本日は、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。
さて、私は神様を信じています。
私は、「宇宙や、地球などの星々や、そこに暮らす生命をお創りになった、創造主としての神が絶対にいる」と確信しております。
ちなみに、このブログは、幸福の科学の信者さん向けだけにあるのではありません。
世界中の「神様、仏様を信じる方々の、勇気の源泉になれば。」と思って、日々更新を目指ししております。
また、現時点では神様を信じていらっしゃらない方々が、「神様って、本当にいるのかなぁ。」と思っていただければ幸いです。
ではなぜ人は、神を認識し得ないのでしょうか?
それは「私たちの生命は、神様の中で生きているからだ」と、私は思うのです。
すべてが、神様の神秘の中で生きているがゆえに、かえって神様のことがわからないのではないでしょうか。
空気だって、健康を害して息をするのが辛かったり、水に溺れて息が苦しくなれば、「空気があるのはありがたいことだ。」と思えます。
しかし健康体で、ちゃんと空気のあるところでは、眼に見えない空気のことを、認識することは余りないと思いますが、現実的には、空気なしでは、人は生きていくことなどできないです。
神さまや仏さまというご存在も、同じなのではないでしょうか?
さて「神様が存在する」というのが本当であるならば、どうしても、無神論・唯物論は間違いになります。
何度も拙ブログ記事で書いておりますけれども、これら無神論・唯物論を標榜している方々の、宗教への一般的な見解というものは、実は他愛もない、ただのイメージにしか過ぎません。
無神論的価値の方の語る批判というのは、実は何の根拠もないのです。
なぜそう言えるのか?
それは私自身が、かつてはそうであったからです。(爆笑)
しかし、事実はそうではありません。
本物の信仰者というのは、実に本質を見抜く見識を持ちえているのです。
特に、無神論・唯物論全盛で、宗教教育をしていない、現代日本においては。
日本の一般的な、科学的知識を持つ人々は、僕たちが住む、この宇宙をどう見ているのでしょうか。
答えは、『ただの偶然の産物』としてしか、彼らは認識できていないのです。
とても悲しく、淋しい宇宙観であると、私は思います。
いや、とても悲しい信仰をお持ちだと思います。
それは、「偶然という神」を信じていると思うからです。
宇宙の始まりがビッグバンであることは、多くの人々が知り得ています。
しかし、ビッグバン以前は何だったのでしょうか。
そうです、「無」ですよね。
では一体、「無」とは何なのでしょうか?
「無」の前には、一体何があったのでしょうか?
なぜ、「無」から大宇宙という、「存在」が生まれたのでしょうか?
そもそも、「宇宙」とは、何なのでしょうか?
「宇宙」は、何ゆえに存在しているのでしょうか?
これらの問いかけに、多くの科学者は、また、自らを科学的人間であると証する人々は、絶対に答えることはできないのです。
なぜなら、これらは全て「神の領域」だからです。
そもそも、現代人が誰でも知り得るビッグバン説は、明らかに、聖書の創世記が元になっております。
これを、「クリスチャンサイエンス」と言います。
聖書になじみの薄い日本人は、このことを知らない方は多いと思われます。
話は変わりますが、私たちが生きる地球は、太陽の周りを回っております。
1年に一周という、規則性を持って。
そして太陽も、銀河系を、約2億年かけて一周しております。
銀河系は、アンドロメダ銀河や、大小マゼラン銀河など、近くの銀河と、「銀河団」を形成しております。
更に銀河団は、近くの銀河団たちと「銀河群」を形成し、銀河群は、他の銀河群と結びつき、ひも状に連なっております。
その宇宙ひもは、宇宙が急速に広がり過ぎないように、拡大しようとする宇宙を、内側から引力で引っ張っています。
そうやって、星々は自らの存在(重力)で、宇宙全体のバランスを取っているのですね。
これが、ニュートン力学の基本原理です。
無から生まれ、ただ拡大するにとどまらず、このように、見事な調和の中にある宇宙。
それが果たして、偶然の産物と言えるのでしょうか?
そう思える人の方が、私にはよっぽど、ある意味で信心深いと思えます。
これは、「偶然という神への、篤き信奉」です。
偶然に起こりうるのは、絶対に不可能です。
少なくとも、私には信じられません。
この不可能を可能に変え、我ら生命たちを生かさんとする、大いなる宇宙の導きの意思こそ、「神」ではないでしょうか。
それでも、神など信じられないという方は、少なくとも、この記事以上の見解を、何らかの形で示していただきたいと私は思うのです。
本日は経典『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)より、多様なる宗教観を大川隆法幸福の科学グループ総裁が語った、ある意味で、とても過激な一節(笑)をご紹介いたします。
それでは、またのお越しを。
(ばく)
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知識人と言われる人たちの宗教論は、そもそもが非常に素朴なものです。宗教が素朴なのではなく、むしろ彼らの考え方や発想のほうが素朴なのです。
宗教というと、すぐに大昔の原始時代の呪術信仰、アニミズムのようなものを考え、「そんなものはすでに歴史の彼方に去ったものであり、科学文明が発達した現代にはもはや通用しないのだ」という、恐るべき素朴で単純な信仰観を持っている方が数多いのです。
あるいはマルクス主義者でもないのに、「宗教はアへンだ」と一蹴してしまう方も少なくありません。
これに対して、私は率直な驚きを感じるのです。
そのレベルの議論、そのレベルの知的関心で満足できる人が世の中にいるということ自体が、大きな驚きです。
「それで片づくのですか? それで納得されるのですか? それでは、あなたは探究心がまったく無いのですね」、私ならそう言いたくなります。
確かに地方には、恐山(青森県)のイタコや沖縄のユタのように、「霊降ろし」をして話をするところもあります。(中略)
ただ、そうした土着信仰と、たとえばイエス・キリストのような大救世主の運動、あるいは知性的で哲学的な内容をも含んでいた釈迦の大衆啓蒙運動等を、まったく同一視することはできないはずです。
すなわち、宗教という言葉によって、すべてを十把ひとからげにするのは無理だということです。宗教には時代性、地域性がありますが、そのなかにはやはり発展の違いがあるのです。
ですから、知識人と言われる方の間違った宗教理解とは、たとえるならば、定款に「利益の追求」を掲げている株式会社に対して、「それが株式会社の本質であるから、会社というのは全部金儲けをするところなのだ。金儲けはいけないことなのだ。だから、会社はいけないところなのだ」と短絡的に考えるようなものです。
このような素朴な議論に極めて近い宗教論を立てているのではないでしょうか。
全社にもいろいろあります。業界にも違いがあります。
また、大会社、中規模会社、弱小会社まで大きさの違いがあります。日本国内の企業もあれば、国際的な企業もあります。社会に対して非常に役に立っている企業もあれば、公害企業もあります。このように、いろいろな違いがあります。
まったく同じことが宗教にも言えます。
宗教にも大・中・小があります。国内的な宗教もあれば、国際的な宗教もあります。本当に人びとを救っている宗教もあれば、害毒を流している宗教もあります。この違いというのは、会社に違いがあることとまったく同じ理屈なのです。
人間の活動は一定のように見えても、そのなかにはいろいろな違いがあります。
私どもがいま主張している新宗教の運動は、やはり「違いを知っていただきたい」という主張でもあるわけです。
「違いを知る」ということは、文明の始まりなのです。
『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)P19~22
映画『美しき誘惑ー現代の画皮ー』公式サイト https://utsukushiki-yuwaku.jp/