはそれなりながら容色に優れた粒揃い。
舞台が跳ねるたらお店へGO!の構図である。
しかし、風紀が乱れるとして幕府から横槍が入り「女歌舞伎」が禁じられた。
すると、主催側は、年若い美少年をステージに上げる。
男色市場への誘いを含んだ「若衆歌舞伎」だ。
当然これも禁止されたが、エンターテイメントとしてのニーズは衰えず、
男性が演じる「野郎歌舞伎」が登場。
伝統芸能へ昇華する事になる。

さて、創始者のその後だが、あまりハッキリしない。
お色気全盛の風潮の中、技芸に秀でた「阿国」のパフォーマンスは支持を失い、
一説には、故郷へ戻り、剃髪して連歌をたしなみつつ、87歳の長寿で没したという。

歌舞伎の歴史を季節の巡りに例えるならば、
「出雲阿国」は、短い春に咲いて散った桜のようなものなのかもしれない。
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さらば、たいとや。

2017年12月10日 11時33分46秒 | これは昭和と言えるだろう。
辞書を引くと以下の記載がある。

【 名字帯刀 】
  名字を名のり、太刀を帯びること。
  江戸時代は武士の特権であったが、のち、特に家柄や功労によって
  庶民に対しても許された。

士農工商…身分制度が厳格だった昔に、
「帯刀」を許された家柄から「たいとや」の屋号で呼ばれる町医者があった。

前回投稿した、元「電電公社」の道を挟んだはす向かい。
「酒井医院」だ。

由来詳細は不明ながら、前述の言い伝えから察するに、
津幡町の旧家と推測される。
長きに亘って医術を施し、地域に貢献してきたが、今年、幕を下ろした。

僕も何度となくお世話になった。
白衣姿の院長先生。
トントンと優しく身体を触診。
ヒンヤリとした聴診器の感触。
消毒用アルコールの匂い。
何故かパラフィン紙の袋に入った白い粉薬などが、思い起こされる。
確か、津幡小学校でのインフルエンザ集団予防接種も、
担当していたのではないだろうか?

先日、予防接種をお願いしようと電話をかけたところ、閉院の報に接す。
また一つ、昭和の灯が消えた。

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三公社五現業。

2017年12月10日 09時27分32秒 | これは昭和と言えるだろう。
日本国有鉄道・日本専売公社・日本電信電話公社。
郵政・造幣・印刷・国有林野・アルコール専売。
戦後の復興にあたり、これらを国主導で行ったのが「三公社五現業」。
社会科の授業で習った覚えがあるのではないだろうか。

@現「JT」専売公社は、昭和24年(1949年)設立。
 「大蔵省専売局」を母体とし、煙草と塩の専売事業を行ってきた公共企業体。
@現「JR」国鉄は、旅客・物流インフラの根幹として官主導だった鉄道事業を継承し、
 昭和24年(1949年)に発足した。
@現「NTT」電電公社は「電気通信省」の廃止に伴い、昭和28年(1953年)設立。
 国内の国内電気通信業務を一手に担っていた。

全て民営化された三公社だが、僕が子供だった頃は、まだ旧態を維持していた。
その名残が、この建物である。

今は業務を金沢へ移管したためか、無人の上物が残るだけ。
関係者でもない限り訪れる人影もない。

電話料金の支払い等のため、多くの人が詰めかけた受付窓口。

何台もの机が並び、何人もの職員たちが動き回っていた事務所跡。

引っ切り無しに車が行き交っていた駐車場。

しばし、がらんどうの内部や周辺を見つめた後、
目を閉じて記憶の中を探ってみると、脳裏に往時の様子が浮かび上がってくる。
しばし、賑やかだった頃を振り返り、目を開けて建物横のスペースを見遣る。

一瞬、子供の僕が、こちらを振り向きつつ笑いながら走り抜けていった気がした。

そして、歩を進めた先にて、電電公社の名残に遭遇。

「樫見さん」管轄の電柱46番なのか?
プレートに込められた意味は不明ながら、久しぶりに懐かしいロゴマークを見た。
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津幡短信vol.38

2017年12月09日 17時06分24秒 | 津幡短信。
津幡町に関するよしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は、以下の2本。

【除雪基地、門扉開く】
今朝の散歩中、道端に薄氷を発見した。

まだ、津幡町にまとまった積雪はないが、日増しに寒さが募る。
上空の気圧配置は冬型。
降雪の気配を察知してか「国土交通省金沢河川国道事務所津幡除雪ステーション」が動き始めた。

足しげく通う「ミニボートピア津幡」の道を挟んだ向かい側、
「国道8号津幡北バイパス」沿いの施設。
春~秋にかけ、長い間、門を閉ざしていたが、人や車の出入りを認める。
いよいよ出番が近づいてきた。


【川面にさざめく羽音かな】
冬の早朝、津幡川は薄っすらと朝霧に覆われる。
放射冷却で冷やされた空気が、水の上を流れる事で出来るそれは、
静謐を演出する絶好の自然現象だ。
自分と愛犬の足音の他は何も聞こえない散歩道。
…しかし、突然、けたたましい物音が!

川面で羽を休めていた鴨の群れが、我々の接近を警戒して一斉に飛び立った。
驚かせたらしい。
すまん。

<津幡短信vol.38>
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