りんりんりたーん

りんりんも、きっと帰りますとの思いを込めて…

ReD?:罠観念??? 道教何経 縄詐用 ???????

2007-11-20 22:06:55 | Weblog
?(・ω・;)(;・ω・)(・ω・;)?
?〇o。(;´ω`)?(;´ω`;)?(´ω`;)。o〇?

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak3/1301251.htm
420-1.観念、道教など
様HPより一部抜粋
ひょっこりひょたんIT島
なーみを、チャプチャプチャプチャプとかきわけてー
くーもを、スイスイスイスイスイ老いかけてー

ひょうたん島はどーこ兵く
僕らをのーせて どーこ兵くうぅぅぅぅぅぅぅぅー
丸い地球の水平線にぃぃ なにか柿ーつとまぁているぅ
苦しいこともあるだろさぁ 悲しいこともあるだろさぁ
だけど 僕らはくじけない 泣くはいやだ 笑っちやおぅ
進めぇぇ ひょこりひょうたんじーま
        ひょっこりひょうたんじーま
ひょっこり ひょうたんじぃぃぃぃまぁぁぁぁぁぁぁ
420-1.観念、道教など
観念宇宙
日本には哲学はありません。
共産主義から仏教、資本主義まで


人?


間の精神作用があって、言葉があるから、観念が成立するのでしょう。
日本の かんながらの みち を哲学考察することは為にするになります。日本人は
異文化を 道 に収斂して


しま ♪


います。
フラワーアレンジメントは華道
サートーマスリプトンは茶道
ポプリは香道
「人権は人の道」

道で袖擦れ合うも多少の縁 縁は異なもの味なもな。
道を横文字にしますとカルチャースクールとも言っています。


先生の教え方が未熟だと生徒は逃げていきます♪


しかし、坊主はまる儲け、宗教は仕入れして在庫負担が無いとも言えますから、だから立ち上げやすいですね。
ですから、ポストモダンも市場になりカルトスクールはマルチ屋から原理屋、魑魅魍魎まで百鬼夜行の筋道の見えないクライシスインテリジェンス必携の道暗し暮らしを覚悟しま、、、、むむ、、むずかしい。
覚悟に迷う IMO
「no.415-1観念の迷宮で宙づりになって」に対して
はじめまして。
宮内勝典の『善悪の彼岸へ』をぼくも読んでみて、思うところがありました。
ぼくの場合は、得丸さんとは逆に「失望」は感じなかったです。
たぶん、この本の値打ちは、内容が等身大であることなのだなという感想をもちました。
(つまり、得丸さんの言葉を借りれば“観念に流されないように注意深く書かれている”のだと言い換えてもよいと思います。)
先進国の意味の不在が、意味への渇きが、オウムという怪物を生み出した。これ以上は語れない。次の世界をどう構築すればいいかを語る力量は著者にはない。
どうしていいかわからないまま、私たちは宙づりになっている。
安易な希望など誰にも語れない。語ると嘘になる。回答を求めるの
ではな ♪
く、問いを発することだ。問いが現れれば、意識も対応するだろう。その思いが強ければ、やがて形になるだろう。」
という力ない結論で、正直いってがっかりした。
ぼくは、じつは“がっかり”しなかったのです。
「問いを発する」「安易な希望を語らない」ということは


一見陳腐な物言いに聞こえますが、これは、けっして「力ない結論」でもなく、かなり上質の提言だと、ぼくには思えます。
ぼくは、仕事の都合で、宗教関係のひとたちや、精神世界のひとたちと多くかかわってきました。


そしていつも感じるのは、誰もが“答え”や“生きる指針”や“確かなもの”を欲しがっているということです。
そして、そのような真面目なひとたちほど、安易な新興宗教にだまされやすいということです。そう、インチキな新興宗教ほど、多くの答えや指針を“与えてくれる”ものなのです。


>1 新興宗教のメカニズム
>パッチワークでもなんでもいいから世界の既存の経典のいいとこど
>りをすれば教義は作れる。ちょっとばかしカリスマ性のある教祖が
>もっともらしくその教義を説明し、当ったか外れたかが鮮明でない
>予言をすれば、信者は集まり、新興宗教は興せる。だから教義が正
>しいかとか、予言が当ったかどうかを議論しても始まらない。それ
>らはすべて観念(概念)の世界のことである。
>むしろ観念にとらわれないこと、言葉(概念)に酔わないことが大切
>なのだ。どうすれば観念にとらわれなくなるかを考えてみるべきだ。


そのとおりだと思います。
しかし、観念というものは、とくにノイローゼ集団のようなもの(この場合は宗教団体)をすこしでも見たことのあるひとならば分かることですが、そんなになま易しいものではありません。


“観念にとらわれないで生きていこう”というひとはたくさんいます。しかし、それができているひとに、すくなくともぼくは会ったことはありません。
観念とは、ものすごく恐ろしいものです。
かつて


ヒトラーに力を与えたのは思想ではなく、観念の力です。


そして観念が、あれだけの人々を殺したのだということを思い返していただければ、ぼくの言うことが理解できると思います。


2 現実の重みを感じるために、身体感覚を磨く
現代は、何が現実で、何が仮想現実か、わかりにくい社会。それは身体感覚が鈍ってきたから、頭脳だけでものごとを理解するようになってきたため。


本物(現実、現実存在)と、


偽物(仮想現実)の


見分けがつかない ?


人?


が増えている。身体感覚を磨く必要がある。それには、武道や華道のような手習いごとを行うこともひとつ。また、自己意識の中に深く入り込んで、心のモヤモヤを自分で整理する(自分が何を考えているかを理解する)ことも大切。


そのとおりだと思います。ところが


その身体感覚を磨くべく、日々きびしい修行に明け暮れている修験道の行者や、真冬の雪国で一週間の断食をし、氷を割って水垢離をくりかえしているようなひとたちが、いかに愚かな観念に取り憑かれて、人々を惑わしているかということに、思いを馳せるべきだとおもいます。ぼくらが「身体意識をとりかえすべきだ」と言ったとき、


その言葉が、すでに観念の毒に犯されていることがとても多いということに、ぼくらはもっと自覚するべきだと思います。


論語や孟子を読むと、観念の話は一切出てこない。
いいえ、そうは思いません。観念的な言葉が出てこないというだけのことです。
注意深く読めば、そうではないことに気づくはすです。


精神が脆弱であればあるほど、かんたんに結論を欲しがるものです。


精神の脆弱なひとほど、「じゃあ、どうすればいいんだ?」とたずねるものです。そして、そういうひとほど


観念の罠に陥るものです。


ぼくは、宮内勝典がほんとうに戦っていた相手は、そうした「脆弱な精神そのもの」であるような気がするのです。
「問いを発し続ける」というメッセージは、こうしたことを考えれば考えるほど、とても優れた結論のように、ぼくには思えるのです。
「no.415-1観念の迷宮で宙づりになって」に対して
本当によくわかります。


軍隊のような


教育制度というと共産党の諸君が怒るし、右翼が跋扈するし。


実際、今の親の中にもそのようなものを創り出しているのがかなりいるということです。
定年になって、今、個人商店で手伝いごとをしているのですが、やはりダメなのはダメですね。


大正末生まれが、(私は昭和一桁)、二代目を重役出勤たなんて
11時頃こさせるようではダメ!
私は外資系が長いので、彼らは上に立つほど朝早く来て遅く帰りますよ。
オームもやはりそのような戒律があるから魅力があるのではにの


でし


ょうか?学校の先生だっておかしいいし、皆おかしいですよ。
67歳になっても私はもし、若年層老人のための、予備国防軍でもあったら生きがいをそこで、みつけたいですね。
そこで、若者と、幼稚園児などと一緒になって話し合うような場所があったらなと思いますね。


ゲートボール派も賛同すると思いますよ。



駅前か駅徒歩1分以内のガード下にそのような施設でも作ればよいのにと思いますよ。 野戦のような建物で宿泊できて自治を守るような場所でね。


宗教は否定しません、当然イズムの後にきているレリジョン闘争の時代なんですから。
すみません、酔いまして。
Tomy
●得丸(145) 題名:NO.415-2日本における道教の影響
Fさん、


>道教は、気の文化であり、感じるを大事にする。儒教は論理を大事
>にする。気功は道教、論語は儒教である。この2つが日本では融合
>している。両文化が、交じり合っている。


僕はまだ道教のことを勉強していないので♪


たいしたことは言えませんが、いいとこどりの得意な日本人ですから、儒教と道教のいいところをそれぞれうまく撮り入れているのかもしれないですね。


たとえば昔の都市計画や方位、(たとえば


紀貫之が土佐日記の中で「かたたがえ(方違え)」をしたのも、道教の影響でしょうね。
道教は、大地や宇宙のエネルギーや気の流れ、それらの時間的な変化を教えてくれたのではないでしょうか。儒教にはそのような考えはほとんど含まれていません。
>日本では、すべてに「道」と付ける。華道、茶道、武道、柔道や
>サラリーマン道など。日本人は道が好きなのです。気を使うことが
>好きであるから、このように道が付くのであろう。道を極める、道を志す、求道すなわち道なり、、、道という言葉にはそこを歩き出して


まっすぐまっすぐ♪♪♪


その道を歩きつづけていれば、いつかある次元にたどり着くという原理、安心感があります。
>もう1つの道教の特徴が、雑然としたエネルギーを大切にする。
>矛盾も認める力が道教にはあり、混沌とした状態は力がある状態
>と見なしている。
>この混沌とした状態が日本に今、必要なのでしょう。
混沌が力を持つためには、私利私欲でお金や利権をあさっていては


だめでし♪


ょうね。日本の、世界の未来のために、誠心誠意で考え、
語り合い、行動してこそ混沌は力をもつのでしょう。
今の日本は混沌としているのかもしれませんが、単なるドタバタした混乱かもしれません。
自分の心のターゲットを、日本人の幸福なり世界人類の幸福なり、はっきりと定めて、その上で融通無碍に発想し行動することが大切だと思います。
(Fのコメント)
さすが、得丸さん。


その通りですね。日本人が私利私欲の塊になってしまったような気がしますね。これをどうにかしないと


ダメでし♪♪♪


ょうね。
●得丸(135) 題名:心を清くする神道、心を形づくる儒教
心の話題からちょっと発展してみます。相変わらず思いつきですが。キリスト教では、人間は弱いものと教えられるのではなかった


でし


ょうか
孟子は、人間にはみんな生まれながらにして良心が備わっているから、それを伸ばすことが大切だ、それを伸ばすところに人間と獣の違いがあるが気づいて実践している人は少ない、と言います。
「論語」や「孟子」の思想は、古いようで、実は他の哲学や思想が扱っていない人間の心の造形というきわめて新しい(というか僕たちが普段あまり気にしないだけのこと)問題に迫ってきます。
孔子は、吾は生まれながらにして之を知るものにあらず、といいます。


礼儀や仁義や徳義は後天的に学習して獲得していくものです。
これに対して、神道は、僕のイメージでは、とにかく自分の心を清らかにすること、真っ白にすることを教えてくれるのではない


でし♪♪♪♪♪♪♪


ょうか。神道


の♪♪♪


教義は知りませんが♪


シンプルな建物の中にいる神様の前で頭をさげることは、自分の中に信仰心をはくくむことです。
シンプルなご神体への信仰心をもつことが、心を清くする。なんとなくそんな感じがします。
儒教は教育的であり、神道は直感的といえばいいでしょうか。
どっちも大切ですが、すーっと神道の世界に入っていけるといいな、と思います。


ひょっこりひょたんIT島
なーみを、チャプチャプチャプチャプとかきわけてー
くーもを、スイスイスイスイスイ追いかけてー


ひょうたん島はどーこ 兵 く
僕らをのーせて どーこ 兵 くうぅぅぅぅぅぅぅぅー


HSIUT D派 複伏福歓拝

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