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アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

許すとは、愛の最上級もしくは拒絶、良くて諦め 「王様ランキング」

2022-03-26 00:52:48 | 漫画やアニメ
アニメ「王様ランキング」(もちろん原作は連載漫画)を、毎週楽しみにして家人と観ている。
可愛い童話的キャラクターで、タイトルの印象とあいまって、楽しいお気楽な冒険活劇かと思いながら観始めた。
しかし主人公は巨人属なのに人間の子供よりも小柄、そして言葉を話すことができず、力も非力の極みで、王子であっても民衆から馬鹿者扱いをされ蔑まれ詰られる、やりきれない設定だ。
それでもすねて諦めることをせずに努力を重ねる姿が痛ましく、2話くらいはストレスが溜まる回となっている。
王である父親が亡くなったのをきっかけに、物語は急激に進み始めてからは、主人公ボッチの成長と絡んでくる人々の思惑、それぞれの背景が、物語に厚みを持たせている。
「欲」は、人を突き動かすエネルギーであるけれど、過ぎるとそれは害悪でしかなくなる。
王様のボッス王の強くなりたいという望みは、力比べの域を出ると、完膚なくまで相手を打ち据えて、果てには「神」をも葬ろうと禁断の力に手を伸ばしてしまう。
その結果、後悔しても仕切れない思いが残り、周囲の人の運命を狂わせる。
気持ちを寄せる人のために良かれと思ってしていることが、だんだんと盲目的になり他人の存在は目的を遂行するための道具か障害物となり、利他的で始まったのに利己的になってしまう。
こうして増長した「欲」に蹂躙され荒廃した状況を仕切りなおすことができるのは、「裁き」でも「断罪」でもない、究極の愛の形「許し」なのだ。
エピソード1の終盤、この「許す」という言葉が、畳み掛けるように何度も出てくる。
散々な目に合ってきた人たちが、いとも簡単に「許す」行為に納得する。
感動的場面であるけれど、こんなにあっけなく「許す」ことが連続することに、なんとも言えない違和感と不信感を持ってしまったのは、自分の心が捻くれているせいなのだろうか。

今日職場で、道路での危険な追越運転や、十字路に面したコンビニなどの駐車場を信号を回避するためにショートカットする人たちの行為についてどう感じるかを話していた。
皆一様に、その行為は危険で自己中心的なもので腹立たしく、あいにくとそこに居合わせた時は不快な気分で、余裕を持った易しい運転をしにくくなるという。
そこで私は、「おなかの調子が悪く、トイレに一目散」だったのではないだろうか?
また、そう思っていたほうが諦めやすく、不愉快な気分を早く切れると応じた。
すると、皆驚いていたが、いらいらした気分での運転は荒くなったりするのでそのほうが心の健康にいいみたいだ、けれどもなかなかそうは思えにくいというらしい。
ふむ、危険ではあったが実害がなかったことであっても、「許す」のは難しいようだ。
さて、「許す」にも種類がある。
「偉大な愛の許す」と「諦めの許す」、「どうでもいい拒絶の許す」の3つが思い浮かんだ。
私が危険運転行為に対する「許す」という場合には、ほぼほぼ「どうでもいい拒絶の許す」が7割で残
り3割「諦めの許す」の混合物だ。

話は物語に戻る。
ここで出てきた「許し」は、積極的な「偉大な愛の許し」なのだ。
人の中にある「善」に期待し、そして「弱さ」を包み込む尊い慈しむ気持ちから出ている。

今回のエピソードで回収されてないが、冥府の王デスハーが、拒み続けてきた王様ランキング1位を受諾し宝を受け取りに行くシーンがあった。
王様ランキング委員会の使者が、意味深な言葉をデスハーにかける。
「自分の私欲のためにランキング1位を受けた。自分は変わらないと思っているようだが、人は変わるもの。」
「王様ランキングは、人々の幸せのためにある。」
ちなみに、これまで王様ランキング1位を獲った歴代の王たちは、宝を受け取って後姿をくらましている。
その宝とは、浦島太郎の玉手箱に類するものなのか?
これをどう捉える、われわれは試されているのか?
歴史は繰り返されるのも、このあたりに原因があるかもしれない。

「王様ランキング」は、その見た目で油断してはいけない、様々な問いを私たちに投げかけてくる。

なにと戦っているんだ!と、セルフツッコミ

2021-10-21 22:57:27 | 漫画やアニメ
寒い。
何の心構えもなく、10月らしさという観念から抜け出せないままに、寒くなった。
百歩譲ってヒートテックを着用しても、ウールのニットには踏み出せない。
エアコンを暖房に切り替えるのも、ましてやコタツを設置するのも早い気がしている。
でも、明日の最高気温予想が14度、11月中旬並みとあっては、暖房に切り替えし、フリースを羽織るようにしないと、それこそ変なこだわりや融通のきかなさでもって、体調を崩したら本末転倒になるだろう。
しかし、服で調整するのはなんら経済的打撃はないけれど、エアコンやコタツなどの電気をエネルギーとするものは、無傷ではすまない。
賃金上昇をはるかに上回って、光熱費や食費が上がってきている。
体感的に1割ではきかない差があるようだ。
巷を見ると、軽自動車の割合が増え、車格が中クラスは激減し、やたらと高級国産車に外車が目立つ。
二極化がはっきり分かるまでとなり、概ね貧しくなっているということだ。
「何をもって足るか」と考えれば、ひとまず安全に暮らせ、空腹を抱えなくてもいいように食べられ、ささやかな楽しみを持てるくらいの余裕をもてるくらいの経済力を確保できる職業に付けることか。
子供の立場ならば、生活に追われてぎすぎすと余裕無い保護者ではなく、愛情をかけてもらえるくらいの安心できる環境であることか。
欲を出せばきりがなく、高すぎる設定は身を苛む。
人の世は、どうやっても歪にしかならないだろうけれど、昨今は特に歪んでいるようだ。
そんな憂いをしてみても、差し当たって凍えないくらいの冬を過ごし、気兼ねなく温かいお風呂に毎日入りたいものだ。

雨だから”シン・エヴァンゲリオン劇場版”

2021-08-13 23:11:32 | 漫画やアニメ
いろいろなものへのオマージュを絡めながら、心の成長を扱い、かつ一種の悟りをもって混沌の中より立ち上がり、今を大切に生きようと伝えたかったのだろうか。
手塚治の「火の鳥」や「伝説巨神イデオン」、「起動戦士ガンダム」、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」、「ぼくらの」、はたまた「輪るピングドラム」「魔法少女まどか☆マギカ」「東京喰種トーキョーグール」など、多くの要素が混在しているように思った。
登場人物は、癒えない渇きに苛まれて、愛の不在に困惑し絶望したり憤怒に身を焦がす。
ある者は他を拒絶し己の技量を挙げることで自己を確立しようと自己完結を目指し、またある者は渇きを潤すものに執着し与えられることのみに心血を注ぎ、ひたすら自己否定を繰り返し狭い世界で堂々巡りをする。
愛は、与えられるだけでも、与えるだけのものでもない。
愛は、相補性であり、互いに補い合いながら慈しむものだろう。
それが出来るも者から、この苦界から離脱し輪廻の輪から抜け出ることが出来るのだろう。
苦界での、いつ終わるか分からない中でもがき苦しみながら、魂の修練を重ねて一歩違う境地に踏み出られたら、くびきが外されるのだ。
象徴的なのは、生れ落ちてより天涯孤独なアスカが、自己完結を貫く揺らぎを見せた中で与えられた一つの言葉によりすべての枷が外れたことだ。
愛というものを知った、それがどれほど大きかったのかを思うと、いたたまれなくなる。
また、このテーマの中で「親殺し」「子殺し」があるが、親が子を殺す(種々の虐待)から子が親を殺すのだと、負のスパイラルを告発しているようにも見えた。
人は愛なしでは、自身を保つことは出来ない。
まずは大人が、そして若い人たちも、気づいた時点で自分を振り返るのもいいけれど、今を大切に、身近な人に愛を持って接していって欲しい。
過去は変えられないけれど、未来は変えることができるのだから。

先走る季節

2021-04-04 21:32:55 | 漫画やアニメ

桜の絨毯


青紅葉

何とか持ちこたえていた桜も、今日でおしまい。
強い南風で桜吹雪となり、今夜は桜の川となる。
時を同じくして、楓の葉があっという間に茂ってきて、青紅葉のさまになった。
五月の連休あたりに咲いていた藤の花は、今咲くばかりの蕾を付けていて、いくつかの花の根元はもう花を開かせ始めていた。
先走る季節、何か大きく変わってきているのだろうか。


グレートコンジャクションと呪術廻戦

2020-12-29 00:17:43 | 漫画やアニメ
木星と土星の大接近があった。
占星術の世界では、この現象をグレートコンジャクションといい20年毎の節目であるらしい。
しかも、今年のは世界を表象するエレメントが200年続いた土から風へとかわる一大転換期でもあった。
土が象徴する物質的社会から、風の情報や思考など非物質的価値観へと変わるそうだ。

アニメ「呪術廻戦」を家族で見ていた。
ここに登場する絶対的存在とも言える「両面宿儺」という呪いの王がいるのだが、その行動理念は快不快によるものだ。
まるで自我の原初的部分のエスのようだ。
すると、「呪い」とは人の心そのものなのだろう。
吉野順平と対峙した虎杖 悠仁が発した言葉に「もうお前を呪わない(非難しない)」とあったとき、「呪い」の悲しさを見た。
登場人物のそれぞれ葛藤は、人間の心の中にあるエスと自我と超自我のせめぎあいのようだ。
虎杖 悠仁は、「正しい死」にこだわっていて、つまりその者にとってきちんと生きてきた相応しい死のことだろう。
鬼滅の刃でもそうだったが、このところの傾向は、成功とか野望ではなく、個人にとっての価値観を問うものが多いように思う。

物質世界がある程度極まって、それに伴う歪みによる閉塞感が世界を覆っていたところに、それらを根底から揺るがそうとする事態になってきて、人は変化を迫られている。
さて、「風の時代」はどう世界を流していくのか、注意深くセンサーを利かせていこう。
それがある程度見えてくるまで、生き延びることが出来るか、そこもとても定かではないが。