老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

時代はどう変わる 日本人の祈り!

2019-05-01 15:08:55 | マスコミ報道
昨日から今日にかけてのTV番組の狂騒ぶりには辟易してしまう。新しい時代が始まる、と横並びの惹句を並べ立て、大騒ぎをしている。

わたしのようなへそ曲がりは、夜が明けたら新しい時代になるなど、そんな能天気な歴史認識があるものか、と嘯いてチャンネルを切ってしまった。

誰だったか失念してしまったが、戦争が終わった翌日に全く新しい時代が来るのかと思ったら、昨日と全く変わらない朝だった、と書いていた人がいたが、時代の変化などそんなに簡単に線引きできるはずがない。

そう思いながら、今日、NHKBSで「英雄たちの選択」(追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー)の再放送を見た。

縄文から弥生への時代の転換の話が根本から覆されるきわめて斬新な説が展開されていた。

これまでの通説は、大陸から伝わった水田稲作と青銅器・鉄器を特徴とする弥生文化が、瞬く間に、縄文文化を席捲、弥生時代が到来したというものだった。

そして、稲作が始まるとともに、富(米)の蓄積ができるようになり、貧富の差ができはじめ、階層分化が始まった。そして、ムラからクニの始まりになった、と。

しかし、近年の研究で、大陸から伝えられた先進的弥生文化とそれを伝えた人々が縄文文化を瞬く間に席捲したというのは、どうやら間違いではないか、という事が明らかになりつつある。

例えば、九州で発掘された弥生遺跡から、漆塗りをされた土器の破片が見つかっている。この漆塗りの技法は青森の縄文遺跡から発掘されたものと同じだというのである。

何故そんな事が起きたのか。仮説として、青森の縄文の人々が九州に出かけ、その技法を伝えたというのである。

何故そんな事をしたのか。縄文の人々は新しい文化(弥生文化)に興味があり、それを学びに出かけたのだろうというのである。好奇心だというのである。

本当に、青森から九州まで行けたのか。まだその移動手段は完全には解明されていないが、古代人の移動の凄さは、黒曜石の石器の分布をみても分かる。

・・・黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の櫛目文土器時代の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。また北海道では十勝地方も産地として非常に有名で、北海道では現在でも「十勝石」という呼び名が定着している。・・・
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9B%9C%E7%9F%B3

さらに近年、縄文時代の流れをくむ土偶が、少なからず近畿地方から出土している。あわせて、縄文時代の祈りの道具・石棒も出土しているところから、縄文系弥生人の存在が浮かび上がってきた。

土偶というものは、縄文人の心の象徴のようなもので、縄文の人々の心を読み解くには欠かせない存在である。

例えば、この番組でも紹介されている合掌土偶である。

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E6%98%9F%E5%B7%9D%E7%B8%84%E6%96%87%E9%A4%A8+%E5%90%88%E6%8E%8C%E5%9C%9F%E5%81%B6#mode%3Ddetail%26index%3D27%26st%3D1219

この土偶は女性。お腹に点々とついているものは、妊娠の象徴である正中線と言われている。何故なら、下に女性器まで作られている。つまり、この合掌土偶は、女性の出産情景を模したものだという。

いわゆる「座産」は、お産の古典的形態で、日本でもかなり最近まで行われていたと思われる。わたしの県にある吹屋の旧家には、お産部屋が残されている。木の壁に金具(わっか)が取り付けられ、それにひもを通して、そのひもを握ってお産をするのだそうだ。

合掌土偶に示されている縄文の人々の心のありようは、きわめて素朴で人間的で誰もがほっとするものだ。女性がお産をする行為は、子孫を残したい。生まれてくる新たな命を大切にするという人間の本能にきわめ忠実なありようである。そして、この新たな命を産み、育て、命を継続する行為の主人公は女性である、という意味で、土偶には女性が多いと考えられている。

さらに近畿地方の縄文遺跡や弥生遺跡で発見されている「石棒」もきわめて素朴な信仰のありようを象徴している。「石棒」とは男性器の象徴。つまり、子孫を作る行為こそもっとも人間的行為だという思想であり、それを信仰の対象にすると言う事は、人間を大切にする思想に通じる。

※石棒の画像
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E7%9F%B3%E6%A3%92%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1

石棒は縄文遺跡の代表格の一つであるが、それが近畿では弥生集落の遺跡からも発掘されているという点が、従来の弥生文化が縄文文化を席捲したという定説を覆す大きな要因になっている。

この番組に出演した考古学者松木武彦、寺前直人氏らの説によると、縄文文化(約一万年)と弥生文化は約500年近く重層的に存在し、共存・共生していたのではないかということであった。

これはきわめて説得力のある話で、新しい文化(当時の弥生文化は、合理的・科学的な先進文化)が即座に旧文化(弥生文化)を駆逐してしまうのではなく、徐々に徐々に浸透していったという話になる。

同じ番組に出演していた心理学者中野信子説では、人間、合理的だけでは疲れ果てる。時々はほっとしたい。だから、縄文習俗である石棒信仰などを継承したのだろう、と言う事になる。

いずれにしても、時代の変化は、一夕一朝には起こらない。時間をかけ、柿が熟すようにじわじわと変化し、気が付いた時には、驚くべき変化になっている、というのが実態だろう。

これが、戦後社会の驚くべき変化に翻弄され続けた、わたしたち昭和世代の実感である。その意味で、縄文・弥生の時代変化を上記のような視点で見直しているというのは、ある意味で常識に立ち返った、という事だろう。

磯田氏や中野女史も言っていたが、合理性の追求は文化の進歩・発達には欠かせないが、それだけでは疲れてしまう、というのは、多くの人の実感に近い。そういう意味では、人間の心は、縄文弥生時代と現代とでもそんなに差はない。

当時の先進文化で合理性追求の弥生文化が浸透し始めた縄文晩期の人々の心が疲れるのは良く理解できる。だからこそ、弥生遺跡でも縄文文化の残滓(石棒信仰)が残ったのであろう。

平成時代は、科学的合理性の追求が信じられないほど進んだ時代である。一つの間違いでもしたら、コンピューターは動かない。便利さの追求は、時代に遅れた人間の価値を完全に毀損してしまう。わたしが平成時代を【陰鬱な時代】だと総括する理由である。

だからこそ、上記の縄文弥生の時代変化の学説の変化は、きわめて貴重な示唆を与えていると考える。

同時に、縄文人の祈りが弥生人に引き継がれていたのは、日本人は合理性追求一辺倒にもなじめず、異文化同士の共生が端的に示しているように、自分と違う文化の人々を戦いで排除するやり口も好きでない事を示している。

平成と令和の時代変化を一本の線で分かつようなメディアのバカ騒ぎは、彼らの知性の劣化以外の何物でもないと考える。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三つの時代を生き抜けるように | トップ | 目に余る司法機関の逮捕権の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

マスコミ報道」カテゴリの最新記事