(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 酒を愛し酔を楽しむ(第一章坂口謹一郎、 第二章(朝河貫一)

2020-04-16 | 日記・エッセイ
エッセイ 酒を愛し酔を楽しむ

 ふとした事から思い出したのだが、尊敬すべき諸先輩いや先哲とも言うべき三人の人々について紹介したくなった。農芸化学者にして日本酒の大家である坂口謹一郎、愛称は「坂謹」(さかきん)、歴史学者にして国際政治学者の朝河貫一博士、そして基礎医学の巨人、早石修の三人である。 (写真は、坂口の愛した雪椿の花)

(第一章 坂口謹一郎)

 酒のことを語るとなれば、東京農大名誉教授の小泉武夫先生のことを取り上げないわけには行かない。「走る酒壺」とか、「発酵仮面」、「ムサボリッチ・カニスキー」の異名のある小泉さんには、神戸での講演会でお目にかかったことがある。俳句も嗜まれるので、そのご縁で談笑させていただいた。福島県の酒造家に生まれただけああって、日本酒はもちろん専門家である。とても温容な方である。

それに対し、坂口謹一郎先生は、もちろんお目にかかったことはないが、謹厳実直で威厳すら感じる。。しかし日本の酒や酒文化を語らせたら、この人の右に出るものはいない。『日本の酒』(岩波新書 1964年初版)ではさまざまな見地から日本酒というものを紐解いている。「酒の神様」といわれる所以である。さらにサントリーの鳥井信次郎社長に頼まれ、その道の先駆者である川上善兵衛と組んでワイン造りに適したぶどうの品種をつくりあげ、国産ワインの基礎を築いたことも忘れる事ができない。フランスのレジオン・ドヌール勲章も受賞しておらられる。

 坂口謹一郎著書『愛酒楽酔』(愛蔵版三千部中の第二八九八番)を辿りつつ、彼の業績や日頃の思い、さらには歌人でもあるので、酒にまつわる歌などをご紹介することにしたい。

 坂口は発酵・醸造に関する世界的権威であり、東京大学に微生物研究所をつくったくらいである。上記の著書から、微生物についての、文をご紹介する。

 ”微生物研究に酒なんかと軽く見てはまちがいのもと。日本でもフランスでも酒の研究は昔から大きな影響があった。低温殺菌の発明や生物の自然発生説の否定なども百年前のパスツールのワインの腐敗の研究や焼酎もろみの腐敗の研究から起こり、人間の伝染病や後世の免疫なども、同氏の蚕の病気や狂犬病の研究に始まっている。日本の酒の研究もやはり、火落ちという、酒の腐敗の対策から始まっている。火落ちの防止のための火入れという一種の低温殺菌発明は、日本ではパスツールに先立つこと3百年まえのことである。・・・そして微生物とう新発見の生物は、従来の動物や植物とは全く異なる新しい生命力の利用の道を人間に教えてくれたのである。”

”西洋の思想では、人間以外の生物はすべて人間の生存のためにあるとされているらしい。ところが、(東洋では)西洋とは比べものにならない「生類憐れみ」という考えがある。憐れみというのは人間のおごった考え方であって、これを人に人権の尊重があるとすれば、他の生類にも種の尊厳がなければならぬということであろう。この思想を今の微生物にまで及ぼした人がいる。宝塚市の笠坊武夫さんという人で、人間が生存にために殺す微生物の供養のために京都の曼殊院に「菌塚」の石碑を建てた。笠坊さんは、いまでいうバイオテクボロジーの先駆者である。”

 ”もし酒というものを人間の食の本能を助けるために、神の教えた微生物の利用の道であると言うことが許されるならば、それと似たような意味での発明が日本で初めて開発されている。それは食べ物のうま味を微生物の発酵によって作り出す仕事である。それは、アミノ酸発酵とか核酸発酵とか呼ばれて世界の発酵学会にデビューした。わが国の古来の料理の調味には昆布のだし、とか鰹節のだしとか外国には見られない妙術が使われているのが特徴である。そのような、すなはち昆布の旨味のアミノ酸。かつおぶしのうまみ味のヌクレオチドの工業的多量生産が、研究によって発明された。・・・・まことに微生物の魔力は宏大である。”

 では、坂口先生の酒にまつわる歌をいくつか見てみたい。

”(灘めぐり)
 くらぬちに吟醸の香の冷え冷えと冴えこもおるなり冷凍 の庫)~白鹿

 いにしえに水を究めし鋭心(とごころ)のみおやの魂のこもるみ庫ぞ~櫻正宗

 (吟醸酒の庫)

泡分けてすくひとりたる猪口のうちふくめばあまし
若きもろみは待ちえたる奇しき香りたちそめて吟醸の酒いまならむとす

(新潟県の疎開先の庭にて、大蔵省酒造講習会講師諸氏の慰労の宴をはる 昭和23年)
”もろもろの造りの神の集まりて木下陰に酒ほがひする”

(うまさけ)
とつくにのさけにまさりて ひのもとのさけはまほりもあじもさやけき

これのよをたのしくせむと うまさけの究めのみちにいのちかけさす

たのしみは何かと問わばうまさけをあるにまかせて飲みくらすこと

うまさけはうましともなく飲むうちに 酔ひての後もくちのさやけき

 「 坂謹」の語りと歌いかがでしたか。今宵もいっぱい飲みたくなりました。


     ~~~~~~~~~~~~~


(第二章 朝河貫一)

 私の手元に『最後の日本人~朝河貫一の生涯』(阿部善雄 岩波書店 1983年9月)という書物がある。これは、私の知る限りでは朝河貫一について最も詳しく、その活躍のすべてを語り尽くしたものであるので、それに基づいて朝河のことを記すことにした。朝河は、明治の日露戦争から第二次大戦に至る時代を通して、日本外交への忠告と批判に全力をあげた。今日の国際情勢を省みるに、今こそ朝河博士のような存在が必要であると考えるので、改めて彼の活躍の全体像を描いてみることとした。

東北新幹線の福島と郡山のほぼ中間に二本松(市)がある。
西に安達太良山、東に阿武隈川が流れている。朝河は、明治6年に二本松藩士朝河正澄の長男として生をうけた。
当初、言語機能の発育が遅れていたが、母親エヒが熱心に発音練習を繰り返させたなどにより、4歳のころには体躯も言葉も年齢にふさわしいまでになった。また父親正澄の熱心な教育もあり、早くから神童と言われるようになった。福島尋常中学(後の安積中学~高等学校)の卒業式で首席総代である朝河は、来賓の祝辞の後、答辞を読んだ。
正面に進みでた貫一の口元から,すらすらと流れ出たのは英語の演説であった。来賓の誰もがあっけに取られた。列席していた英人教師ハリファックスは、その文章の見事さに感じ入り、”やがて世界はこの人を知るであろうと”語った。

 その後、朝河は東京専門学校(後の早稲田大学)に進学するが、このころよりアメリカへの留学を思い立つようになった。詳しいことは省くが、友人の紹介で本郷教会の牧師横井時雄と出会い、その横井は朝河のアメリカ留学の意思が固いことを知って、大きな力を貸すことになった。横井が初めて渡米し、アンドバー神学校で学んだ時の友人ウイリアム・J・タッカーに。朝河の才能について語り、留学の便を図ってほしいと頼んだ。タッカは、その頃ダートマス大学の学長をしていたが、横井の要請に応え、朝河の学費や舎費を免除することにした。朝河は、友人や徳富蘇峰、大隈重信、勝海舟の援助をも得て渡米することになった。

1895年末アメリカに旅立った朝河は、ニューハンプシャー州ハノーバーにあるダートマス大学に入学した。朝河は会話力に悩みながらも次第に現地に溶け込んでいった。1896年には、徳富蘇峰の『国民新聞』に、アメリカ社会において自分が観察したことや体験したことを10篇のレポートで報告した。そして1898年24歳の時に、はじめて日本の外交姿勢を論じた。評論雑誌『国民之友』に「日本の体外方針」と題する論文であった。 ”日本外交が確固たる道義を掲げるのでなければ、ロシアの黄禍論を背景とした東進政策を阻止できない。また、日本の方針は文明最高の思想と一致しなければならず、そのようにあってこそはじめて東洋における義務を悟り、また世界に対する地位を獲得することができるのである・・・”、と。余談ながら、ダートマス大学時代の朝河はいつも最優秀の成績をおさめた。諸教授は、朝河の卒業にさいして学力と成績ばかりか、彼の人格と人をひきつけてやなまい個性に対しても賛辞を惜しまなかった。

 卒業が近づいた時、朝河はタッカー学長から、”歴史科の中に東洋と西洋との関係を研究する分科を設ける、ついては朝河にその教授を委ねたい”、と言われた。そして、そのために数年間最良の大学で研究をしてもらいたい、というものであった。学長の夢のような提案に喜んだ朝河は、エール大学を選んだ。(注 エール大学YaleUniversityは、アメリカ東部でも屈指の大学であり、2019年の世界大学ランキングで第8位のザを占めている。5人の大統領、48人以上のノーベル賞受賞者を輩出している) エールでは、大学院歴史科に入学し、ここでも優秀な成績をとり、急速に頭角をあらわしていった。1902年ハノーバーのダートマス大学で講師となり、東洋史、東西交渉史などを講義した。そして『日露衝突』という著書を表すに至った。

 朝河の『日露衝突』は、アメリカ国民に大きな影響を与え、同年8月に日露講話会議の地であるポーツマスで平和論を訴えた。この『日露衝突』は、日露戦争が開戦後9ヶ月を経た1904年11月にアメリカとイギリスで出版された。ロシアのバルチック艦隊は太平洋に出撃すべく、北アフリカまで南下をしていた時であった。

この著は、戦争を目前にして、その開戦に至るまでの国際関係の推移と経済の発展を客観的・学問的に研究し、両国の衝突の原因を明らかにしており、その著述は類をみない。
(時に朝河、30歳) 朝河は、開戦当時にあっては、欧米の日本人に対する感情が揺れ動いて不安定であったので、少しでも正しい見解が生まれることを期待して、この著を世に送ったのである。朝河は、日本は自分の存亡のために宣戦したのだということ、、日本の国運を救う道は、そのまま清国の主権を尊重し、満州・韓国における機会均等につながることを強調した。満州に領土的野心にないことを宣言したのである。彼の、この考えはエール大学の諸教授が日本の対露講和条約をまとめるにあたり大きな影響を与えた。朝河は、日本の戦力が限界にあることを知っており、またロシアの財政窮迫も知っていた。そして”小村もウイッテも速やかに妥結せよ”、と説いた。

次いで1909年7月、伊藤博文が朝河の『日本の禍機』と題する冊子に目を通し、日本外交を批判する論陣に目を瞠った。その冊子は坪内逍遥の手で出版された。朝河は、次のように訴えた。
 
 現在の日本にとって最も重要なことは、反省力のある愛国心だと強調し、満州問題の核心に迫った。日露戦争前後において、日本は東洋政策の根本を中国の領土保全と列国の機会均等の二大原則に置くと、繰り返し公言したにも拘わらず、今これを反故にして排他の政策をたくましく進めているため、世界は揃って日本を非難しているのだと強調する。・・・そしてアメリカが日露戦争を通じて日本に多大な同情を寄せたのは、実にこの二大原則に正義の声を聞いたからである、とした。

ところが当時の日本にあっては、国際協調に立つ新外交を意識した発言力は極めて弱かった。陸軍自身も南満州の軍政下における権益拡大と強化に野心を燃やしており、参謀総長児玉源太郎に至っては、満州経営の根本方針を「陽に鉄道建設を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」と公言していた。挙げ句の果てにには、政府の制約をうけない
「軍令』が伊藤博文の反対を押し切って交付された。。

 朝河は、日清戦争後の三国干渉による強圧的な膠州粗借りを懸念し、正確な期限をつけて支那(中国)に還付すべきだと述べた。日本政府は、1915年1月に袁世凱大統領に悪名高き「二十一箇条要求」を突きつけた。その時、朝河は、それが表面化する前に大隈重信に手紙をよせ、世界の排斥を受けるような禍害の種を撒かないでをほしいと訴えた。ちなみに、この要求は1915年5月7日に最後通牒として出され、中国側は9日に受理したが、その日は、中国人は「屈辱の日』と呼び、日本に激しい抵抗を示すようになった。

この後、1920年朝河は、世界情勢と日本の前世界的な反動政治姿勢について注目すべき分析を繰り広げた。とくに1917年11月のシベリア出兵については、酷評を極めた。さらに1941年には昭和天皇への平和を呼びかけるルーズベルト大統領親書の打電運動に心血を注いだ。親書は最終的に天皇に送られたが、不幸なことに一部米国関係者によって修正され、日本の国民性と歴史への理解や、元首や国民が政府によって立たされてる苦境への同情が全く入っていなかった。また天皇に親書が届いたときには、日米はすでに戦争状態に入っていた。

 朝河は、戦後の日本の状況もよく知っていた。1947年11月(昭和22年)に朝河が友人に送った手紙の中で、日本は自衛力を持つべきであると主張する共に国政の運営にあたっては、それぞれ独立した機能を備える二院制としなければならないと強調した。日本が自衛のための警察力さえないような新憲法を作ったのは、ロシアの侵略や極左
の動きを招きかねないとして愚策でありとして、これを改正しなければならないと論じたのである。

 朝河は、1948年8月バーモント州ウエスト・ワーズボロの山のホテルの一室で74歳の生涯を終えた。
米国では、AP電もUPI電も、「現代日本がもった最も高名な世界的学者朝河貫一博士が・・」と打電して、その死去を世界に伝えた。米軍の横須賀基地では、半旗がかかげられた。

     ~~~~~~~~~~~~~


(第三章 早石修)・・・・続編に続く。










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2 コメント

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尊敬する人 (龍峰)
2020-05-03 15:23:05
ゆらぎ 様

残念ながらゆらぎさんが挙げられた3人の方々はあまり知りません。坂口謹一郎は初耳です。朝河貫一博士の名前は聞いたことはありますが、詳細は知りませんでした。
日本も古くからの発酵食品が、中国からその昔伝えられたかもしれないが、独自に育てられ愛され、発展してきたと思う。それを学術的に位置づけられたのは偉いと思う。
朝倉博士の紹介に特に感銘を受けます。このような世界的視野に立った、西洋人も感心・賛同する人物が日本人に居たということは何と誇りに思うことでしょう。日露戦争の終結時アメリカルーズヴェルト大統領に日本に有利な仲裁をしてもらえたのもこのような人が陰で支えたからであろうか。
児玉参謀総長の話が出てきたが、彼は恐らく明治以来最も優秀な軍人の一人であったが、晩年の満州問題の処理では陸軍の独走を容認する行動に出たのは残念であった。身を張って抵抗したのは伊藤博文であったが、朝倉の高い見識に或いは影響を受けていたのかもしれない。
このような崇高な人物が今の日本に現れたならばどれだけ日本は救われるかとつくづく思う。
遅ればせのお礼 (ゆらぎ)
2020-05-07 09:37:00
龍峰さま
 駄文をお読みの上、コメントをお寄せいただきありがとうございました今の日本は国際政治の中での立ち位置が難しい局面にあります。先般の中国問題での大兄のご指摘の通りです。このような時にこそ、朝河貫一博士のように、アメリカ人にも尊敬され影響を与えられるような人物が必要です。残念ながら現在では政治家も官僚も、小粒ですね

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