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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

駅、そして青い金糸雀は暗い艀に乗って・・・

2009-12-21 01:38:55 | 想い出を掘り起こす
 駅が好きだ。
 駅で合う人も好きだ。
 駅で合う人と街で合う人ととくに変わりはないのだろうが、それでも駅で合う人が好きだ。

 

 私自身、駅へ行くと、ある種の高揚を感じる。
 かつては毎日駅を利用して通う生活をしていた。
 その頃はそんなことはなかった。
 毎日行き帰りに気が昂ぶっていてはおかしくなってしまう。

 
         特定できないための修正を施してあります

 駅を利用して通う生活を離れて40年になる。
 以来、駅は時折行く場所になった。
 だから駅が特別な場所になったのだろうか。
 でもその割によく行ってはいるのだが・・・。

 


 中学生の頃から10年ぐらい、駅の近くに住んでいた。
 とりわけ夜の駅、というか駅からの音には懐かしい想い出がある。
 列車の発着する音、通過する音、汽笛、アナウンス。
 そして夜を徹して行われる貨車の連結作業の音。

 

 それを聞きながら勉強をした。
 ながら族だからラジオも聴きながらである。
 アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」に聴き浸った。
 ダイナ・ショアの「青いカナリア」に聴き惚れた。
 エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いたのもその頃だったろうか。

 

 その頃駅は、漠然とではあるがそこから私が出立して行く起点のように思われたものだ。
 結局、私はどこへも旅立つことが出来ず、今なお駅の周辺を徘徊しているのだが。

 駅は私の果たせなかった夢がまどろんでいる場所なのだろうか。
 駅で出合う人は、ひょっとして私の代わりに夢を叶える人なのかも知れない。

 

 だから駅や駅で出合う人が好きなのだろうか。
 よくは分からないが、ひとまずはそうしておこう。
 私にとって駅は、何か出来事の起きる舞台のように思えるのだ。

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6 コメント

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Unknown (ただいま)
2009-12-21 11:41:30
「駅」は、とめどなくあれこれを思い出させてくれる場所ですよね。場所といえば瀬戸内寂聴著「場所」に出てくる「名古屋駅」は、夫と娘を振り切る最後の決断をする「場所」でした。
 今は遠い日、「駅の時刻表」前では、「さる方にさる人すめるおぼろかな」と、いつまでもじっと見詰める人が何人かいたものですが、今はもう…。
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Unknown (さんこ)
2009-12-21 18:18:53
駅は、心に残る所ですね。出会いや別れもあって。映画「終着駅」の名場面をおもいだします。もうあの憂い顔のハンサム、モンゴメリー・クリフトも、ジョニファー・ジョーンズも、お空へ行ってしまいましたが。高山の駅の柵に登って、汽車を眺めていた少女も、ばあさんになりました。あの柵を、ラッチと言うんだと教えてくれたのは、国鉄詩人の一人でした。
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Unknown (六文錢)
2009-12-22 01:56:19
>只今さん
 名古屋駅は、私が実の母を亡くし親戚をたらい回しされていた結果、2歳の折に養父養母に引き取られることになったその現場です。それは養母に聞きました。
 それで私は、それまで知っていたひとといたのに、その人から別れて知らない人に渡されて泣いていたのをとてもかすかにですが覚えているのです。
 そしてなんと、その記憶には旧名古屋駅の、東口のあの重々しそうな折りたたみ式のガラスのドア(扉)がともなっているのです。

 もちろんこれは、それを聞いたあとで自分のなかで組み立てた記憶かも知れません。
 しかし、あの扉については成人するまで見ていないのに、幼い記憶のなかにも確かにあったのです。

>さんこさん
 「始発駅」が「終着駅」であり、その逆も真だとしたら、ニーチェの永遠回帰に繋がるかも知れませんね。
 え?私の発想は単なる山手線?
 まあ、そうかも知れません。
 でも私にとっては、駅は何ごとか「出来事」の始まる場所のように思えて仕方がないのです。

 駅を思うとき、私は少年です。
 たぶん、おばママがなおかつ少女であるように・・・。
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Unknown (只今)
2009-12-22 10:25:05
六文銭さんの想い出に触発されての再言を。
 完成したばかりの名鉄新名古屋駅(それまでの名古屋の駅は柳橋)を横にみた名古屋駅前で、私は出征兵士を送る日の丸をうち振っていました。
 兵隊さんの集団が崩れて、一人のおじさんがやってきて、私の両頬を強く横抱えしました。このおじさんとは初めて会うのに、何だろうなぁと思いましたが、それが実の父親でした。
 ということで実父の顔は見ることはできましたが、実母の顔は知らず。妄想は拡がるばかりでしたが、五十年忌の時に初めてその母親の写真と対面することになりました。そこにあったのは、土間の隅にひっそりと転がっている「言うなれば芋のやうなる母にして」でした。
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Unknown (冠山)
2009-12-22 18:47:58
旧名古屋駅。なつかしいです。大きな浴場がありました。鳴海から出てきて、風呂につかり、工面した食券でひじきうどんを食い、大同の労働学校へ通いました。… 太閤通り側の裏口で、自由労働者の組織に献身の活動をしていた亡友がいました。彼から慚愧の記憶… 世話活動の礼にと差し出された饐えたコッペをその場で口にできなかった、と聞きました。彼はそれを自らの限界として、自己の運動史を考えていました。
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Unknown (六文錢)
2009-12-24 00:49:56
>只今さん
 私には、ものごころついてから、知らないおばさんが訪ねてきて、私にお土産をくれたり親切にしてくれた記憶があり、そのときは誰か分からず、養母も何もいいませんでした。
 その後、私が40歳を過ぎてから、別のところへ養子に出された姉と再会した際にきいたところ、それは私の実の叔母(父の妹)で、実父の戦死を知らせに来たのだそうです。
 
 その後、京都に住んでいたその叔母とは、その姉とともに訪れ再会したのですが、別れ別れになった姉弟が何十年も経ってこうして揃って来てくれるなんて奇蹟のようだと泣いて喜んでくれました。
 その数年後、その叔母も亡くなりました。

>冠山さん
 今の名古屋駅になってからまだ10年しか経っていないのに、その記憶はドンドン風化して行きますね。
 そうそう、駅構内に風呂や理容店もありましたね。

 駅裏といういい方は今はしないのでしょうが、そちらも随分様子が変わりました。
 私の若い頃は、そちらへはあんまり行かない方がいい、とくに酒でも食らって酔っぱらったりしたら、身ぐるみ剥がれるといった話が大ぴらにいわれていました。
 それでも怖い物見たさと、とにかく安いということで、おっかなびっくり、駅からあまり離れていない辺りで安酒を飲んだりしました。

 今はよく、シルバーやゴールド劇場、それにシネマスコーレへ行きますので、その帰りに太閤口の飲食店を利用したりします。
 

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