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みんなの言う平等・公平の弊害

2022-02-26 00:06:47 | 随想たち
昨日付けのニュースで「特別支援教育、全教員が2年以上の経験を積むのが望ましい」と、文科省検討会議においてまとめられたとあった。
これについて、私は必要だと考えている。
実際、特別支援教育を必要としている児童生徒が増加の一途を辿っていて、それぞれの個性に応じた支援が通常教育を受けるよりさらにより精緻になされる必要があるので、それらに精通した教員がいるのが望ましい。
本来ならば、従来の特別支援教育と、さらに発達障害に詳しい教員がいるのが理想的だ。
けれど、特別支援教室に入級しない、したくない、その基準に及ばない所謂グレーゾーンの児童生徒がいる通常学級において、確かな支援が受けられずに成長の機会を逃している場合がある。
そこで、どの教員にも、支援の知識と技能を持ってもらえたなら、子供の個性を見落とし見過ごさないでもらえる可能性が高まるのではないだろうか。
いま、どの支援の場においても、チーム制を推奨している。
それぞれの専門や、多くの目を持つことで、より確かな支援を提供できるようにとの狙いがあるためだ。

人はそれぞれ能力が異なり、能力値のグラフも凹凸がある。
体の大きい人もいれば、小柄な人もいる。
足の速い人がいれば、足の遅い人もいる。
歌の得意な人、不得意な人。
手先の器用な人、不器用な人などなど。
生まれながらに個性豊かなのだ。
つまり、出発地点はそれぞれ違っていて、まさしく平等ではないといえよう。
だから、同じことをしていたら、その苦手なことを引き上げるのは難しいし、強みを磨くこともかなわない。
そこで、その人にあった方法で梃入れが必要になる。
すると、その梃入れが不公平だと考えられることがある。
いやいや待って欲しい、能力値がそもそも不平等なのだから、みんなと同じにしていてはある人たちは不利益を被るのではないか。
目先のスパンだけで捉えないで欲しい。
人の長い人生、自立してよく生きるには、それだけの力を得なくてはならないでしょう。
人が自立して生きることは、人の尊厳につながる大切なことだ。
それを実現させる支援は、必要不可欠。
公平とは、それを保障するための機会の提供であるのではないだろうか。

さて、先の特別支援教育を全教員が経験するということに戻る。
ある意見では、それによって教員を目指す人が減少するのではないかという危惧。
確かにそれも一理ある。
けれども、教育とは人の未来を育む大切な場なのだ。
一教員の負担を軽減するために、一人当たりの負担人数を減らす、つまりは副担任制にするなどにしたり、学校外の諸専門家との連携など、多面的複眼的に子供の育成を図る。
人を育成するには、多くの人的パワーが必要不可欠なのだ。
これは未来への投資。
人が人を損なっていては、もうそれは種として終わっていると思うのだが、いかがだろうか。


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