あたりまえ
こんなすばらしいことを、
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
いきたいところへ自分で歩いてゆける
手を伸ばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
・・・
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜだろう
あたりまえ
あたりまえのように、
主人とともに娘の成長を見届けてこられたこと、
同じ世代の娘を持つ親として、また妻として、
とても恥ずかしく思いました。
こんなすばらしいことを、
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
いきたいところへ自分で歩いてゆける
手を伸ばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
・・・
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜだろう
あたりまえ
和清(昭和54年1月1日)
『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)
あたりまえのように、
主人とともに娘の成長を見届けてこられたこと、
同じ世代の娘を持つ親として、また妻として、
とても恥ずかしく思いました。
私の父も病でいまだに入院中です。
介護をしたこのない母、勿論私も。
介護の大変さ、命の尊さを
父は家族や身内全てに
教えてくれてるんだと思い、
諦めず、介護してます。
といっても病院に居ますけどね。
あたくしめは14年前、闘病の末父をに亡くしまして、
そのときまであまり介護の機会がなく、まぁ、若かったせいもあって?
今考えると、もっといろいろできることがあったなぁって反省しておりますが、、、
父が生前、『もう疲れた。』などと弱音を結構はいておりまして、そんな父が意識もない状態なのに、一生懸命に息を吸って、生きようとしているのを目の当たりにしたときからは、人間の『生きる』ことへの本能というのでしょうか、執着をひしひしと感じました。
家族にとって、どんな状態でも『生きている』ってことへも結構執着してしまうんですよねぇ。
umeさんも肉体的にも精神的にもどうか無理のないようにね。
『苦しみの数だけ優しくなれる』と思います。