撮影会で曽爾屏風岩に行きましたが、紅葉はもう終わりかけていてあまり撮る気持ちにならなかったので、白い空に残った山桜の葉のきりとりをしてみました。デジタルカメラではどうか分かりませんが、桜の葉の色を出す為には銀塩(ポジフィルム)では露出補正をしないといけません。これは(+2、3)にしました。前回、京都で見た写真展 SAVE THE FILM でいたく感心したので買ったパンフレットから「宇宙のからくりからみた銀塩の魅力」を、私のリウマチ日記の下に掲載しました。
昨日は、187回目(左腿)のエンブレル注射をしました。今日は診察日でした。先月の血液検査の結果は、MMP-3(上限値59.7)は51.0で正常値。当日の検査結果の分っている分は、CRPは<0.2で正常値、RF(上限値20)は17、肝臓の検査結果はGOT(上限値38)が19、GPT(上限値44)が23と正常値。LDL-C(悪玉コレステロール)は164(上限値140)と上がっていました。 朝起き抜けに目まいがしていたが、最近は治っていると言うと、先生はカルテに記入。先生から、前回した検査の詳しい説明があり、「順調にいっているよ、どんどん写真撮ってくださいね」と言って下さいました。
「宇宙のからくりからみた銀塩の魅力」
~フィルム、デジタルの根源的差異を考える~
佐治晴夫(宇宙物理学者・理学博士)
かつて写真技術が発明されることによって、肖像画を描いていた画家たちは失業し、新しい絵画の世界を切り開くきっかけとなった。実は、銀塩写真からデジタルへの移行にも似たようなことがいえそうだ。デジタル写真は、撮影直後の映像の確認が容易であり、撮り直し、消去にも手間がかからず、しかも、撮影後の画像処理が自由自在であるなど、驚くべき利点を有するが、一方では、撮るべき一瞬と対峙する緊迫感に欠けるというデメリットを生み出す。つまり、従来の銀塩写真は、一枚の作品を撮る一瞬までの間に途切れることのない連続した時間の流れがあり、それが凝縮した先にシャッターチャンスが到来する。それゆえに、そこで撮られた一枚の作品には、撮影者の生命の息づきを感じさせるリアリティーがあって、写真にこめられた想いは、画像の中で永遠に行き続けることにもなりえたのだが、デジタル写真は、時間の流れの一瞬を捉えたにすぎず、しかも、撮影した後に、いかようにも再構築できるという点からみると、銀塩写真がもつ「フラクタル性」、すなわち部分から全体を見通すという迫力に欠けてしまうようだ。いいかえれば、デジタル写真は、被写体そのものを二次元的に切り取る能力には長けているにしても、被写体の周辺にそこはかとなく漂う見えない空気、雰囲気とでもいいたい奥行きのような何かを表現する段になると銀塩の力に及ばない。これは、物理的な観点からいえば、感光素子の基本的構造と処理方法の差異に由来するのだろうが、あえて言えば、世界の構造がデジタルな原子分子で成り立っているのにもかかわらず、われわれが目にする世界は、極めてアナログ的な確率現象でしかないという現代物理学が明らかにしたパラドックスにも似ている。もう少し詳しくいえば、銀塩フィルムにおける感光素子は、きわめて規則正しく整列している。
一方、人間の目を構成する細胞の動きは、けっして一様ではなく、ランダムに動くことによって、ノイズを平均化し、心地よい画面をつくるようにできている、これは、天体写真を撮ってみるとよくわかる。通常、望遠鏡越しに惑星などの写真を撮ると、例外なく、肉眼による眼視映像よりも、ぼけた写真しか撮れない。何故か。それは、眼視の場合、視覚細胞がゆらいで、ランダムな自然界のノイズを平均化し、結果としてノイズ除去をしているからである。ぼけて、ゆらいでいるからこそ、ピントがきっちりあって見えるということだ。この事実は、積分法といって、20世紀後半の実験物理学での測定制度を上げる方法に応用されている。つまり、人間の目に心地よい自然の映像とは、きっちりと、規則正しく配列された素子では実現されず、ランダムな素子の上に創り出される平均化された映像だということになる。もちろん、この場合、十分な解像度を確保できる程度の精細なドットであらねばならないことはいうまでもない。
実は、この状況は、音楽の演奏をデジタル処理したものとアナログ処理したものとの再生音の違いを思い起こさせる。たとえば、CDを半導体素子のアンプで再生した場合と、LPレコードを真空管アンプで増幅した場合の再生音の違いである。筆者は、かつて、あるレコード会社の協力を得て、カルル・ベーム指揮、ウイーンフィルの演奏によるモーツアルトのレクイエムを同じマスターテープからCDとLPに落として聞き比べをしたことがある。その差は歴然としていたが、もっとも顕著だったのは、第5曲、ラクリモーサ(涙の日)の終結部を力強く、しかももっとも美しい合唱で締めくくる「アーメン」の部分だった。つまり、すべての合唱団員が後ろ向きで歌っているとしか思えない再生音がCDだったのである。もちろん、デジタル録音には、アナログレコードでは避けることのできない針のスクラッチノイズなどは皆無であるが、音場の奥行きが感じられないのである。考えてみれば、音響であっても、映像であっても、われわれが日常接している世界は、虚構の世界であろう。
デジタル技術にも、たしかにノイズは存在するが、それは虚構のノイズだ。たとえば、モアレによる擬色だ。だからこそ、銀塩は、銀塩であるが故の原点に立ち戻り、改めて新たな銀塩世界の魅力に目覚めるべき時期が今なのかもしれないと思う。もちろん、デジタル写真のデメリットもいずれはデジタル技術によって克服されていくのだろうが、少なくとも、現時点においては、いまだに、銀塩には太刀打ちできない弱さがある。デジタル技術の基本は、情報となる信号の量子化にあるが、自然界の姿は、量子化されたモデルのアナログ的な確率現象であることを肝に銘じておきたい。