つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

黒髪の美少年(江戸期・日本) ~ 天草四郎時貞。

2021年03月23日 19時10分10秒 | 手すさびにて候。
        
学生時代、日本史の授業で習った
「島原の乱(別名:島原・天草一揆)」をご存知の方は、少なくないと思う。
寛永14年10月(新暦1638年12月)から、
4ヶ月間に亘り繰り広げられた大規模な内戦である。

時は、三代将軍「徳川家光」が治める江戸時代初期。
幕府は諸大名の力を削ぐため、厳しい思想統制を行い、重い年貢を課した。
自ずと各領主の取り立てもエスカレートする傾向だったという。

島原藩が治める島原半島、唐津藩の飛地・天草諸島も例外ではない。
折悪しく、悪天候・凶作に見舞われ、年貢米の収穫が芳しくなかった。
そのため、米や麦だけでなく他の作物も取り立ての対象にし、
加えて、家に棚を作れば「棚餞(たなせん)」、窓の数に応じた「窓餞(まどせん)」、
墓穴に「穴餞(あなせん)」など、様々こじつけた税を徴収。
無茶な設定から年貢を納められない者には、残酷な罰が待っていた。

更に、宗教弾圧が追い打ちをかける。
元々、島原・天草地方を治めていたのは、キリシタン大名。
多くの領民たちがカソリックに帰依していた。
しかし、世が変わり、全国にキリスト禁教令が発布され、迫害が始まる。
改宗を拒んだ者は、身の毛もよだつ責めに苛まれ(さいなまれ)、
殉教する場合も珍しくなかった。

非道な圧政に堪えかね、溜まりに溜まった不満と怒りが爆発する。
身重の女性を殺された村の百姓たちが蜂起。
代官殺害のニュースが近隣の集落に伝わると、次々と呼応。
反乱の火の手は枯野を燃え広がるように伝播してゆき、
関ケ原崩れの野武士、前政権の残党らも加わり、たちまち大勢力に膨れ上がった。

そして、一人の英雄(救世主)が誕生する。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第百六十八弾は「天草四郎時貞(あまくさしろう ときさだ)」。



盲目の少女に触れると目が見えるようになった。
海の上を歩くことができた。
弓や銃弾が避けた。
鳩が飛来し、手の中で産んだ卵から聖書が出てきた。
実は、豊臣の末裔である。

齢(よわい)16。
後光が射すような黒髪の美少年「天草四郎」は、
数々のミラクルとエピソードに彩られているが、真偽は明らかではない。
だが、彼は確かに明日をも知れぬ人々の精神的な支柱、カリスマだった。

“奇跡の御子” “神の子”を総大将に戴いた一揆軍は大いに奮い立ち、連戦連勝。
藩の拠点を攻め落とした後、廃城となっていた「原城」に立て籠(こ)もる。
籠城戦は、後詰や補給の見通しがなければ成り立たない。
敢えて愚策を選択した理由は、希望的観測といわれる。
国内のキリシタン決起や、海外キリスト教国からの援軍を期待しつつ抵抗を続けた。

幕府討伐軍の人事の失敗や経験不足によって、
戦術的には狙いどおり長期戦に持ち込めたが、戦略的には当てが外れた。
どこからも救いの手は差し伸べられず、
孤軍奮闘の一揆勢は次第に消耗してゆき、ついに落城。
「天草四郎」を筆頭に総勢4万人余りは皆殺し。
幕府側も1万人弱の死傷者を出し、幕を閉じた。

--- それから、383年が経った現在、
血で血を洗う壮絶な内戦の舞台が、まさか観光資源になるとは。
「天草四郎」の名を冠する博物館、土産物、ビーチ、観光協会が登場するとは。
当時、誰一人想像すらつかなかったのではないだろうか。

< 追 記 >

島原の乱鎮圧後、ポルトガル人が日本から追放され「鎖国(さこく)」がスタート。
幕末まで230年間に及ぶ、天下太平が到来したことを思えば、
この歴史のターニングポイントは、大いなる悲劇である。
しかし、同時に、キリシタンの仏教弾圧があったことも知っておかねばならない。

キリシタン大名が統治していた頃、天草・島原では、カソリックへの改宗強要が横行。
宣教師の扇動により、仏像を強奪したり、寺社に放火したり、
「異教徒」への激しい排斥攻撃が行われた。
背景には、鉛、硝石など武器原料貿易によって影響力を強めていた
「イエズス会」の権力争い介入があったといわれる。

やがて、内乱へとつながるキリスト禁教令は、西欧の侵略を防ぐ目的も含んでいた。
歴史は一筋縄ではないのである。
          
コメント (4)
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