rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

低カロリーを謳う食品考

2012-11-12 11:31:42 | つぶやき&ぼやき
いつごろからか、「カロリーオフ」「低カロリー」「糖質ゼロ」などの食品表示が、食品の売り文句のひとつになったのは。
食べることは、エネルギーと栄養素を取り入れて生命維持を図るための行動。
なのに、カロリー摂取を控える食品がもてはやされるとは、何たる反対行動。
「食べたいけれど、太るからカロリー控えめがいい」
「カロリーオーバーは、生活習慣病を引き起こすから、低カロリー食品、カロリーカットの調理が望ましい」
そうまでして食べようとするのは、心の渇望を食欲で満たそうというのか。
たしかに、病気や遺伝などでカロリーセーブを必要とする人はいるけれど、みんながそうなわけではない。
食べ物が巷に溢れかえるこの飽食国日本において、テレビや雑誌などのメディア、街に並ぶさまざまな飲食店、豊かな品揃えのスーパーマーケット、どこをとっても目の毒で、年がら年中24時間食欲を刺激する。
この肥大化した胃袋は、満腹を知らない。
かつてのローマで、栄華を極めたローマ市民は、交易でもたらされる各地の食べ物珍味を、食べるためのゆったりした衣装に身を包み、寝そべって食べる長いすに横たわりながら、心行くまで食べ、果てには食べて吐き出しまた食べることをするものもいたとか。
美食家などは、今に通じる低カロリーの食品をもてはやしていた。
栄養やエネルギー摂取のためではない、味覚の快楽追及だけの食事は、生命にとっての究極の嗜好行動だ。
反生存行動でもある。
過剰な消費活動を支えるための過剰生産が要求され、富のあるところに物が集中する偏った物流経済もできる。
人口増加の一方、地球環境の激変で安定した食糧生産がおぼつかない今、飽食国が少しその欲求を抑え、大切に食べ物を扱うようになれば、食糧不足も緩和できるかもしれない。
もっとも、これは幾層にも問題を含んだことなので、こうすればいいという簡単な問題ではないのだが。
しかし、低カロリー食品なんて、ナンセンス極まりない代物だということははっきりしている。
食べ物のありがたみをちっともわかっていないから、こんなものが現れるのだ。
自分の消費エネルギーに見合った食事、時間をかけてよく咀嚼し食べることを手始めに変えていこうではないか。
「カレーは飲み物」などと笑っていっているけれど、食べ物は飲み下すものではない。
噛んでよく味わい、味覚と心を満足させる余裕が欲しいものだ。
人は、機械ではないのだから、ガソリンや電気をスタンドなどで充填OKじゃあ悲しい。
ならば、サプリで栄養バランスを補い、エネルギーはごくっと飲んで終わりだっていいだろう。
目で見て楽しみ、匂いと舌で味わい、きちんと噛んで食感と胃袋を満足させる機能を備えているのだもの、食べるということを大切にしよう。
低カロリー食品は、文明の腐敗期の鬼子だということを忘れないで。





しっかりとした伝統を破壊しながら進む街、ロンドン

2012-11-10 23:39:06 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」イギリスはロンドン。
歴史が層を成す世界的に有名で今もダイナミズムに生きる街。
今年2012年は、二回目のロンドンオリンピックが開催された。
その記念なのだろうか、ビッグ・ベンが、エリザベス・タワーに改名されている。
また、ザ・シャードというロンドンで一番高い高層ビル310メートルも建ったのも、オリンピック記念関連なのだろうか。

ロンドンは、ファッションの街でもある。
トラディショナルとパンクが混ざり合った、独特なセンス。
「ビヨンド・レトロ」は、ロンドン最大のビンテージショップ。
タータンチェックはもちろんのこと、白黒のドッグトゥースやグレンチェックなどのイギリス伝統模様のファッションが取り揃えてある。
「ドリー・デア」は、10年位前にできたブランドで、この最近流行のペイズリー柄中心のカラフルな服のラインナップだ。
ミラノでもパリでもニューヨークでもない、独特なロンドンファッションは、伝統を踏まえた上で破壊する、いや、伝統があるからこその破壊を楽しんでいるように思われるのだ。

ロンドングルメ。
「べーグル・ベイク」は、24時間営業のもちもち食感のべーグルが売りの店。
ホット・ソルト・ビーフ・ベーグルは、こぼれんばかりに挿まれた牛の薄切り肉に塩味が効いていて、店一番の人気メニュー。
「トミーズ パイ&マッシュ」の甘く味付けした牛ミンチをパイ生地で挿みこんがりと焼いたミートパイに、マッシュポテトのクリーミーなパセリソースをかけて添えたものは、名だたる有名人たちもお気に入りの一品。
最近の流行は、グルメ屋台なのだとか。
レストランに劣らないものを食べられる手軽さが受けているという。
「ストリート・キッチン」は、ロンドンの人気レストランが出店し、大盛況だ。

イギリスのスイーツは、とびきり甘い。
「メイフラワー」という16世紀からあるパブが由来の店のスティッキー・トフィー・プッディングは、黒砂糖をたっぷりしみ込ませたスポンジにキャラメルソースをかけた、濃縮された砂糖の甘さがダイレクトに伝わるお菓子。
「プリム・ローズ・ベーカリー」は、人気のカップケーキの店。
食べるのが惜しいくらいにカラフルにデコレーションされたプチ・カップケーキは、紅茶と共に召し上がれ。

ロンドンから車で2時間のところにある、ソールズベリー。
13世紀に建てられたソールズベリー大聖堂は、ヨーロッパ一の長さを誇る回廊がある。
ステンドグラスも鮮やかに、教会内中央に据えられた甕に聖水が満たされ、教会の内部を映し出している。
そして、ソールズベリーには、あのストーン・ヘンジもあるのだ。
紀元前2000年、宗教的意味合いなのか、今なおその存在意味が分からないこの巨石群は、なだらかな丘に寡黙に佇んでいる。
昼ならば、白い月が浮かんでいるときに、夜ならば、煌々とした月明かりがあたりを白く照らしているときに、訪れて見たいと思う。
「グローベリー・ライディング・センター」は、イギリス式乗馬を楽しめるところ。
イギリス式乗馬とは、ゆったりと構え、優雅に馬に乗ることらしい。

イギリスといったら、パブ文化。
その昔、税金の不払いの人が入った牢屋が地下にある建物、今はパブとして使われている。
その地下の入り口には看板がかかっており、「お金のあまりない方は、地下へどうぞ」と書いてある。
ジョーク好きな伝統は、こんなところにも健在だ。

古くから栄え、政治経済文化の中心地であり続けた重い歴史と伝統は、ロンドンの骨格を形作っている。
それを安心して壊しながら先に進むのが、ロンドン気質なのではないだろうかと思っている。
硬い鉄拳で伝統を打ち削りながら、新しいものを創造していくのだ。
そうだ、イギリス人は冒険もお家芸。
しかし、冒険は行きっぱなしでは成しえない。
ホーム、戻って受け止めてくれるところがあるから前に進める。
歴史伝統という、安心のゆりかごが彼らにはあるのだ。
硬い地面があるから、強く蹴ってジャンプできるのだ。
同じく島国で歴史と伝統のあるわが国日本は、破壊と創造の行為はイギリスに及ばない。
確固たる自信のなさの現われか。
見習うことが好きな日本は、このあたりよく考えてみるといいように思ったのであった。






アンリ・ルソー、白く輝く月のある熱帯の楽園へようこそ

2012-11-09 15:39:27 | アート

蛇使いの女


眠るジプシー

「蛇使いの女」は、オルセー美術館にある。
とても大きな絵だ。
初めてこの絵の前に立ったとき、熱帯の深く暗いジャングルに引き込まれる錯覚に陥った。
そのジャングルは、とても整然とした秩序が支配する不思議な空間。
気まぐれに動くものは、何一つとしてないようだ。
蛇使いの吹く笛の音が、ジャングルの運命を決定する力。
白く輝く月が、成り行きを見守っている。

「眠るジプシー」は、子供の頃、飽かずに見ていた百科事典の小さな図版でであった。
砂漠に眠るジプシーの顔を覗き込むライオンに、殺気はない。
死んだように眠るジプシーに、同情しているかのようだ。
互いに深い孤独を生きるもの同士、目覚めて再び立ち向かうために、しばしの休息をねぎらっているのだろう。
ここでも、白く輝く月が、黙って砂漠の出来事を見ている。

ルソーの画面いっぱい均一な描き込みが、静寂と秩序をもたらしている。
何もかも全て視界に納め、気に留めていないものはないと宣言する。
ルソーは、あの白く輝く月なのだ。
分け隔てなく、静かで控えめな、孤独を愛する白い月として、熱帯のジャングルや砂漠での出来事を黙って見るのが務めだと思っているのだろう。


冬の支度、春の準備

2012-11-08 15:45:16 | 随想たち
このパソコンのある離れの部屋は、壁面の半分がガラス入りのサッシになっている。
建物の周りに大きな木があるけれど、採光と通風は申し分ない。
反面、外気温に室温が左右されるので、ことに冬はとても寒い。
そこで、寒さ対策にエアーマット、あの梱包に使うプチプチをガラス面に張るのだ。
今日は、暖かく気持ちのよい日だったので、この作業をした。
見た目はお世辞にも良いといえないけれど、もともと作業をするための部屋なので、ここは我慢しよう。
でも、なかなかにいい音響設備が置いてあり、自分の好きなものを置いてあるので、自分としては落ち着く部屋だと、この部屋の名誉にかけて付け加える。

一方で、気の早いことに冬の先の春の準備もした。
それは、春の花の苗を鉢に植えること。
ビオラ、パンジー、アリッサム、ミニシクラメン、白妙菊、チューリップやフリージアなどの球根類。
チューリップは新しい球根ではないので、咲く保証はまったくといっていいほどないけれど。
ビオラやパンジーは、今から花を咲かせているもので、凍りながらも冬の寒さを耐え抜いて春にたくさんの花を咲かせる健気な花たち。
花盛りになる春を楽しみに過ごしていくための、物言わぬ旅先案内人。

生きるとは、時間を追いかけ先に歩みを進めることだと、季節の用意をするたびに思う。
でも、ただ過ごすだけでは物足りなく、何かしら生きた痕跡を刻んで生きたいと思うのは、これもまた人の業というものか。
こうして毎日のように文を綴るのは、その足掻き。
また、絵も描きたいと思いながら、半人前以下の分際では過ぎた望みと戒めている。
生きてはいるけれど、もう咲くことがないチューリップの球根をまた植えるのは、もしかしたら咲けるかもしれないと見捨てないでいるから。
生きていれば、その可能性はある。
諦めないのが肝心とばかりに、ゼロではない可能性にしがみついているのだった。




今回は、小さい人と手作り餃子

2012-11-07 22:44:09 | 随想たち
昨日、小さい人と皮から手作り餃子を作った。
事の成り行きは、小さい人を迎えに行ったついでに店により、餃子の皮を買おうとした。
あいにくと20枚入り一袋しか置いていなく、困っていると、小さい人が「手伝うから、皮から作ろう」と提案。
いささか面倒な気もあったが、小さい人の申し出をありがたく受け入れ、家に着くとすぐさま餃子作りに取り掛かった。
小さいアシスタントは、手をきれいに洗い、必要な材料や調理器具を用意する。
小麦粉を捏ねるのは一苦労なので、今回は私が受け持ち、小さい人は粉を振りいれる役目。
どうにかこうにか生地を作り、丸くまとめて寝かせる。
次に、餡作り。
長ネギのみじん切りに挑戦する小さい人。
ネギから飛び散る汁が目に沁みて、目には涙を浮かべている。
「料理をするのって、何かと大変なんだね」と、ぽつり。
塩をしたキャベツのみじん切りの水分を絞り、餡を捏ねるのもやってみる。
そして、餃子を茹でながら、箸や皿などの用意もこなし、途中味見と称して茹でた手餃子を頬張るオプションもついて、最後まできちんとやり遂げた。
茹で上がった餃子を食卓に運んできた、小さい人の顔は、満足そうな表情を浮かべている。
時には、こうして子供と一緒に手間のかかる料理を作るのもいいものだ。
こちらも助かるが、子供も食べ物を作ることで、その労力と食べ物の大切さを実感できる。
自分で口にするものを自分で作れること、人に作ってあげられることはすばらしい。
生きていくうえで、食べることは欠かせないのだから。
男女問わず、料理ができるということは、生きる基本なのではないだろうか。
これからも、小さい人と料理を作る機会をたくさん持とうと考えている。