rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

バルセロナ

2014-11-24 22:53:07 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」スペインのカタルーニャ地方バルセロナ、カタロニア人の気骨が生きる芸術の街。
着工して130年、いまだ完成を見ない独創的な建築家アントニオ・ガウディ設計のサグラダ・ファミリアは、近年の建築技術向上によりスピードアップして2026年完成予定とのこと。
最近のアート・スポット「キスの壁」は、バルセロナ市民から寄せられたキスの写真を使ったモザイク壁画だ。

美食の街とも言われる街にふさわしい、バルセロナの胃袋を支える市場サン・ジョセップ市場は、ぜひとも訪れてみたい場所だ。
バルセロネータ海岸にあるシーフードレストラン「ブラジャ・カ・ラ・ヌリ」は、そのものズバリ魚介のうまみが効いているシーフード・パエリャ”パエーリャ・カラ・ヌ・リ”を海を見ながら味わえる。
「ラス・トゥルイータス」は、スペイン風オムレツのトルティーヤをさまざまにアレンジしたものが食べられる。
基本は、薄切りのジャガイモが具のトルティーヤだが、3種類の魚卵を使った三色のトルティーヤ、生ハムとトマトを練りこんだ焼いたパンを具にしたものなど、創作トルティーヤを提供する。

アートなファッションにも影響し、個性的なショップが多い。
「ナイス・シング」は、バルセロナ発のレディースブランドで、ナチュラルな色合いとシンプルなデザインが特徴。
「ロジートアスィ」は、手作りバッグの店。
オーナー兼デザイナーの女性が作る1点物のアーティスティックなバッグだ。

カタルーニャ地方で200年以上前から行われている「人間の塔カスティエ」は、ユネスコの無形文化財に指定されている。
9月24日に行われるメルセ祭に向けて、さまざまな地方から参加する。
装備は腰に巻いた黒い布だけで、これに足をかけよじ登って塔を作り上げる。
いろいろな年齢の人が集まり協力して作り上げる塔には、地域の結束を高める役割があった。

バルセロナからマドリッドへ向かって電車で1時間40分のところにあるサラゴサでは、毎年10月12日に守護聖母を祭る「ピラール祭」がある。
この祭りには、サラゴサの民族衣装を身につければ誰でも参加資格が得られ、聖母に献花できる。
人気バルの「エル・チャンピ・サラゴサ」は、マッシュルームを焼いて塩とニンニク、オリーブオイルで味をつけバゲットにのせた”マッシュルームのチョンピ”だけが唯一のメニュー。
シンプルだけれど絶品のチョンピは、ビールとの相性抜群。
「デー・クエロ」は、手作りの革靴専門店。
オリジナルデザインのほかに、40色のカラーと型を組み合わせてオーダーメイドの靴を2週間くらいで作ってくれる。

バルセロナは昔から独立を目指している。
先ごろ独立の是非を問う住民投票をしたとかどうとか。
たしかにカタルーニャ地方にはカタルーニャ語もあって、市中の標識にはスペイン語と併記されている。
強い誇りと自負があるのだろう。
最近よく思うのだが、人は多く群れると次第にさまざまな問題を抱える。
一時は大きな国となるもよかろう、しかし次第に内部は腐敗し劣化していく。
内戦となる前に分裂し、それで立ち行かなくなったならば合併するの繰り返しは自然の摂理ともいえるのではないか。
世界をひとつにしようとする流れにあるのならば、あえて小国主義となって細胞壁を作るのが大きな崩壊を食い止める術なのだろうと考えている。
カタルーニャは、それの先鋒となれるのか注目したいところだ。


夜のカフェ・紫煙の香り、パトリシア・カース

2014-11-23 23:05:30 | 音楽たちーいろいろ


Patricia Kaas - Mon Mec a Moi

どことなくほの暗さを纏っている歌声、パトリシア・カース。
夜のカフェで煙草を燻らせながら通りを眺めるともなくぼんやりとしている、人生の厳しさ切なさを知った女のようだ。
パリがまだバブルになる前のカフェの風景。
最近の彼女の歌を聴いていないが、若い頃にすでに身につけていた老成感は、さらに深みを増したことだろう。
できればシャンソンやスタンダードジャズの名曲を地味にカヴァーしてもらいたい。
ハスキーな彼女の声は、なかなかに合うと思っているのだが。



Patricia Kaas - Les Hommes Qui Passent



Patricia Kaas - Il Me Dit Que Je Suis Belle

どちらかといえば春や初夏の朝だけれど、グリーグ組曲「ペール・ギュント」

2014-11-20 15:53:21 | 音楽たちークラシック


Edvard Grieg - Peer Gynt Suites

今朝の朝焼けは、灰色の雲の間から濃いピンク色が覗く、いささかどぎついものだった。
それなのにグリーグ作曲「ペール・ギュント」の”朝”とは、印象が違いすぎる。
”朝”は、切れ切れの雲がたなびく濃紺の空が光を孕んで白々となり、金色に輝く朝日がやさしく雲を照らし出し、目覚めた小鳥たちが謳い出す、そんな春や初夏のさわやかな朝を表現している。
けれど今は冬の初め、朝がつらくなる季節。
真逆をイメージする曲をあえて挙げるのは、寒々と曇る今日の空を払拭したいから。
いや、冬の曇りはそれなりに楽しい事だってある悪い日ではない。
何が気分を鬱々とさせるのか。
それは、自分のいるこの国が、悪い方向へと進んでいるのがやりきれないのだ。
人としての誇り、気概が失せてしまった国民の愚かさと悲しみがこの国を被っている。
悪者がいるとすればその綿密にして用意周到な策略が期を熟し、国民は破滅への選択をあえて選ぶしかないところにきてしまった。
「選んだのはあなた方でしょう」と臆面もなく言わせてしまうまでに。
先日、世界における現在の奴隷が約3580万人とされる記事を見た。
世界の人口72億人の中において、この数字が多いか少ないかというならば、その数字が正しいものならば少ないと思える。
しかし、実態はその数倍は下らないだろう。
人は、生きるために同属を搾取してきた。
それはこれからも続くだろう。
それでも、愛と理性を欲得の上におくべきだと思いたい。
なぜならば、人は他の生き物と違って際限というものを知らないからだ。
これを人の”業”というならば、業の行き着くところにすがすがしい夜明けは来るのだろうか。
時々星を眺めながら、遥か彼方にいるであろう知的生命体の行く末を想像するのであった。

学校ムラ

2014-11-18 00:07:12 | つぶやき&ぼやき
学校とは、特殊な”ムラ”社会なのだと思えることがあった。
生徒へのいきすぎた指導、それに伴う言葉の暴力、過密スケジュールによって生徒の思考と感情を奪い取ってしまう現状がある。
それは学校のシステムだけではなく、そのような教師がいること、その様子を見ていながら諌める者もなく傍観するだけの同僚たちと修正機能が働かないのだ。
いざ問題が起これば、それを根本から解決する道を選ばずに現状維持を望むだけ。
学校でそのような思考の教師と直接対峙しなければならない生徒の精神的負担は計り知れない。
「これに耐えられなければ、社会に出てもやってはいけない」「二度と失敗は許されない」などと生徒を追い込む脅迫の言葉もあるという。
信頼していた教師も結局のところ学校側の立場にいってしまい、生徒は誰を頼りにしていいかわからない苦境に立たされる。
窮地に立たされている子供を救いたい親としても、学校の中を一部始終見ていることもできないので、迂闊に苦情を言ってさらに子供に悪影響があってはいけないと思えば早々行動できない場合がある。
”学校ムラ”に人質をとられている心境だ。
地域にもよるだろうが、教師も世襲が多いのだろう、一層その”ムラ”化に拍車がかかっているようだ。
教員・公務員・議員種族でない子供たちは、ムラでは異物なのかもしれない。
異物は、ムラに波風を立てないようおとなしくするか、さもなければ排斥されるだけか。
なんとも嘆かわしい学校ムラよ。
毎年5%くらいの確率で学校ムラからはじき出される子供たちがいる。
異常な事態といえないだろうか。

しし座流星群 2014年11月16日

2014-11-16 22:19:22 | 空・雲・星・太陽たち
今夜も小さい人と星を眺めた。
20時ごろ30分間くらい観察して、はっきりとわかる流れ星を4個見られた。
そのあと9時を過ぎた頃に、中くらいの人と外へ出た。
しかし30分粘ってみても、先ほどのような流れ星にはお目にかかれない。
毎日のように自転車登校のとき向かい風に毒づいている中くらいの人の心根が
邪魔をしているのだろうと冗談を言ってはみたものの、いささか残念である。
でもこれであきらめたりはしない、あの一瞬のきらめく美しさを見るために、また冷え込む外へ出て行こう。
遥か彼方から届く星の光とは別物の、流れ星を求めて。