人の生涯には、様々な転機があります。それは自ら決断したものであったり、自分の意志にかかわらず周りの状況などからそうなってしまったものなどいろいろでしょう。
私が自分の生涯を振り返ったとき、まだ物心つかない前に、そうした転機を迎えていたことが事後になってわかってきました。
そのひとつは、私が生まれてまもなく、その母が亡くなってしまったということです。いわゆる産後の肥立ちが悪くというのでしょうが、その意味では私は鬼子というべきかもしれません。
名鉄瀬戸線栄町駅で 地下駅のため水漏れがもたらしたフォルム
私の実父は、もともと女系の家に婿養子に入ったのですが、 その妻たる私の母の死後、やはりその家系を守るべく、母の妹と再婚をすることになりました。これは 戦前の「家を守る」という不文律の考え方のもとではよくあることでした。
問題はその母の妹というのが女学校を出たばかりの18歳の若さであったということです。その若い彼女(つまり私の叔母)に、乳飲み子の私と私の2歳上の姉を養育することはとても不可能だったのです。
私が乗る列車が入線してきた 折り返し尾張瀬戸行になる
「家」をリセットするためには、姉と私は余計者になってしまい、親戚中をたらい回しにされた結果、それぞれ別のところへ養子に出されることになりました。私は岐阜へ、そして姉は愛知県の瀬戸へでした。
こうして瀬戸は、私の実の姉の住まいではありましたが(これは実は、私が40歳過ぎてから知ったことです)、それのみではなく、私にとってもある意味をもっていたのは、私が岐阜へ養子に入った際、その仲立ちをしたのは瀬戸にいた私の養母の親戚筋だったからですです。
尾張瀬戸駅到着
ですから瀬戸は、実母を亡くすという第一の転機に次ぐふたつ目の転機の場所、つまり、岐阜の養父母と家族になるということが決められた場所ということになります。
そんなこともあってか、幼少のみぎり、私はよく養母に連れられて瀬戸へ行ったことがあります。それというのも、養母には10人の兄弟姉妹があって、そのうちの三人の姉妹が瀬戸に嫁いでいて、そのうちの長姉の家が、私の養子縁組を斡旋したらしいからなのです(これも四〇歳過ぎに知ったことです)。
尾張瀬戸駅ホームにて
養父が戦争に取られ、敗戦時に満州にいたため、ソ連軍によってシベリアへ抑留されたまま消息不明であった時期、養母は心細く思い、私を連れて縁のある瀬戸へ何度も訪れたのでしょう。
むろんその後も、養母の姉妹の家での冠婚葬祭などに、何度も訪れたことがありますが、私にとっては幼少の頃に訪れた瀬戸は忘れがたいものがあるのです。
尾張瀬戸駅 私が懐かしいのはこの駅ではない 次回にでも紹介
前置きがダラダラ長くなる悪癖のせいで、まとまりがつかなくなっていますが、これはこの度、改めて瀬戸へ出かけた経緯と関連するのです。つまり、まだ意識も定かでない頃、私の人生がこのように始まったという土地を再確認してみようという思いもあったのですが、同時にこれが見納めというちょっと感傷めいたものもありました。
以下は、たった半日間の瀬戸体験ですが、とても一回では無理なので、日にちをまたいで三々五々書いてみます。