幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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水攻め火責めの今年の夏から願う「神と共に暮らす人生」

2018-07-25 00:40:49 | 気象・天変地異

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毎日暑いですね。

猛烈な暑さが日本を覆っています。

天気図を見る限り、1か月くらいは、この暑さが続きそうです。

と申しますのも、梅雨明け以降、太平洋高気圧の中心が、西日本上空にドッカと居座ったままです。

夏の主役太平洋高気圧の中心は、通常だと太平洋上にありますが、それが今年は、日本の本土上空にあるわけです。

この今年の太平洋高気圧、ライバルのオホーツク高気圧が、今年は遠く東北の海上に追いやられていて、太平洋高気圧の勢力が、中国大陸や朝鮮半島にまで進出していて、中国北部では、前線を伴わない、熱帯性低気圧の発生が見られますので、相当強いタイプです。

チベット高気圧という大陸の夏の高気圧と合体しているという分析もあるようですが、どうなんでしょうね?

通常、太平洋高気圧のへりを通る台風や熱帯低気圧が、中国東北部に移動していますから、ちょっとわからないです。

台風や熱帯低気圧は、高気圧があれば入り込めないので、もしかすると太平洋高気圧単独で、これほどの暑さを作り出している可能性がありますね。

高知から見える今年の夏空の大きな特徴は、入道雲が見えないこと。

いや厳密に言えば、ちょびっとだけできようとはするのだけれども、ある一定の高さ以上、雲が発達できないでいます。

そしてある一定の高さまでくると、ピラーっと、横方向に広がる感じです。

これは恐らくは、高い気圧で、上から雲が押されているのだと思います。

これだと、夕立も期待できません。

まるで天が入道雲に対して、御自らの力とその差を、「入道雲の分際で!」と見せつけているかの如き、この夏の雲の動きです。

今年の夏は、記録的豪雨に始まり、連日熱中症死亡者が出る酷暑と、天変地異さながらでございますけれども、総括すると、「天は人間に、その自らの力を、見せつけていらっしゃるのではないか?」と思えずにはいられません。

というのも、いくら科学が発達したからと言っても、いくら文明を進め、暮らしが便利に快適になったといっても、大雨を降らせる梅雨前線を消滅させることもできなければ、灼熱の夏をもたらす、スーパー太平洋高気圧の位置をずらすこともできないからです。

「ラ・ムーの本心」という経典が幸福の科学出版より発刊されましたけれども、この中で大霊ラ・ムーは、「ムー文明では、気象を操ることができた。」と仰っていましたので、ムー文明の末裔と思われます日本の神々にとっては、高気圧の位置をずらすことなど、おちゃのこさいさいなのかも知れません。

一方、現代文明下に生きる我々人間にできることといえば、せめて未曾有の大水害に備えて治水を工夫するなり、早め早めの避難措置を選択するなり、また熱中症対策でまめに水分補給をしたり、エアコンの効いた部屋で暑さをしのぐなりすることぐらいが関の山です。

神が創り賜うた箱庭としての地球の上では、一旦大自然がその猛威を見せつければ、人間が作り出した文明力など、ほんの微々たる力なのです。

現代の方々は、その事実は事実として、やはり認めるべきだと思うのですね。

それは別に、恥ずかしいことではないです。

それは、「神と共に生きることを、誓って生きる」ということだし、歴史を読み解けば、これこそ、日本人が古来より持ち続けていた人生観そのものです。

公開霊言 超古代文明ムーの大王 ラ・ムーの本心 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=2051

現代日本人は、もしかしたら「神と共に生きる」ということが、恥ずかしいことだと認識してはいないでしょうか?

世の中には自由論が多々ありますけれども、今の現代文明下で残っている自由論というのは、近世に欧州で書かれた啓蒙思想が主流でしょうけれども、この自由論は「中世キリスト教教会からの自由論」なのです。

それはその時点では、ヨーロッパの近代化のためには、どうしても必要で、大切だったかも知れませんけれども、今とは背景が全く違うということも知らなければなりません。

そこで今私たちが、何の工夫もせずに、眼に入る情報としての「自由論」は、「神からの自由」という概念となっているのです。

さあ長年、何億年と、「神からの自由を!」と叫び続けているのは誰でしょうか?

これが、「悪魔」と呼ばれる存在なのです。

よく伝道していて言われるのですけれども、「宗教?別に必要ないし。」という、現代的には何気ない一言には、「神様からは、フリーでいたい。」という思いがあると思われますが、それは「神からの自由」を選択しているだけでなく、同時に、「悪魔の支配下に生きていても良い」という意思表示にもなっている・・・。

これは私の個人的な、極端なうがった見方なのかも知れませんが、皆さま、一度お考え下さいませ。

さてまとめると、天が今、人々にその力を見せつけるようなご意思を、天候でお示しになっているのは、「神の子人間たちよ、神と共に生きよ。」というメッセージなのではないでしょうか?

「神様が身近にいて。困ることなど何一つない」という信条の私には、今年の夏からは、そう思えて仕方がないのです。

本日は経典『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をご紹介いたします。

        (ばく)

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悟りの極致とは何か https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=188

何を信ずるか。言うまでもありません。いちばん簡単なことです。「この世を創られ、私たちを見守っておられる大宇宙の神がいらっしゃる」ということ、「私たち人間は、神が創られた子供である」ということ、この単純な事実から出発いたします。(中略)

しかし、考えてもみてください。人間が偶然にできあがり、そして偶然にできあがるのみならず、ちょうどゼンマイ仕掛けの人形か何かのように、魂なく動いているだけの存在であるという考えを前提とするならば、そこに、どうして愛が生まれてくるでしょうか。(中略)

愛だけではありません。もっと素晴らしい、人間的な多くの高貴な感情は、すべて魂の属性なのです。美しきを見て感動する心、誠実さを見てよろこぶ心、素直さを見て尊いと思う心、そして自らの命をも厭わずに、神のために生きてゆく人たちを見たときのその感動は、唯物的なものの見方からは決して出てこないのです。(中略)

そうして、神が宇宙を創られ、人間たちを創られて、今もなお見ておられると信ずることが、私たちの生き方をどれほどまでに素晴らしいものへと変えてゆくでしょうか。

その神の目があるからこそ、大いなるものが見つづけていると考えるからこそ、熱いまなざしを送りつづけているという確かな手応えがあるからこそ、私たちは日々自らを律し、素晴らしき人間となってゆくために、自己改革に励むのではないでしょうか。(中略)この事実を受け入れたところで、何ひとつ私たちが困ることはないのです。

その事実を受け入れて困る人間は、生きている間に、さんざん自分のやりたい放題のことをし、他の人びとに迷惑をかけている人びとだけであるはずです。

彼らは恐れるに足るでしょう。死んで何もかもなくなると思えばこそ、そのような生き方ができるのでしょう。もし、死んで後に生命があるとするならば、たいへんなことであります。(中略)

けれども、人間としての存在が是とされ、また他の人びとにも、「こういう人といっしょに生きていてよかった」と言われるような人であるならば、この「信仰」ということを当然のことと受けとめて、何ら恥じることはないはずです。そして、それは素晴らしいことです。

今、自分がどのような姿として現われていたとしても、「本来神の子として創られた存在であるならば、無限の可能性があるのだ」「まだまだ自分は磨いてゆけば光ってゆくのだ」と思えるからこそ、個人としても素晴らしくなり、社会としても素晴らしくなってゆくのです。

これは、どうしても飛び越えねばならない最初の関門です。神を信ずる者にとっては、すべては輝きに満ちて見えます。世界は宝の山に見えます。しかし、神を信じない者にとっては、ああ、世界はどのように見えることでしょうか。その、たったひとつの心境の違いだけで、見える世界までが違ってくるのです。

同じく数十年の人生を生きるのであるならば、損得で考えても、素晴らしい人生を生きるほうをとってゆくことが得であり、人間として当然の義務であると、私は思うのです。
『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)P77~82

 

【特報】映画『宇宙の法ー黎明編ー』

 

 


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