聖地エル・カンターレ生誕館 http://shoja.jp/seitankan/
智慧の法には希望があります。
大川隆法幸福の科学グループ総裁は、智恵の法講義で、「智慧の法は、考える人を創る教えです。(智恵の法講義)」と仰いました。
「考える人を創る」という前提には、幸福の科学の教えには「自由」があるということです。現代日本には、宗教を信じる人たちを、まるで、「神の奴隷」か何かのように言う人たちもいます。
人を奴隷としようとしているのは、神なのか悪魔なのかに対して、現代人は、もうそろそろ、その違いを見分ける眼を持つべきだと私は思うのです。
何を考えるかは、個人の個性の差が、相当あると思います。
しかし大切なことは、「神が、人に何かを、押し付けようとはなさっていない。」というエッセンスだと思うのです。
そう、「宗教とは、洗脳とは真逆のものだ。」ということです。
それが、幸福の科学大川隆法総裁のお考えなのです。
本来の宗教とは、神の属性である「創造性」を、神を信じる人たちが自らの個性のもとに、それぞれが創意工夫して、生み出していくためにあるのです。
だからこそ、宗教から文明が生まれると私は考えます。
一方、無神論や唯物論から、歴史的な文明は生まれていません。そこには、神が根源的に持つ、善や美の価値、そしてこれらを汲み取り実現しようと、信じた者それぞれが、それぞれの美意識の欲するがままに、この世界に実現しようとするからこそ、結果的に文明となってしまうと思うのです。
となると、世間でよく使われる言葉として「宗教=マインドコントロール」というのは、完全な間違いということになりますよね。
むしろ、「宗教=マインドコントロールという価値観こそが、マインドコントロール」なのではないでしょうか。
なぜならば、その宗教が本物ならば、マインドコントロールはできないからです。
なぜならば、神の心を知ると、心は自由自在になるからです。
これを仏教では「解脱」と言います。「解脱」した結果、得られた平和の境地が「涅槃」です。
さあ、神の智慧を知って、なぜコントロールされなければならないんですか?
神の智恵を知って、なぜ、他のことを考えることができなくなるのですか?
私には、「宗教=マインドコントロール」という、世間で言われる浅薄な常識が、全く理解できないのです。
マインドコントロールは、「地獄に行くぞ。」とか、「悪いことが起こるぞ。」という、恐怖心を利用したものです。
神の慈悲を知って、なぜ地獄に落ちることを恐れなければならないんですか?
「マインドコントロール」それは、宗教を装った「詐欺」なのです。
宗教を、「マインドコントロールだ。」という風潮は、神さまからすれば、迷惑千万な話でございましょう。
それはひいては、人類全般にも、迷惑をかける風潮でもありましょう。
ですので、そういう風潮がまかり通る時代は、一刻も早く終わらせたいものです。
話を戻します。
『智慧の法』は、考える人を創る教えです。
それは神の創造を、この世に実現する人を創る教えでもあります。
つまり、「神の美」を、この世界に実現する人を創る教えです。
「神の善」を、この世に実現する人の教えです。
「神の真の価値」を、この世に定着させる教えでもあります。
真・善・美という神の属性を、神を信じる人それぞれがつかみだし、自らと自らの周囲に展開していく教えです。
その中には、考えの違う人との出会いもあるでしょう。
しかし、それはそれで良いと思うのです。
自分では、つかみ出せない神の真、神の美、神の善を、知る機会となるのですから。
おそらく神は、ひとつの大きな価値を有ししゃるでしょうが、人間ごとき小さな者が、その全貌をつかむことなどできるわけがありません。
だからこそ、多くの人たちがいるのです。
その多くの人たちと共に、それぞれの尊い眼差しのもと神を見、神の心を忖度し、神の美と善と価値を探ることが、信仰であり、精進ではないでしょうか。
そしてそれを、各自が世に訴えていくべきだと、私は思うのです。
「智慧の法は、考える人を創る教え」このひとつの言葉から、新たな時代は始まったと思います。
それは、信仰の民主主義の時代です。
ということで本日は、経典『智恵の法』(大川隆法著 幸福の科学出版)より一節をご紹介いたします。
(ばく)
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〈演題〉 「信仰からの創造」(Creation from Faith)
(※タイトルは変更になることもございます)
〈日時〉 2020年7月12日(日) 13:00(予定)
〈本会場〉 総本山・正心館
〈中継会場〉全世界の幸福の科学の支部・精舎・拠点・衛星布教所
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1377
以前、「リーダーの条件」という法話もしましたし、それが経典にもなっておりますが(宗教法人幸福の科学刊・本法話研修参加者限定)、私はそのなかで、「リーダーとは、『自分がやるべきことを知っている人』のことです」「『人から指示をされなければ、自分が何をなすべきかが分からない人』は、リーダーの条件から外れます。そういう人は、フォロワー(ついていく人)であり、部下に相当します」と述べました。
つまり、リーダーとは、ほかの人から言われなくても、今、自分がやるべき仕事は何なのかが分かる人です。
もちろん、社長以外の人には、部門の長であれ、何らかの会社の方針や方向性についての指導はあるでしょう。そうした大きな流れや、業種による方向性は当然あるとは思いますが、いろいろなところに配置されたときでも、「その場に置かれたら、自分が何をなすべきか」ということを自分で分かる人は、リーダーなのです。
さらに、「部下を持っている場合、自分の仕事のなかで、自分ではなくてもできる仕事を部下に任せたほうが、自分としても、より高度な成果をあげられる」ということが見抜ける人は、リーダーでしょう。
リーダーといっても、もちろんトップから、中間レベル、あるいは下のほうのリーダーまで、レベルの差はあるとは思いますが、基本的に、リーダーとは、「言われなくても自分のなすべき仕事が分かる人」のことを言うのです。
『智恵の法』(大川隆法著 幸福の科学出版)P214~215