2016年、平成28年となりました。
明けましておめでとうございます。
元日の朝、年が明けると同時に始まる 元旦会(修正会)にて、お参り下さった方々へこんなことを申し上げました。
「これまでが これからを 決める」 のではない。
「これからが これまでを 決める」 のだ (藤代聡麿)
昨年末にどなたかのFB記事で教えていただいた 言葉です。
通常は、「これまでが、これからを決める」と考えます。過去・現在・未来という時間の流れからもそう思います。
実際のところ、「これまで」のことと無関係な「今」も「これから」もあり得ませんし、「これまで」のことは、決して変えることも消すこともできません。
ところが、同じ「これまで」でも、「これから」をどう生きていくかで、その意味が変わります。
たとえば、石につまずいて倒れたとき、「どうして、あんなところに石があったのだろう…。」、「あの石がなれければ 順調だったのに…」と愚痴のタネにすることがあります。
反対に 「あの時、つまずいたから、足もとに気をつけるようになって、大きな失敗をしなくてすんだ」と つまずいた石を 踏み台にしてステップアップする生き方もあります。
つまり、「これからが 今までを決める」とは、失敗したことも、惨めだったことも みんな無駄ではなかった、自分には必要なことだったと「これまで」(過去)に意味を見出し、引き受けていくことでしょう。
変えることも、消すこともできないこれまで(過去)は、これからの生き方次第で、その意味が大きく変わるわけです。
それならば、人生の最後、いのち終わらんとするときに、「これからが これまでを決める」ということを当てはめてみたら、どうでしょう。
つまり、「死んだらどうなるか?」ということ(これから)が 、それまで生きてきた自分の人生(これまで) を 決めることになります。
とすれば、いのち終わった後(これから)が、「死んだらしまい」、「死ねば すべてなくなる」とするならば、その人生(これまで)は、全く意味のない、空しいものとなると言わねばならないでしょう。
私たち浄土真宗の門徒は、この いのちの行方、死んだらどうなるか…ということを「後生の一大事」という言葉を用いて 仏さまの教えをたずねてきました。
南無阿弥陀仏のこころを受け取るとき、私の人生は 「死んだらしまい」 ではなく、この世の縁の尽きるままに 仏さまの世界に生まれさせていただくのだと お聞かせいただきます。生を奪う死という事実が そのまま 死ぬことのない いのちを頂くご縁となります。
いのち終えた後という「これから」が 定まるとき、 「これまで」、つまり 人生そのものに 生きる意味が見出されます。
泣いたことも、わらったことも すべて 無駄ではなかったと引き受けていける道が開かれてゆくのです。
今年もどうぞ よろしくお願い致します。 合掌
ONSAI でした。