本日は、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しくださり、本当にありがとうございます。
さて、気が付けば時節は2月も下旬です。
今週初めから、日本のみならず北半球の国々で、世界的な寒波が到来して、地球温暖化対策に対して、並々ならぬ熱意をお持ちと言われるバイデン氏のアメリカ大統領就任に対して、「ホントに温暖化しちょるんか?」という疑問を投げかけたくなるほど寒かったのに、今日は急に暖かくなりまして、高知では本日、「春一番」が吹いたのだとか。
ここ数日、暖かかったり寒かったりと、「三寒四温だなぁ。」と思えて、ついこの間まで、冬にどっぷり浸かっていた日々が、なんだか遠い思い出気分ですね。
そしていつの間にか日も長くなり、梅や小さな草花の芽吹きもあって、確かに少し春めいてきています。
ところで、実は春という季節は、一年で最も風が強い季節らしいです。
冬なら木枯らし、夏や秋の台風なら「さもありなむ」ですけれども、気象の世界では、強風と言えば春なんだとか。
ではなぜ春は風が強いかというと、温度差があるから。
温度差があると、それによる上昇気流が起こるからです。
物質には熱伝導というのがあって、いつかは同じ温度になろうとするのだけれども、気体というのは、熱伝導が滅法弱く、なかなか同じ温度にはなりません。
ですので、冬の冷たい気団と春の暖かい気団がぶつかると、混ざらずに、冷たい気団に暖かい気団が乗り上げる形になります。
これを気象では、「前線」と言いまして、冷たい気団と暖かい気団が同じ勢力ならば、きりもみ状に一気に上昇気流が発生します。
温帯地方では、こういう気団の温度差によって上昇気流が起こるので、前線を伴う低気圧を「温帯低気圧」、前線を伴わず、単純な、海面などの過熱による上昇気流を「熱帯低気圧」と呼びます。
ちなみに熱帯性低気圧で、風速が秒速17m以上のものが「台風」ですので、台風が熱帯低気圧になったからといって、雨の勢力とか勢力圏が小さくなったわけではないし、温帯低気圧になったといっても、ぶつかった前線を取り込んだだけのことがあるので、呼び名が変わったからと言って、安心してはいけないわけですね。
「上昇気流に向かって風は吹く」というのは気象の鉄則で、上昇気流というのは、要するに低気圧のことです。
空気にも重さはあって、地球の空気は一定の圧で、地上の全てを押し付けているわけですけれども、上昇気流があるとその圧が減ぜられて、気圧が低くりますので、これを「低気圧」と呼びます。
全ては流れやすい方に流れます。
水も電気も空気も、そして人の心も。(爆笑)
天上で上昇気流が起こっていると、地上では気圧が低くなって、そこに空気が送り込まれるのが「風」なんですね。
私の暮らす高知県は、南の海にぽっかりと大きく口を開け、北は険しい山脈に閉ざされた、かなり単純と言えば単純な地形でして、風向きによって天候を占うのが比較的簡単な地域です。
高知では、南風と東風のときには雨の確率が高く、北風や西風だと、ほぼ雨は降らないです。
これは、「上昇気流=低気圧に向かって風が吹く」の応用です。
まぁ冬から春にかけて、言わば季節の変わり目に、老いた冬と若き春との世代交代の嵐が吹き荒れるのですが、これは季節だけでもなく、会社組織の話でもなく、「文明」という、短き人生を生きる我々にはわかりかねる、大きな大きな節目にも起こることだと思うのです。
いわゆる、「価値観のぶつかり合い」です。
それがニュースでよく取り上げられる、キリスト教文明とイスラム文明との宗教紛争であるとか、中国や北朝鮮などでの、「共産主義=無神論的全体主義」と、アメリカや日本などの、「自由と民主主義社会」との対峙に当たるわけです。
無神論=共産主義は、必ず全体主義に陥ります。
しかし、宗教が神様の独裁と思われているのは、ユダヤ・キリスト教・イスラム教などの「一神教」における誤解でして、その証拠に、仏教や日本神道などの多神教社会においては、基本的に合議制心を重視する社会となります。
仏教も、お経に残っている仏陀の説法のほとんどは、舎利子(しゃりし・シャーリプトラ)などの高弟との雑談であるし、仏陀教団のサンガ(僧団)も、仏陀が不在の時には、4人の出家者による合議によって、諸問題を解決する決まりがあって、これは仏教が合議制である証拠です。
また、日本神道の経典『古事記』では、八百万(やおおろず)の神々は、よく神評定をしていて、日本になじみの深い仏教や神道は、共に「合議制宗教」であることがよくわかります。
日本なんぞは、聖徳太子以降、1500年前には完全な信仰の自由社会であったし、遅ればせながら、キリスト教国も200年前ほどから、近代自由主義を持ち得ましたので、今の中朝VS日米の対立は、自由が尊いと思うならば、絶対に勝たなければならない価値観の対立です。
もしも「宗教は神の独裁制」みたいな見識をお持ちならば、それは「悪魔の言いがかりであると喝破するべき。」と私は思います。
https://the-liberty.com/article.php?item_id=12103
とにもかくにも、「悪魔の言いがかり」に支配された冬の時代を終わらせ、一日も早く、神の子人間による春の時代になりますように、微力ながら、頑張っていきたいと思う次第です。
幸福の科学は、人類にとっての春の時代、新時代、新文明の、新しい精神的支柱になりうる大法です。
本日は、経典『宗教立国の精神』(幸福の科学出版)より、共産主義を論理的破邪した部分の抜粋をお届けいたします。
私は、仏陀の智慧を実感しましたし、価値観において、現代日本は共産主義=無神論全体主義に、半ば陥っているという危機感を感じる次第です。
それでは、またのお越しを。
(ばく)
他力が臨む生き方とは 天使のモーニングコール 1485回 (2020/3/14・3/15)
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=89
マルクス主義者たちは、革命のために暴力を使うことを肯定し、「銃口から革命が生まれる」などと言っています。
つまり、彼らは、「反対する者は処刑したり殺したりすればよい。そうして一党独裁体制をつくり、自分たちの理論どおりに政治をすれば、結果的には平等な社会ができる。党のエリートだけで支配すれば、理想的な国ができるのだ。それがユートピアである」と考えたわけですが、現実は、そうはなりませんでした。
ユートピアというのは、本当は、次のようなものなのです。
「一人ひとりが、『神の子、仏の子としての本質を持っている』ということを信じ、そのダイヤモンドのような神性、仏性を輝かせていく。また、それぞれの人が、自分の才能に合ったところ(適材適所)で、見事に発展・繁栄をしていく。そして、個人として才能を伸ばすとともに、会社や社会、国家など、全体としても大を成していく」
実は、こうした繁栄のなかにこそ、神の栄光、仏の祝福が得られるのであり、このような世界こそが、本当の意味における、地上ユートピアであるのです。(中略)
共産主義的ユートピア思想の間違いの根本は、やはり、「結果平等を最終的に目指した」というところにあります。
もちろん、チャンス(機会)の平等は構いません。
例えば、「選挙というものがあり、学歴や家柄、収入等に関係なく、誰もが一人一票を与えられている」ということは、政治参加におけるチャンスの平等でしょう。「どのような国をつくるか」ということが、国民に委ねられているわけであり、非常にありがたいことです。
ゆえに、チャンスの平等がある国はよい国であると思います。
ただ、「結果をすべて同じにする、すなわち、努力した者も努力しなかった者も同じように扱う」というのは困ります。
この表れの一つが、「差をつけてはいけない」という考えです。
例えば、最近では、運動会をすると、「一番から五番まで全員一等賞にする」とか、そういう幼稚園などもあるようです。
こういうことを始めたら、「努力をしても、しなくても、結局、同じだ」という世界になります。子供心にも、「一番から五番までいたのに、全員が一等賞というのは、おかしいな」と思うことでしょう。
あるいは、会社であれば、企業努力をして発展し、黒字で税金を納めるような立派な会社もあれば、放漫経営をして倒産し、救済を受けるような会社もあります。この差はかなりあります。
この結果を、平等に扱うわけにはいきません。社会的評価や名声等が、それなりに違うものにならなければいけないでしょう。
やはり、結果平等を目指すのではなく、チャンスをできるだけ平等に与え、いろいろな人が自己実現していける国をつくることが大事です。
『宗教立国の精神』(幸福の科学出版)P56~60
キャンディーズ 春一番(アルバムヴァージョン)
映画『美しき誘惑ー現代の画皮ー』公式サイト https://utsukushiki-yuwaku.jp/
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が、、、多かろう・
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