夢を見た。
起きた今でも、ものすごく、鮮明に覚えている。
年取ってから、物覚えは悪くなったが、昔のことは、はっきりと覚えているから不思議なものだ。
22番の南千住⇔新橋間の都電が走っていたころの話だ。
「蔵前2丁目」の停留場で降りて、八百屋さん、酒屋さん、お豆腐屋さんの前を通り、広い国際通りに面した角地。
そこが私の子供のころに住んでいた家だ。
国際劇場(今はビューホテル)の前の通りだから、国際通りと呼ばれていたが、18間通の呼称のほうが、私には懐かしい。
今なら、何メートルあったのだろうか…。
子供には、ずいぶん、広い通りに思えた。
両親は働き者であった。
父は、小僧として働いていたところから、一人の番頭さんと共に、独立した。
丸いちゃぶ台を、両親と私、そして番頭さんと囲みながら食事をする。
やがて、住み込みの小僧さんたちが一人二人と増えたけれど、そして妹も生まれたけれど、暖かな食卓の風景は変わらなかった。
昭和そのものの光景だ。(笑っちゃうくらい、古い映画と同じ光景だ)
あの小さな平屋の家が、私の原点なんだろうと思う。
その懐かしい蔵前が、今、脚光を浴びていると言う。
下町のブルックリン…と呼ばれているそうな。
レトロなカフェもたくさんできたそうだ。
たまにTVなどの旅番組で取り上げられるが、なんか、違う場所の様に思える。
「あっさり死んじまえ!」(アサリ~、シジミ~)
の懐かしい朝の掛け声も聞かれなくなって久しい。
ボールを持って、お豆腐屋さんに群がる。
ゴミ出しでさえ、同じ時間に、各家庭から、母親が捨てに来る。
私には、皆、いとおしい朝の風景だ。
今朝、久しぶりに、子供の頃の家の夢を見て、ちょっと、おセンチになっている私だ。
(´∀`*)ウフフ( ^^) _U~~🌞
私も最近産まれた時から住んでいた家を幼馴染やご近所さんを思い出します。
高崎駅から徒歩で10分。いまでは新幹線が開通し街ごと跡形もないんですよ。
当時は皆さんめちゃくちゃあけっぴろげで、我が子もよその子も変わらずに褒めて叱って。街ぐるみで子供を育てていたように思います。昭和39年生まれ。こじんまりした家には思い出がいっぱい。目を閉じたらすぐに浮かんできますね。あの場所が私のルーツ。
最近高崎が恋しくて恋しくて。
人間って産まれた時に最初に吸った空気って死ぬまで肺の中から出ないから故郷が恋しくなるんだ!なんて本を読んだことあります。
医学的にはナンセンスですが、なんだかわかる気します。
夢は憶えていられないですが😓確かに大昔のことは憶えているかも🙄釣りをした三級河川に野球場になっていたマンションの駐車場。野球やってると駐車場に車止めてるヤンキーが追いかけて来たっけ😂
僕は時々、学生時代を過ごした街が今どうなっているのか知りたくて動画などを視ています。ほとんど富山から外に出たことがないので、都会の変化は新鮮です。
50年来の友人が、最近、生まれ故郷の大阪がすごく気になりだして、帰ろうかな…と言い出しました。
彼女の生家は、もう、ないのに…。
アパートでもいいから、帰りたいって言うんです。
聞いたときはショックでした。
でも、今は、なんとなく、彼女の気持ちがわかるような気がします。
でも、私は、荻窪が終の棲家。 大好きな街です♫
お若いとき、野球、やってたのね!
草野球かしら…。
車を止めていた人たちは、ボールでぼこぼこにされたら、怒るわね~。
面白い夢、見ましたね!
東京生まれの東京育ち。
生粋の江戸っ子の私ですから、昨今の東京の変化には、目を白黒。
TVで観ても、異世界に感じます。
かえって、地方の方のほうが詳しかったりして…。
神田お茶の水、四谷の学生街も変わりましたよ!
昔は、多摩とか東京のはずれに大学は移転しましたが、また、都心の高層ビルに戻ってきたようです。