老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

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秋風、秋雨、人を愁殺す!

2014-11-13 17:31:27 | 選挙
表題は、武田泰淳の小説。副題に「秋瑾女史伝」とあるように、清末の女性革命家秋瑾女史について、ドキュメンタリー風に描いた作品である。わたしは、この小説を学生時代に読み、複雑な感動をした記憶がある。表題の「秋風、秋風、人を愁殺す」とは、1907年7月武装蜂起計画が仲間の裏切りでばれ、捕縛された秋瑾が斬首される前に読んだ辞世の句とされている。

・・・秋瑾、本名は閨瑾、字は璿卿、幼名を玉姑といった。原籍は浙江省紹興であるが、福建省の廈門において、光緒元年(1875)11月に生まれた。幼い頃より聡明で、11歳にして詩を作ったという。16歳の頃紹興に移り、学業の傍ら剣術などの武術を学んだ。
22歳にして王家に嫁ぎ二子を設けたが、婚家とは考え方が合わず、また祖国の窮状を憂えて日々悶々、酒に耽り悲歌撃節しては剣を払って舞ったという。
女の自立を求めて纏足に反対し、男装して町を闊歩した。やがて夫と離婚、1904年の秋に日本に留学した。この時、本名の中から閨の一時を取り去って秋瑾と名乗った。閨とは、女に課せられた封建的束縛として映ったからである。
東京にいた中国人留学生と交わるうち、秋瑾は次第に革命思想を抱くようになる。翌年には、中国の革命組織に入会している。清朝を打倒して漢人の国家を樹立しようとする組織である。
1905年の暮、留学生取締り規則に反対した彼女は、留学生たちの集会で全員総引き揚げを主張したが、耳を貸すものがほとんどいないのに苛立ち、賛同しないものを卑怯者と罵った。罵られたものの中には、あの魯迅もいたのである。
中国に戻ると、秋瑾は紹興を拠点にして革命運動に埋没し、武装蜂起の準備を始めた。自ら大通学堂というものの校長となり、そこで反乱兵の養成に当たるとともに、武器を調達した。
秋瑾は同士の徐錫麟と図って、武装蜂起の計画を練った。1907年の夏のある日、徐錫麟は安徽省で、秋瑾は浙江省で、それぞれ同時に蜂起しようというものであった。だがこの計画はスパイによって官憲側に筒抜けになり非業の死を遂げた・・・
http://blog.hix05.com/blog/2007/02/post_107.html

この武装蜂起計画は、辛亥革命より4年前に計画されている。早すぎた蜂起計画だった。秋瑾女史は、「思い込んだら命がけ」の直情径行の性格だったため、生き急いだ感がある。しかし、革命とか変革期にはこのような人物がどうしても必要になるし、このような人物が出てこなくては運動は進まない。周囲から頑固者と言われても、原理原則を曲げない人物が、状況を切り開く。しかし、そういう人物は、往々にして非業の最期を遂げるのは、歴史が教えている。秋瑾という女性は、そういう人だったのであろう。

題名の詩は、烈士と呼ばれた女性にしては、弱々しい、という理由で本当に秋瑾女史の詩かどうか疑わしい、という説もあるようだが、わたしはそうは思わない。どんなに過激でどんなに大胆に行動し、どんなに毅然としていても、人の心には、このような弱々しい(わたしにはたおやかに思える)部分があるからこそ、彼女の凛とした生き方が貫かれたのだと思う。

梢を鳴らす秋風や音もなくしとしとと降りやまぬ秋雨を夜更けに一人で聞いていると、不図自らの過ぎ去った過去を思い起こし、メランコリックな気分に襲われるのは、誰にでもある。逆にいえば、そういう感性の無い人など信じられるものではない。しかし、朝になれば、革命のための武装蜂起という大目的のために命を賭けて行動する。夜更けの感情との落差があればあるほど行動も先鋭になる、というのが、秋瑾女史ではなかったか、とわたしは想像している。
「秋風、秋雨、人を愁殺す」 言い得て妙である。

わたしたちは、今「秋風、秋雨」の真っただ中にある。どのニュースを見ても、心沸き立つものはない。国民の大半は、心を「愁殺」されている。安倍晋三が何をとち狂ったか、解散を決意したと報じられている。わたしたち国民は、秋瑾女史のひそみに倣い、「愁殺」された心を開放する絶好のチャンスを得た。何が何でも自民党を過半数割れに追い込まなければならない。

「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
流水

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