rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

田舎人ゆえに

2013-11-23 23:56:03 | つぶやき&ぼやき
ずっとジャージばかり着ていた中くらいの人が、外出用の服を欲しがるようになった。
そこで、車で40分のところの大手衣料品店あるショッピングモールへと出かけた。
新聞を購読していなく”チラシ”に縁のない生活を送っているから、幸か不幸か売り出しで、その衣料品店が混雑しているのに驚いた。
それでも、目当てのものを買うために、そのカオスの中に入っていく。
まずは、中くらいの人の物を選び、ついで小さい人の、最後に自分のためにと買い物カゴへ衣料品をとり、すでに飽きてしまった彼らは先に隣にある100均へ送り出し、会計の長い列に並ぶ。
会計を終え彼らに合流すると、「もう必要なものは揃ったから、早く帰ろう」というのだ。
どうやら、数多の人が集まる場所へ行くことがないために、やたらと疲れたらしい。
普段、学校とか自分の知っている場所や人たちだけの限られた環境にいるためでもあろう、不特定多数のいる見知らぬ場所にいると、それだけでも神経が疲れるようだ。
私も、年に一回くらいの東京行きは、体調を万全に整えてもその後の疲労回復に時間がかかるから、彼らの言うことが良くわかる。
もっとも、これに関しては、「慣れ」が解決してくれるので、今に彼らも今ほどは疲れることはないだろう。
しかし、その「慣れ」とは、周りにいる大多数の人を空気のように認識しない技術の得とくであるから、あまりいいこととは思えない。
煩わしいこともあるけれど、人の存在を無視しなくてもいいような適度に「疎」であることは、自分も他人もきちんとした存在であると認めるためにも大切だ。
どれだけの時が経っても、人の存在の重みは理想とはかけ離れたものであり続けているのに手の施しようはなく、「密」を解消しても好転するかどうか期待は持てないが。

話し変わって、今日初体験をした。
立ち寄ったスーパーに、セルフでレジを済ませられる機械があり、それを使ってみたこと。
まだそのシステムに抵抗のある人が多いのか、5台あったその機械は利用者が少なくて、並ぶことなく会計を済ますことができて便利だった。
でも、それが普及すると、レジをする人の仕事が奪われる難点がある。
労働人口が減少しているから、その労働力を他の分野に、たとえば慢性的に人手不足の介護と看護士に保育士にまわせば合理的かもしれない。
けれど、労働に見合った待遇がなされない職業ともいわれるそれらに、よほどの使命感と覚悟がない限り従事してくれる人を望むのは難しい。
機械化をして人件費削減もけっこうだが、いつまでも人の善意に甘える労働の構造を変えないと、人も社会も国も疲弊しきってしまうだろう。
技術の進歩が、多くの人を助けるものとは限らないと思える体験でもあった。

アタシ、必死なときは鳴くんだよ

2013-11-22 11:32:26 | ねこ

にゃーっと可愛らしく鳴いてみようかな 22/11/2013


写真、撮りたくなったでしょ? 22/11/2013

朝日が椿の根方を眩しく照らす中に、ねこが枯葉に埋もれて眠っていた。
キジねこで、保護色だからよく見ないと気が付けない。
私が横を通ってもピクリとも反応しないから、あらかた朝ごはんをたっぷりともらって満ち足りているのだろう。
それから2時間後、私が洗濯機のところで洗濯物を取り出していると、「にゃあ」と近くで声がする。
ねこは、家の中にあがりこんで私に合図を送ってきた。
いつもとは違う、ちょっと高めに可愛らしい声で鳴いて。
「にゃあ、にゃーん」
どういう風の吹き回しか、それとも作戦変更、バリエーションを増やして攻めてきたのか。
それならばとプププ・・・と笑いをこらえ、しばらくねこの出方を見ることにした。
ねこの目的は、ちょっとのカリカリおやつをもらうことだろうと思いながら、スタタタタと洗濯物を干しに外へ出る。
後ろを振り返ってねこの追跡を確認すると、距離をとってついてきたようだ。
洗濯物を干しながら観察する。
ねこはねこで、いる場所を変えながら私を窺っている模様。
おっと、ねこは鉢植えの花の前に歩み出た、ゆっくりと考え深くだ。
これは願ってもいないシャッターチャンスと、あっさりねこの作戦に釣られた私は、カメラを持って撮影ポイントについた。
私のシャッターを切る間に合わせて、ねこは体勢を変える。
パシャパシャパシャ、私が立て続けにシャッターを切ると、ねこはもう気が済んだでしょうと私に背を向けて、目的地まで誘導しようとする。
ギブ・アンド・テイク、もちろんおやつをあげた。
いやはや、ねこには参ってしまうのであるよ。


私にはわからない、何をもって平等というのか

2013-11-21 21:54:48 | 随想たち
私にはわからない、何をもって平等というのか。
「一票の格差」
小選挙区制による、都市部と地方で一票の重みが違うということ。
たしかに、選ばれる議員の割合が、都市部の人口密集地と地方の過疎地において2倍以上違うと、都市部の有権者は自分の表の重みが失われていると損した気持ちになるだろう。
一票は一票であるべきとは正論だ。
だが、考えてみてはくれまいか?
人口比にきっちりと議員数を割り当てたとしよう。
都市部の利益を反映しようとする力が、国政のなかの過半数を占める。
すると、国政は大きく偏って、国という態をなさなくなるに違いない。
国土保全という見地に立てば、北の厳しい大地や山間部の不便な土地にも、首都から離れ文化文明の恩恵を受け損なう不利を偲んで住み続けるからこそ、国土が荒廃しないように手を加え目を行き届かせ手は外敵の侵入を阻むことができる。
ついで、食糧供給などもしてもらえる。
国の大部分を占める地方をないがしろにしてはならないのだ。
地方がいやなら都会に出ればよいというのは、短絡過ぎる。
ならば、こうもいえるのだ、一票の格差をなくしたいのならば、自分の清き一票に重みを持たせたいというのなら、過疎地に移住してはどうかと。
選挙区制で完璧なものはありえない、どこかに歪はつきものだ。
また、政権を握っている政党が、自らの不利になることに熱を入れるとは考えにくい。
これは、与党にしても野党にしても同じ穴の狢、国民の利益を最優先にするというのは建前だと、もうわかりきっている。
国を運営することは、非常に困難を極める。
国内問題だけではなく、流動的な国際情勢に数多の勢力の利権との兼ね合いも絡んで、単純明快に全てにおいて進むことはない。
一に対するものは一とすっきりいくはずなどないのだ。
そこでこう思うのだ、「私にはわからない、何をもって平等というのか」と。

陽だまりの温もりを感じるギターの音色

2013-11-20 15:42:22 | 音楽たちークラシック

The Spanish Guitar in the Renaissance and Baroque,Moreno

ここ連日、穏やかに晴れ渡り、関東地方は小春日和に恵まれている。
今はもう太陽が西に傾き、あと1時間もなく日が暮れる。
日が翳るや否や、冬が威張りだして、途端に手足が冷えるのだ。
だから、陽だまりの温もりを感じられるギターの音色が聴きたくなる。
枯れ草色や蜂蜜色の砂岩でできた街にしっくりと鳴り響くギターの音。
もう心は、セゴビアやトレドの街を彷徨っている。
ギターの音楽が供ならば、枯れ草色の迷宮から抜け出せなくてもかまわない。
いつまでも壁に手を触れ石の記憶をたどりながら、歩き続けていたくなる。
宇宙の始まり、地球の歴史、地上に生きたものたちの足取り、繰り返される人の営み。
ときには驚き、涙を流し、笑うこともあるだろう。
一大叙事詩を読むかのような時の流れの傍観者となるのか。
このすばらしい音楽は、私に尽きない夢想の糧を与えてくれるのだ。



今年のしし座流星群は

2013-11-19 22:49:38 | 空・雲・星・太陽たち
しし座流星群の時期になった。
17日の夕方からぼちぼち観察しだして今日の夕方まで、諦め悪く空を見上げていた。
時間もまちまち、トータルで5時間は星を眺めていたと思う。
そして見たのが1個、飛び切り明るくはっきりとした軌跡を描いたものだった。
今年のしし座流星群は、満月と重なり条件は厳しい。
ただ、17日には雲がかかって視界を遮られてしまったけれど、18日と19日の夜7時においては快晴で、月明かりに消されない明るさを持つ星ならば、よく見ることができた。
おそらく流れ星はいくつか流れていたのだろうけれど、その控えめな光輝ゆえ、目に捉えられなかったのだろう。

唯一見ることができた流れ星は、17日の夜7時半頃、ほぼ真上の空を東から西に向かって眩いオレンジ色の光を放ちながら走り去った。
流れ星が見えるかどうか偵察の意味で空を見上げていたから、その流れ星に気を良くして、小さい人と中くらいの人を呼びにいく。
しかし、共に空を見上げだしてから10分もしないうちに、西から雲が押し寄せて、十数分で空のほとんどを埋めてしまった。
結局、小さい人も中くらいの人も流れ星には出会えずに終わり、次の流星群に期待をつなぐことになる。

私は、ちょくちょく外に出たり、またはベランダから、夜中に起き出しては空を見上げていた。
流れ星を探しながら思うことは、在るということは永遠ではなく、その前後には無が存在するのだということだ。
それを心に刻んでは、遥か彼方からやってきた光の発生元は今はもう存在しないかもしれないと感傷に浸っている。
あのオレンジ色に光った流れ星は、今はもう跡形もないけれど、私の記憶に留まって、まだ命を繫いでいるのだ。