rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

人はどこまで死を遠ざけることができるのか

2013-06-19 11:58:32 | 随想たち
日本国内で、動物を使ったヒト臓器作成の基礎研究容認の容認に向けての合意がなされたとあった。

臓器移植には、多くのハードルと困難を伴う。
まず移植できる臓器の提供が少ないことから待ち時間が長い。
臓器を移植できる幸運に預かられたとしても、自分以外の臓器に示す拒絶反応を抑えるために免疫抑制剤を服用し続けなくてはならず、さらには適応困難に陥る危険性もある。

また、その移植臓器を巡っての人身売買から臓器売買と犯罪を生む側面がある。
貧困に苦しむ地域や戦争などの混乱に乗じての若者や子供の誘拐、時には借金返済や金を稼ぐ手段として自分の臓器ならずも子供などの臓器を取られ売り渡すケースもある。

片方では命が助かりたいためやむ終えず臓器移植に踏み切る人がいるのに、その弱みに付け込みビジネスや犯罪を犯し命を奪うものがでる。
臓器移植とは、多くの問題をはらんだ行為なのだ。

そこで、IPS細胞が登場する。
動物を使ってヒトの臓器を生成するために欠かせないものだ。
動物ならば倫理的ハードルは低いだろうが、諸手を挙げて喜んでいいものか戸惑ってしまう。
おそらく移植者の細胞を使って取り組むのだろうから、拒絶反応はかなり抑えられるものになろう。
仮に成功して、移植後も免疫抑制剤頼りとならなくとも、遺伝子操作をしているレベルで何も起こらない保証はない。
そしてさらにエスカレートするならば、機能不全に陥った臓器の移植ばかりではなくなることもありうる。
ここからは、SFの領域で、ある者たちは自分の複製を用意し万が一の事態に備えたり、カズオイシグロの「わたしを離さないで」にもある臓器提供のためだけに飼育されるヒトなど、モラルの破壊や拡大解釈が起きるかもしれない。

古今東西を違わず、「不死」は人の願望であった。
自分と愛するものたちの死を願う者があるはずはない。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。
人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼は800年生き続け、多くの愛するものを失った悲しみばかりではなく不死の重さに耐えかねて死を望んだという。

子供を持つ自分は、時折想像してみる。
もし、子供が臓器移植をしないと死ぬようなことになったとしたらどうするのか。
ヒトからヒト移植ならば、かなり迷うだろう。
動物で作成した臓器ならば、踏み切るかもしれない。
反対に、子供が死ぬことになってその臓器の提供に応じれるかといったなら、今のところ応じることはできないと思う。
彼らが成人して、自分の意思で臓器提供を希望するならば、反対しないつもりでいる。

「命が重く美しいのは、死が約束されているから」とよく言われているが、まさにその通りではないか。
死は惨く辛くても、それは真理なのだ。

一気に歳をとったねこ

2013-06-18 11:57:31 | ねこ

涼を楽しむ 17/6/2013

ねこが、一気に歳をとった。
がくんと年寄りねこになった。
今まで目やになどでていたことがなかったのに、目から目やにを垂らしている。
動きが緩慢になり、食も細くなった。
どこか人気のないところで寝ていることが多くなった。
それでも気分がよいときには、ひょっこりと現れ甘えてくる。

広い敷地を思いのままに動いては、好きなように生きているねこ。
芝の植えに寝ころび、庭掃除する人の後を追いかけ寄り添い、ご飯の時間にはおねだりをする。
知らない人がやってくるとすっとどこかへ隠れ、デミオが帰ってくると出迎えをする。

昨日の夕方、ねこの体を長いこと撫でていた。
死んだように横たわり、全身撫でられるがままになっている。
ねこを撫でながら聞いてみた、「おいしゃにいきたい?」
ねこはぴくりとも耳を動かさない。
家族以外の人にはほとんどなつくことのないねこにとって、よそへ出て行くなんてとんでもないことなのだろう。
昔、避妊手術をしに医者へ連れて行ったときには、怒ってしばらく寄り付いてきてくれないくらいだもの。

歳といえばそれまで、でも、ねこがいてくれるだけで幸せな自分は、どうしたらいいのかずっと迷っているのだった。


今も世界のどこかで様々な暴力が行使されている

2013-06-17 22:57:49 | つぶやき&ぼやき
トルコでは、金科玉条経済発展の名の下に踏みにじられた、政教分離の世俗主義崩壊とトルコらしい街並みに文化誇りを取り戻そうと、大規模なデモが連日繰り広げられている。
かつての貧者の英雄も、10年の時と権力にお金の魔力によって腐敗し、民衆は大きな失望を味わった。

イランでは、西側列強国の論理による経済制裁が人民を疲弊させ、指導者交代と相成った。
西側列強国に組するわが国では、イランだけではなく中東イスラム圏の真の姿を知ることは楽ではない。
一つの立場、一つの思考法を、グローバル化の名の下に押し付けられて反発するのは悪なのだと吹き込まれているかもしれないのに。

フランスのボルドー地方では、中国人留学生たちが酔っ払ったフランス人に暴行され、重傷を負うものが出たという。
暴力に訴えるのは許されないことだが、有名なワインを産する土地が中国に買い取られ、伝統と誇りを傷つけられてそのような行動に加害者達を走らせたのではないかとも考えられる。
暴力とは、様々な形をとることが出来るのだ。

心無い一言で、子供も大人も傷つき泣いている。
こうして今も世界のどこかで様々な暴力が行使されているのだ。





ザンビア共和国、リビングストン

2013-06-15 14:58:03 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」アフリカ南部の内陸に広がるザンビア共和国の、観光拠点となる街リビングストン。
世界第一次大戦と第二次大戦の間、イギリスによって北ローデシアとして直轄植民地となっていたザンビアは、40年の統治後独立し、特産の銅などの鉱物資源が引力となり中国の援助を受けて開発していた。
しかし、どこの例をとってもご多分に漏れず国際間の思惑は人民の利益とは異なるため、軋轢をもたらし、必ずしも良好な関係とはいえないようだ。

リビングストンは、世界自然遺産に登録され世界三大瀑布のヴィクトリアの滝、また近辺に自然国立公園が19箇所もあるため、観光する拠点となり栄えている。
アフリカで4番目に長い川ザンベジ川が生み出す、落差108メートル、幅1.8キロメートル、5億リットル・/分の水量を誇るこの滝は、大地の裂け目にできた勇壮な滝だ。
乾期には、滝の縁にできる天然のプール”デビルズフォール”で水浴びを楽しむことができるらしい。
マイクロライトという軽飛行機とハンググライダーを合わせたような乗り物でする空中散歩は、高所恐怖症の人でも体験したくなるくらい、すばらしい景観を見ることができる。
ほかには、”ゾウ・サファリ”といって背の高いアフリカゾウに乗りゆったりとサバンナを巡るツアー、”ウォーキング・サファリ”はプロのカメラマン「チャンダム・チクムビ」さんに同行して徒歩で回るものがある。
安全のために銃を装備したレンジャーが前後につく。
間近でヌーの群れ、インパラ、キリン、シマウマ、アフリカハゲコウ、絶滅危惧種のシロサイに出会えるかもしれない。
シロサイは、ザンビアに10頭くらいしかいなく、体長4メートル、体重4トンを超える巨体は、圧巻だろう。
車の中から見る自然とは別次元のものが、きっと体験できるはずだ。

ザンビアの食べ物。
白くてぼってりとした見た目で、マッシュポテトか餅のような感じの”シマ”という主食がある。
白とうもろこしの粉を水で練り煮ていくと、もちもちとした食感のシマができる。
これとおかずを一緒にあわせて食べるのが、ザンビア流。
”カペンタ”というちょっと佃煮を思わせる川の小魚を煮た物などが、おかずになる。
素朴ながらもバランスが取れた食事だ。
「アルマジロ・オリエンタル・レストラン」で、これらを食べることができる。
ザンビアの郷土料理ではないようだが、「ロイヤル・リビングストン・エクスプレス」は蒸気機関車を走らせる観光列車で、広大なサバンナに沈む夕日を眺めながらのディナーは、格別のようだ。
自分も一回だけスペインで夕日を眺めながらのディナーを経験したが、実に贅沢ですばらしく感動した覚えがある。

アフリカの大地は、赤い地面に真っ青な空と白い雲、照り付ける強い陽射し、原色が際立つ世界だ。
その風土の影響を受けて、人が好む色も鮮烈なものが多い。
”チテンゲ”とは、この大地が生んだ色柄豊富な布のこと。
女性たちは、服はもちろんのこと、子供をおんぶするときに使ったり、物を包んで運ぶときにもこのチテンゲを愛用する。
フランスにいた頃、このチテンゲとそっくりな布地で作ったドレスや被り物を身につけた女性たちが多くいたことを思い出した。
「エマズ・ウェア&クラフトショップ」では、チテンゲを使ってオーダーメイドのドレスを2日で作るサービスをしている。

ザンビアの妊婦は、つわりを和らげる効果があるとしてカフウエで採れるミネラルやカルシウムの豊富に含んだ岩を食べる習慣がある。
民間療法らしいのだが、古来よりの知恵なのだろうと思う。

アフリカは、資源豊かな国が多いこともあって、外国の干渉や民族間の争いが絶えなく、平穏とはいえない。
これからも、経済発展を目指す国々がそれぞれの思惑でアフリカに接触するだろう。
まだまだ安定した平和は、遠い地域のように思える。
かけがえのない自然と、生まれくる子供たちの未来が、それらによって乱されないことを願うのだ。





ワクチン接種というものは

2013-06-14 22:49:25 | つぶやき&ぼやき
「子宮頸がんワクチンの接種の勧奨を差し控える」と、厚生労働省の発表があった。
重篤な副作用の症例が十数件でたためと思われる。

ワクチン接種は、100パーセント安全といいがたいと今ではよく知られている。
しかし、その副作用を鑑みても接種した場合があるから問題なのだ。

現在、風疹による妊婦とその胎児への危険が世間を脅かしている。
この場合は、法律の変わり目によりワクチン接種が行き渡らなかったらしいのだが、まさにこの時に接種しなかった人たちが今困った状況に置かれている。
近年では、日本脳炎の予防接種で重篤な副作用の症例が出たために、安全性に問題があるとして一時期その予防接種が中断されていた。
それが再会されたのは去年だったように思うが、風土的リスクを見れば再会も止む終えまい。

自治体の裁量によって、ワクチン接種の費用負担が異なり、幼児期に接種するのが好ましいワクチンはかなりあり、子供を持つ豊かでない親達の悩みの種になっている。
ワクチン接種の案内は、親心を不安に刺激するのに、費用がかさむ。
また、時折ニュースで聞く副作用を心配する気持ちもあって、ワクチン接種をすべきかそうでないか悩ましい限りだ。
理想では、未来を担う子供のワクチン接種の費用は国が負担すべきだろう。
そこから、ワクチンを接種するか否か、メリットとデメリット、その副作用のリスクを開示し、親達も熟知できるような機会を与え、判断が難しいとしても、基本現行もそうなのだが選択制が好ましい。

しかし、今回の子宮頸がんワクチンは、やにわに接種が叫ばれたかと思う間もなくに公費負担で受けられるようになってしまった。
諸外国で早くからワクチン接種の傾向があったにしても、いささか早まりすぎではないかと感じた。
印象からするに、公費でワクチン接種が出来るということは、それなりの権威と強制力を備えることだと思うのだ。
それに加え、無料だから、安く出来るからと、安易な接種に向かわせる効果もある。
啓蒙するならば、よいところばかりを提示しないで、全てをつまびらかにしてやってもらいたい。
そして、接種を受けようとする側も、慎重に考え覚悟を持って受けて欲しいと思うのだ。

それにしても、ワクチンを接種するということは実に厄介であることよ。