昭和天皇が御前会議で朗詠した明治天皇御製 「よもの海」 の真意に迫る、平山周吉
「昭和天皇 『よもの海』 の謎」。 (新潮社、2014年)
著者は雑文家、と称しており、安井淳氏のような史料批判や原著ページの明記などが
ありませんが、いくつも参考になるところがありました。
明治天皇の御製 「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」。
日露戦争に際して明治天皇が開戦前に平和への思いを詠んだものと言われ、ルーズベルト
大統領が感銘したと伝えられています。
平和を願う昭和天皇は1941年9月6日の御前会議で、帝国国策遂行要領を審議した際に
詠じてその意を表したとされています。しかし佐々木信綱 「明治天皇御製謹解」 (昭和
16年) には 「戦時中にしてこの御製を拝す」 (46p) とあり、また渡辺幾次郎 「明治天皇
と軍事」 (昭和11年) には 「開戦当初 『正しく心緒を述ぶ』 と題されて詠じたもうた」
とあるそうで、いずれも日露開戦を決定したのちにこの歌を詠んだと伝えられています。
波風が立つのでやむなく開戦になってしまった、まったく我が意ではないのだが、という
ことですが、開戦前と開戦後ではその意味あいがかなり違ってきます。昭和天皇の真意は
ともかくとして、やむなき開戦決意と解釈することが可能だし、そう解釈できると考えた
知恵者が軍部内にいたのではないか、と著者は推理します。
また昭和天皇はこの歌を 「などあだ波の」 と詠んだと、近衛と杉山の2人が書き残して
います。「明治天皇御製」 と佐々木信綱の 「明治天皇御製謹解」 は当時の大ベストセラー
で、この歌もよく知られていたはず。御前会議出席の7人のうち2人もが間違うとはどう
いうことでしょうか。記録のとおりに詠んだ可能性もありそうです。工藤美代子氏もたしか
「近衛家七つの謎-誰も知らなかった昭和史」 で単なる記憶違いではないかもしれないと
疑問を呈しています。「あだ波」 のあだとは敵のこと。敵がうるさく騒ぐのであれば、
不本意ながら開戦を決意せざるを得ない、という意味に取ることもできるかもしれません。
というのも、この会議で対米交渉が主、開戦準備は従、ということが確認されたのですが、
議題の当初の書き順は開戦準備が先になっており、天皇が前日急いで陸海軍総長を召して
説明をさせ交渉が先であることを確認させた際、近衛が天皇に議題順序を変更すべきかと
確認しましたが、必要ないと言われたことになっています。
ところが昭和天皇独白録では、近衛が議題の変更はできないと強硬に主張したとなってい
て、まったく対立しています。著者は永野軍令部総長も、変更すべきかと確認したが天皇は
原案の順序でよろしいと答えた、と証言していることを指摘します (94p) (新名丈夫編
「海軍戦争検討会議記録」 昭和20年12月、出版昭和51年)。天皇の記憶が違っているのか、
わざとそのように言っているのでしょうか。「独白録」 は東京裁判用の自己弁護の回顧録
とみられ、あまり信頼できる文書ではありません。
また、交渉第一というなら、その交渉条件こそが大切なはずです。ところが帝国国策遂行
要領に付けられた条件は強硬でとても妥結できるような内容ではなかったのですが、天皇
も誰もこのことについて検討したり言及した様子はありません。実に不思議な話で、これ
では交渉第一はたんなるお題目、言い訳程度のものだったと考えざるを得ません。
だからこそ東條が、「よもの海」 を披歴され天皇は平和志向だとあわてたものの、翌日に
面会した東久邇宮に対して従来通り対米交渉軽視の姿勢を見せることができた (63p) ので
しょう。
また東條氏は、近衛総理の対米交渉=中国撤兵案を拒否して倒閣した10月中旬、組閣にあた
って東郷重徳に入閣を打診したとき、「強硬意見を持した自分に大命が降下したのである
から、駐兵問題については何処迄も強硬なる態度を持続していい筈と思ふ」 (「東郷重徳
外交手記」160-161p ~安井淳 「開戦過程の研究」 40p) と発言しています。東條氏に
大命を降下したさいのいわゆる「白紙撤回の御諚」 でも、東條氏が固執する交渉条件を
見直せという指示はなく、結局は戦争遂行能力の 「再検討」 としかなりえず、開戦に
進んでしまったのは当然です。
もう一つ驚いたことは、昭和天皇は自ら立憲君主であったと強調しますが、明治憲法でも
「天皇に輔弼の臣のいうことを拒否する権限があるのは当然」 と解釈されていたということ
です。(167p)
天皇主権説では当然のことですが、排撃された天皇機関説でも、
「国務大臣の進言を嘉納せらるるや否やは聖断に存する」 (美濃部達吉「逐条憲法精義」
昭和6年版) とあり、また
「任意に国務大臣の意見の採否を決したまうことを得」 (佐々木惣一 「日本憲法要論」
昭和8年版)、
「君主は国務大臣の同意なくして大権を行うこと能わずとなすがごとき者あらば、考えざる
の甚だしきものなり。」 (金森徳次郎 「帝国憲法要綱」 昭和5年版)
とされていました。
帝国国策遂行要領の原案を書いた石井秋穂の 「石井秋穂大佐回想録」 (昭和21年、未刊)
には、「天皇陛下は内閣の諸公が会議決定した政策を覆えしたり拒否されたりしたことは
なかった。(中略) ところが常の陛下は大臣が上奏する毎にいろいろと御注意を加えられて
は御拘束になり、または御奨励御激励されることによって方向を保たれたのである。大臣
たちにとっては誠に重圧でありうるさかったのである。即ち御親政あそばされないようであり、
またある意味では強い御親政のようでもあった。」 (280p) とあります。
旧軍人にしてこの感想です。天皇に批判的な 「天皇の昭和史」 (藤原彰ら、2007年、44-58p)
では、天皇が御下問や内奏への対応などを通じて実質的な親政を行っていたことを詳しく
指摘しています。明治憲法では天皇は無答責だ、というのは 「神聖ニシテ犯スヘカラス」
という言葉のみに頼った、極めていい加減な天皇像ということになってしまうでしょう。
(わが家で 2014年9月7日)
「昭和天皇 『よもの海』 の謎」。 (新潮社、2014年)
著者は雑文家、と称しており、安井淳氏のような史料批判や原著ページの明記などが
ありませんが、いくつも参考になるところがありました。
明治天皇の御製 「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」。
日露戦争に際して明治天皇が開戦前に平和への思いを詠んだものと言われ、ルーズベルト
大統領が感銘したと伝えられています。
平和を願う昭和天皇は1941年9月6日の御前会議で、帝国国策遂行要領を審議した際に
詠じてその意を表したとされています。しかし佐々木信綱 「明治天皇御製謹解」 (昭和
16年) には 「戦時中にしてこの御製を拝す」 (46p) とあり、また渡辺幾次郎 「明治天皇
と軍事」 (昭和11年) には 「開戦当初 『正しく心緒を述ぶ』 と題されて詠じたもうた」
とあるそうで、いずれも日露開戦を決定したのちにこの歌を詠んだと伝えられています。
波風が立つのでやむなく開戦になってしまった、まったく我が意ではないのだが、という
ことですが、開戦前と開戦後ではその意味あいがかなり違ってきます。昭和天皇の真意は
ともかくとして、やむなき開戦決意と解釈することが可能だし、そう解釈できると考えた
知恵者が軍部内にいたのではないか、と著者は推理します。
また昭和天皇はこの歌を 「などあだ波の」 と詠んだと、近衛と杉山の2人が書き残して
います。「明治天皇御製」 と佐々木信綱の 「明治天皇御製謹解」 は当時の大ベストセラー
で、この歌もよく知られていたはず。御前会議出席の7人のうち2人もが間違うとはどう
いうことでしょうか。記録のとおりに詠んだ可能性もありそうです。工藤美代子氏もたしか
「近衛家七つの謎-誰も知らなかった昭和史」 で単なる記憶違いではないかもしれないと
疑問を呈しています。「あだ波」 のあだとは敵のこと。敵がうるさく騒ぐのであれば、
不本意ながら開戦を決意せざるを得ない、という意味に取ることもできるかもしれません。
というのも、この会議で対米交渉が主、開戦準備は従、ということが確認されたのですが、
議題の当初の書き順は開戦準備が先になっており、天皇が前日急いで陸海軍総長を召して
説明をさせ交渉が先であることを確認させた際、近衛が天皇に議題順序を変更すべきかと
確認しましたが、必要ないと言われたことになっています。
ところが昭和天皇独白録では、近衛が議題の変更はできないと強硬に主張したとなってい
て、まったく対立しています。著者は永野軍令部総長も、変更すべきかと確認したが天皇は
原案の順序でよろしいと答えた、と証言していることを指摘します (94p) (新名丈夫編
「海軍戦争検討会議記録」 昭和20年12月、出版昭和51年)。天皇の記憶が違っているのか、
わざとそのように言っているのでしょうか。「独白録」 は東京裁判用の自己弁護の回顧録
とみられ、あまり信頼できる文書ではありません。
また、交渉第一というなら、その交渉条件こそが大切なはずです。ところが帝国国策遂行
要領に付けられた条件は強硬でとても妥結できるような内容ではなかったのですが、天皇
も誰もこのことについて検討したり言及した様子はありません。実に不思議な話で、これ
では交渉第一はたんなるお題目、言い訳程度のものだったと考えざるを得ません。
だからこそ東條が、「よもの海」 を披歴され天皇は平和志向だとあわてたものの、翌日に
面会した東久邇宮に対して従来通り対米交渉軽視の姿勢を見せることができた (63p) ので
しょう。
また東條氏は、近衛総理の対米交渉=中国撤兵案を拒否して倒閣した10月中旬、組閣にあた
って東郷重徳に入閣を打診したとき、「強硬意見を持した自分に大命が降下したのである
から、駐兵問題については何処迄も強硬なる態度を持続していい筈と思ふ」 (「東郷重徳
外交手記」160-161p ~安井淳 「開戦過程の研究」 40p) と発言しています。東條氏に
大命を降下したさいのいわゆる「白紙撤回の御諚」 でも、東條氏が固執する交渉条件を
見直せという指示はなく、結局は戦争遂行能力の 「再検討」 としかなりえず、開戦に
進んでしまったのは当然です。
もう一つ驚いたことは、昭和天皇は自ら立憲君主であったと強調しますが、明治憲法でも
「天皇に輔弼の臣のいうことを拒否する権限があるのは当然」 と解釈されていたということ
です。(167p)
天皇主権説では当然のことですが、排撃された天皇機関説でも、
「国務大臣の進言を嘉納せらるるや否やは聖断に存する」 (美濃部達吉「逐条憲法精義」
昭和6年版) とあり、また
「任意に国務大臣の意見の採否を決したまうことを得」 (佐々木惣一 「日本憲法要論」
昭和8年版)、
「君主は国務大臣の同意なくして大権を行うこと能わずとなすがごとき者あらば、考えざる
の甚だしきものなり。」 (金森徳次郎 「帝国憲法要綱」 昭和5年版)
とされていました。
帝国国策遂行要領の原案を書いた石井秋穂の 「石井秋穂大佐回想録」 (昭和21年、未刊)
には、「天皇陛下は内閣の諸公が会議決定した政策を覆えしたり拒否されたりしたことは
なかった。(中略) ところが常の陛下は大臣が上奏する毎にいろいろと御注意を加えられて
は御拘束になり、または御奨励御激励されることによって方向を保たれたのである。大臣
たちにとっては誠に重圧でありうるさかったのである。即ち御親政あそばされないようであり、
またある意味では強い御親政のようでもあった。」 (280p) とあります。
旧軍人にしてこの感想です。天皇に批判的な 「天皇の昭和史」 (藤原彰ら、2007年、44-58p)
では、天皇が御下問や内奏への対応などを通じて実質的な親政を行っていたことを詳しく
指摘しています。明治憲法では天皇は無答責だ、というのは 「神聖ニシテ犯スヘカラス」
という言葉のみに頼った、極めていい加減な天皇像ということになってしまうでしょう。
(わが家で 2014年9月7日)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます