rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

大好き!! 西洋ナシ

2012-11-22 11:29:12 | 食べ物たち
今が旬のラ・フランス、香りよく柔らかな食感と甘みと滴り落ちる果汁、大好物の一つ。
美しい黄色のル・レクチェは、さらに香り高く、とろける食感に芳醇な甘みがあり、洋ナシ界の貴婦人と勝手に呼んでいる。
西洋ナシは、店頭に並んだものをすぐ買ってきて食べるわけにはいかない。
追熟をして、ナシからの香りが強くなってきて、つまり腐る直前が食べごろになる。
時には、うっかりして食べごろをやり過ごし、悲嘆にくれることもあるので、注意深く見守らないといけない。
今朝は、食べごろになったラ・フランスに舌鼓を打って、幸せ気分で始まった。

西洋ナシとの出会いは、4~5歳の頃。
当時、北海道に本州で当たり前の東洋の梨は、なかったように思う。
柿も、赤く柔らかい熟しきったものが普通だった。
物流が、今ほど迅速でなかったためだろう。
いまでもおそらく、北海道で採れない柿や梨、サツマイモのなど、親戚に送るとたいへん喜ばれるのだ。
それで、多分高級品であった西洋ナシを初めて食べた時の、香りと食感に味の感動は鮮烈で、単純そのもの幼心に外国への憧れを抱いたきっかけとなる。
本州にやってきてから、東洋梨を食べたとき、瑞々しく甘くて美味しく好きになったのだが、同じナシをいいながら、西洋ナシとはまるきり別物だと思った。
それからしばらく、ラ・フランスが一般流通するようになるまでは、西洋ナシにめぐり合うことはなかった。

ここ数年、この田舎のスーパーでも、ラ・フランスとル・レクチェが売られている。
北海道で出会ったあのナシは、多分ル・レクチェのような気がして、とても懐かしく、私にとっては宝石のように輝いて見えてしまう。

これからが、西洋ナシのシーズン。
なんともいえない高貴な香りと、とろける食感、口いっぱいに広がる柔らかな甘みを、恍惚となりながら味わおう。
大好き!! 西洋ナシ!


茶目っ気のあるサセッタの絵

2012-11-21 15:48:13 | アート

聖フランチェスコの清貧との結婚


聖人たちと聖母子

15世紀イタリアのシエナで活躍した、国際ゴシック様式の中でもシエナ派あたる画家サセッタ。
シモーネ・マルティーニやピサネロなどの影に隠れがちだが、良い作品を残している。
サセッタの描く絵には、茶目っ気がある。
「聖フランチェスコと清貧の結婚」では、結婚の約束を交わした清貧が立ち去るとき、振り向き手を差し伸べて別れを惜しんでいる姿で描かれている。
「聖人たちと聖母子」では、聖母子を取り囲む楽奏の天使たちは微かに笑みを浮かべるのが一般的だが、サセッタの天使は満面微笑んでいる。
しかも、右手前の天使は、目をくりくりと見開き、口元は大きくカーブを描いて笑っているのだ。
見ているこちらも、つられて笑ってしまう。
厳かな教会の祭壇画を飾るにしては、ちょっとやりすぎと思えるのだが、ルネサンスの自由な気風の先触れとして、これも許される時代になったのかと思いを馳せる。
新しい時代の幕開けに心躍らすサセッタの気持ちが、彼の描く絵の随所に見られると思うので、どうぞサセッタをお見知りおきを。


絵になる日向ぼっこするねこ

2012-11-20 20:59:58 | ねこ

縁側で日向ぼっこ 20/11/2012


影のアーチ 20/11/2012

この縁側の縁にちょこんと座り、日向ぼっこをするねこ。
以前もこの場所に居るねこの写真を撮ったことがある。
私の好きな写真だ。
今日、たまたまここで日向ぼっこするねこを目撃、そそくさとカメラを取りに戻る。
そ知らぬふりでカメラを構え、シャッターを切ろうとしたら、気がついたねこは構って貰おうとこちらに来ようとする。
ああ、もうちょっとその場所でじっとしていてちょうだい。
できることならカメラ目線をして欲しいのに、ねこだもの、そんなこちらの思惑なんて気にしない。
5ショットほどシャッターを切ったところで、こちらに来てしまった。
まあ、いいか。
近くにあるバラの枝が、アーチの影を作っていい感じだ。
立て位置のものは、ねこの頭上にあるバラの葉が、舞い降りるハトのようで、西洋絵画の聖母像みたいではないか。
なかなかいい写真が撮れて、今日のいいこと。




2012年11月17日から18日、しし座流星群

2012-11-19 14:50:59 | 空・雲・星・太陽たち
今年のしし座流星群は、ピーク時の天気に恵まれなく、いささか残念なものだった。
しかし、私と中くらいの人は、流れ星愛好家として諦めが悪かった。
まず、16日の夜から何度となく空を見上げては、よもやの流れ星を探していた。
そして、私は、前夜からの雨が上がった18日の早朝5時に目を覚まし、まだ日の昇らない星の瞬く空を見上げる。
見上げること10分位して、南東の低い位置、杉木立の隙間に、明るく煌く光が走った。
その数分後に、また同じ方向にもう一つ。
あとはもう見ることが出来なかった。
朝、中くらいの人が、流れ星を見たのかと聞いてきた。
見たことを聞くと、なにやら決心した顔つき。
中くらいの人は、18日の深夜に、流れ星の観察を決行。
この時は、長く尾を引くものと、すうっと消えたもの2つを見た。
それから、19日の早朝4時に起きて、もう一度挑戦。
20分くらい眺めるうち、1つ見られたという。

我々は、田舎で明かりが少ないという観察に適した土地だから、流れ星に拘るわけではない。
中くらいの人の同級生でも、流れ星に興味のある割合は、存外少ないらしい。
「〇〇流星群が見られる」「皆既月蝕」「皆既日食」などがあっても、話題に上ることはないという。
日頃見られる美しい夕焼け、ときどき出る虹なども、空を見上げ、感動することが無いようなのだ。
それは、大人達にも言えること。
感動する景色とは、景勝地や紅葉などに限られているのだろうか。
「今日の夕陽がきれいだったね。」と言っていると驚かれるか、何を言っているのか分からないと言った反応が返ってきたりする、変人奇人の態なのだ。
そうすると、こちらの心に冷たい木枯らしが吹き込んでくる。
自分の生きているこの身の回りの自然に心ときめかなかったら、どこに素直に感動できるのだろう。
それとも、生活に追われ、人間関係で疲弊し、心が縮み乾ききっているので、何の美しさも受け止めることができなくなっているのか。
大人ばかりではなく、子供たちまでも、目が閉じてしまっているのは悲しい限り。
次の流れ星を見たときには、是非とも願い事をしなくてはならないと、そう思ったのであった。

焚き火とカラスの喧嘩

2012-11-19 11:50:04 | 生き物たち
今日は、昨日と打って変わっての雨交じりの曇天。
昨日の晴れたけれども北風が強く吹き、杉や桜、楢にケヤキの落ち葉があたりに散らばっていた。
家族3人で、2時間ばかり落ち葉掃きをして、焚き火で燃やした。
もくもくと出てくる煙に咽ながら、何箇所にも焚き火の山を作る。
その頭上では、カラスたちが追いかけまわしては取っ組み合いの喧嘩を繰り広げている。
庭掃除以前から騒いでいたので、焚き火で出る煙に怒っているわけではないようだ。
最近カラスは怒りっぽい。
毎日のように喧嘩をしている。
もしかすると、喧嘩のように見えても、カラスなりのコミュニケーションのひとつなのかもしれないが、ずいぶんと荒っぽい。
集団で社会生活を営むカラスたちは、多くの言葉を操るみたいだし、それぞれに役割が決まっているみたいで、見ていると結構面白い。
もっとも、あちらもこちらを見ているらしく、人間の落ち葉をせっせと掃き集め燃やしている姿は、巣をきれいに良くしようとする行動と映っているのだろうな・・・などと想像している。
人間は、幾重にも重なりあったコミュニティーで生きる社会性動物だから、言葉や行動から単純明快さが失われているけれど、それにしても信の置けないことが多すぎはしまいか。
最近、あまりにカオス度が過ぎている。
そして、そのカオスを覗き込むと、希望の小さな光はかき消され、深い絶望しか残らないのだ。
宇宙から見ると地上の、我が家で起こしている焚き火の灯は見えないくらいの光しか放ってはいないけれど、光は確かに存在している。
なんとか、人の心に宿っている善と希望の光を消さない世界にならないものかと、焚き火の番をしながら切なく祈ったのであった。