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http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4.htm
● 日本人は法に疎い?(1)--98.11.01--●
様HPより一部抜粋
… 中略 …
日本人とユダヤ人だけが,神からのぞみの土地をたまわった。日本人は「神勅」によって,ユダヤ人は,神と太祖アブラハムとの「契約」によってである。根本的な違いは,日本人が無条件に与えられたのに対して,ユダヤ人の場合は「法(神の命令,神との契約)を守る」という条件を満たす限り約束の地カナンを享有することができる。
しかもこの条件を満たさなければジェノサイドである。
神が何度奇蹟によって危機からイスラエルの民を救っても,彼らは神を信じようとせず,法を破り,神の命令に背く。これが旧約聖書の主テーマである。イスラエルの民は,本来ならジェノサイドされるところを,不思議に生命を長らえて流浪の民となり,
約束の地に住んだり出ていったりを繰り返してきた。
一方の日本人は,約束の地葦原の瑞穂の国に,天壌とともに窮無く住着いたきり一度も出ていくことはない。
なぜ日本人とユダヤにこのような違いがあるのか?
それは,
ユダヤ教の論理が因果律であるのに対し,
神勅の論理は予定説であるからだ。
つまり,
ユダヤ人は条件付きだったが,日本人は無条件だった。
この違いこそが決定的である。
その他の決定的な違いの一つが,戒律の有無である。
仏教でいう「戒律」とは,「戒」がさとりを得るための修業ルール,「律」が出家集団の僧伽の中の人間関係を律するルールであるが,ここでは該当宗教固有のルールという意味において用いる(こう定義すると,仏教以外の宗教に関しても「戒律」を論ずることができる)。
戒律と法律
(すすんでは社会規範)
との関係となると,宗教によって異なる。
ユダヤ教とイスラム教では,
宗教の戒律=世俗の法(法律)であり,社会規範も同一である。
仏教においては,仏教の戒律と世俗の法律とは全然違う。出家集団たる僧伽の中には世俗の法律は侵入してこない
(ことになっている)。
僧伽には,独自のルールが支配している。
キリスト教には,戒律も法(律)もない。
あれをせよ,これをするなとは,福音書には一言も書いていない
(人間の内面における心の問題は書かれていても,外面的な行動に関するルールはなく,法源にはなりえない)。
すべての人間は法律を守らない ???????
これがパウロの命題であり,キリスト教の根本ドグマである。旧約から新約へ契約を更新したが,新契約の内容はゼロなのである。では,救済してもらえないのか,というとそんなことはない。
キリスト教は,旧約聖書も聖書として受け継いだ。それによって法律の部分を補ってるのだ,かといってユダヤの法律をそのまま採用しているのではない。
ユダヤの法律が,人間の外面的行動の規範であったのに,
キリスト教に引き継がれると人間の内面的行動,すなわち心情規範に大転換されてしまった(この大転換によってキリスト教は世界宗教足りえたのだが)。
ユダヤ教やイスラム教に於いて
「正しい」とは,「法律を守ること」。
「正しくない」とは,「法律を守らないこと」。
「正しい」とは法律との関係によって決められていた。
…のにだ。
キリスト教になると,法律とは無関係に「正しい」ことが決められるようになった。
つまり,「正しい」とは,神が正しいとすること,神と人間とが正しい関係を結ぶこと
であり,神と法律は切り離された。
では神が与えたもうた
法律を飛び越えて,
直接神と正しい関係を結ぶ方法,神によって正しいと認められる方法
は何か ?
それは
イエス・キリストを信ずることによって,である。こうなると,
「正しくない人も,イエス・キリストを信ずれば正しい人になれる」ということになり,
外面的行動の正しさと内面的な行動の正しさは
無関係 ???
とい ♪♪♪♪♪♪♪
うことになる。キリスト教会は,ローマ法を手本に教会内部を律する教会法を作った。中世西ヨーロッパ社会では,聖なるカトリック教会と
外なる俗社会
(俗社会の法は
ゲルマン人の習慣に基づくゲルマン法)に二分されていたが,どちらも本質的にはキリスト教法ではない。ユダヤ教やイスラム教とは異なり,
キリスト教では,宗
教の教えと法律,社会規範とは,それぞれ違っている ???
しかも,カトリック教会を始め,キリスト教諸派は,本来のキリスト
教にはあり得ない ?
法や戒律を発明した(キリスト教における戒律は,
元来,本質的にイエス・キリストとは関係がない ???
の ♪♪♪♪♪♪♪
である)。こんなことは日本人にとっては,
むしろ当たり前 ???
のことかもしれないが,
世界の宗教からすると,奇異なことである。
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4-2.htm
●日本人は法に疎い?(2)--98.11.01--●
様HPより一部抜粋
仏教の戒律は釈迦が定めたものである(少なくともそう看做されている)。
仏教の論理は因果律である。
そのために,さとりをひらくためには,
それだけの原因を作らなければならない。
そのためのルールが戒律である。
仏教徒は僧(出家者)と俗人(在家者)とに分けられる(イスラム教に僧はいないし,キリスト教にはあってもなくてもよい)。
僧(男:比丘,女:比丘尼)は世俗から離れた宗教集団僧伽を結んで,
その中で修業をするが,僧は具足戒(比丘:250,比丘尼:348--数には諸説ある)を受ける(受具,受戒)ことによって僧の資格を得る。受戒には特定された手続きが必要で,3人の師と,他7人の証人が必要とされる(三師七証,勿論この10人にも
それぞれ資格が要求される)。
僧は具足戒を守る前に,具足戒や他の戒律について詳細に研究しなければならない。戒律について詳細に述べている教典を律蔵といい,経蔵(お経を集めたもの),論蔵(主な学者の論文を集めたもの)とともに三蔵と言われる。これからもわかるように,戒律は仏教の本質である。
キリスト教の戒が,修道院の戒(キリストの教えとは関係なく,修道院が勝手に決めたルール)であって,キリスト教の本質とは関係がないのとは
大違いであり,インドや中国だけではない,新羅・高麗・朝鮮,シルクロード諸国,スリランカ,東南アジアの国々は皆戒律を重んじた。
そんな中で,唯一の例外…
それが日本である。
伝教大師最澄が戒律を廃止して,日本は唯一の例外となった。
最澄は比丘の守るべき戒は250も必要でないとし,重い戒律10と軽い戒律48の合計58でよいとした。これは梵網経に根拠をおくものであり,菩薩戒という。勿論,菩薩戒自体は,日本以外の国でも行われていたが,菩薩としての心構えというべきものであり,具足戒に替わりうるものではない。
それなのに最澄は,具足戒を菩薩戒の十重戒と四十八軽戒に替え,さらに受戒の儀式を徹底的に簡素化した。すなわち,具足戒の三師七証を,釈迦・文殊・弥勒の一仏二菩薩の三師証とした。人間では,一人の伝戒師で十分,また一人の伝戒師も得られない場合には,仏像の前で自誓受戒OK!ということにした。このことは,非常に重大な意味をもつ。受戒は外面的儀式によらず内面的信仰による,ということになり,仏教の原点は,外面的行為から人間の内面的な信仰へと引き込まれていった。日本仏教(すすんでは,
それを中核とする日本教)は「キリスト教化」へ向けて,決定的な一歩を踏み出したのである。
この最澄が定めた戒を円戒,円頓戒,または大乗戒という。具足戒が主として人間の外部的行為に関するルールであるのに対し,円戒は内面的な心に関するものである。円戒または大乗戒の第一を摂律儀戒,第二を摂善法戒,第三を摂衆生戒というが,第二摂善法戒,第三摂衆生戒は殆ど戒の性質を具備していない(宇井伯寿『仏教汎論』岩波書店,p1127-1128)。第一摂律儀戒の主たる内容は十重戒であるが,これも,すべて「心性に約するもの」(宇井)である。つまり天台円戒の本質は精神的なものであり,戒律としての性質は備えていない。もっと重大なことは,円戒を破ったときの制裁が頗る甘く,重罪を犯しても懺悔し再度受戒するれば比丘に復帰することができるのだ。制裁こそ戒の要であるのに,だ。具足戒の場合ならば,比丘が四波羅夷罪〔最も重い罪)を犯せば,僧伽から追放になり,何をしても復帰は不可能,再度具足戒を受けることもかなわない。伝教大師最澄が日本仏教から戒律を追放し,最澄の力と朝廷の支持によって比叡山延暦寺は,日本仏教全体のウルトラ総本山となるに至った。だから,以後天台宗および天台宗から出てきた諸宗,並びに他の諸宗
まで,実質的にほどんど戒律を廃止するようになった(他の仏教地域からみたら異常事態である)。日本仏教は無戒律化はどんどん進んでいき,日蓮に至っては最澄が残したほんの少しの戒律も実質的になくし,法然も戒律を全廃した。日蓮教徒たるべき関門は受戒ではなく法華経の題目を唱えて一種の法悦の境地に入ることであり,法然のいう救済とは,浄土往生であり,そのための手段は専修念仏である(法然はすすんで菩提心を起こすことさえ必要ないとまで言い切った)。戒律に最後の止めを刺したのが親鸞であり,非僧非俗を宣言し肉食妻帯までしてしまった。
これではまるで,コーランもスンナ(マホメットの言行など)を捨ててしまったイスラム教みたいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC
スーフィー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
… 中略 …
スーフィー(Sufi)は、おおまかにはイスラームの範疇に含まれ、イスラム神秘主義と解釈されることが多く、スーフィズムとも呼ばれる。おおむねスーフィーの諸派は、イスラームの教えの真理を
その本質において認めるが、
国家または社会が容認するイスラム教の権威を必ずしも認めず、直接的な体験によってみずから知ることを求める傾向が強い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5
ダルヴィーシュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
… 中略 …
[編集] スーフィーの修道僧として
スーフィーは
イスラム教の一派としては
説明し切れない特異な宗派である。
スーフィズムは経験と内面を重視し、言葉による教義、ウラマーなど
の ♪♪♪
世俗的権威を認めない。
スーフィーは
肉体を酷使することで神を感得するという教義を持ち、白いロングスカート状の衣装でくるくる回転するセマー(旋舞)を行う。
セマーは数時間にも及ぶことがある ♪
(スーフィーは日本人にとってはしばしば、このセマーの踊り手として知られる。)スーフィーはイスラムで禁止されている歌舞、音楽などを信仰に持込んだとしてトルコ共和国などでは
禁教とされ、
取締りの対象となっている。セマーは、現在では観光客相手のショーとしてのみ行われている。
ダルヴィーシュはこのスーフィズムの修道僧、または托鉢僧のことである。もともとは「持たざる者」「貧しき者」の意味。粗衣に身を包みズィクル(連唱-日本仏教の称名念仏や唱題に相当する)に没頭し、ひたすら神を心に念じ続ける。一方でしばしば托鉢用の鉄なべをぶら下げ、大斧を担いで遍歴の旅に出る、というイメージで語られる。素性を隠して旅を重ね、時には禁を破ることもいとわないが、不正に対してはクルアーンと神の名にかけて勇敢に戦うヒーロー、などとされる[要出典]。『ダルウィーシュの冒険』といったタイトルで子供向けの絵本やアニメになっている。
… 中略 …
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HSIUT z派 複伏福歓拝
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http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4.htm
● 日本人は法に疎い?(1)--98.11.01--●
様HPより一部抜粋
… 中略 …
日本人とユダヤ人だけが,神からのぞみの土地をたまわった。日本人は「神勅」によって,ユダヤ人は,神と太祖アブラハムとの「契約」によってである。根本的な違いは,日本人が無条件に与えられたのに対して,ユダヤ人の場合は「法(神の命令,神との契約)を守る」という条件を満たす限り約束の地カナンを享有することができる。
しかもこの条件を満たさなければジェノサイドである。
神が何度奇蹟によって危機からイスラエルの民を救っても,彼らは神を信じようとせず,法を破り,神の命令に背く。これが旧約聖書の主テーマである。イスラエルの民は,本来ならジェノサイドされるところを,不思議に生命を長らえて流浪の民となり,
約束の地に住んだり出ていったりを繰り返してきた。
一方の日本人は,約束の地葦原の瑞穂の国に,天壌とともに窮無く住着いたきり一度も出ていくことはない。
なぜ日本人とユダヤにこのような違いがあるのか?
それは,
ユダヤ教の論理が因果律であるのに対し,
神勅の論理は予定説であるからだ。
つまり,
ユダヤ人は条件付きだったが,日本人は無条件だった。
この違いこそが決定的である。
その他の決定的な違いの一つが,戒律の有無である。
仏教でいう「戒律」とは,「戒」がさとりを得るための修業ルール,「律」が出家集団の僧伽の中の人間関係を律するルールであるが,ここでは該当宗教固有のルールという意味において用いる(こう定義すると,仏教以外の宗教に関しても「戒律」を論ずることができる)。
戒律と法律
(すすんでは社会規範)
との関係となると,宗教によって異なる。
ユダヤ教とイスラム教では,
宗教の戒律=世俗の法(法律)であり,社会規範も同一である。
仏教においては,仏教の戒律と世俗の法律とは全然違う。出家集団たる僧伽の中には世俗の法律は侵入してこない
(ことになっている)。
僧伽には,独自のルールが支配している。
キリスト教には,戒律も法(律)もない。
あれをせよ,これをするなとは,福音書には一言も書いていない
(人間の内面における心の問題は書かれていても,外面的な行動に関するルールはなく,法源にはなりえない)。
すべての人間は法律を守らない ???????
これがパウロの命題であり,キリスト教の根本ドグマである。旧約から新約へ契約を更新したが,新契約の内容はゼロなのである。では,救済してもらえないのか,というとそんなことはない。
キリスト教は,旧約聖書も聖書として受け継いだ。それによって法律の部分を補ってるのだ,かといってユダヤの法律をそのまま採用しているのではない。
ユダヤの法律が,人間の外面的行動の規範であったのに,
キリスト教に引き継がれると人間の内面的行動,すなわち心情規範に大転換されてしまった(この大転換によってキリスト教は世界宗教足りえたのだが)。
ユダヤ教やイスラム教に於いて
「正しい」とは,「法律を守ること」。
「正しくない」とは,「法律を守らないこと」。
「正しい」とは法律との関係によって決められていた。
…のにだ。
キリスト教になると,法律とは無関係に「正しい」ことが決められるようになった。
つまり,「正しい」とは,神が正しいとすること,神と人間とが正しい関係を結ぶこと
であり,神と法律は切り離された。
では神が与えたもうた
法律を飛び越えて,
直接神と正しい関係を結ぶ方法,神によって正しいと認められる方法
は何か ?
それは
イエス・キリストを信ずることによって,である。こうなると,
「正しくない人も,イエス・キリストを信ずれば正しい人になれる」ということになり,
外面的行動の正しさと内面的な行動の正しさは
無関係 ???
とい ♪♪♪♪♪♪♪
うことになる。キリスト教会は,ローマ法を手本に教会内部を律する教会法を作った。中世西ヨーロッパ社会では,聖なるカトリック教会と
外なる俗社会
(俗社会の法は
ゲルマン人の習慣に基づくゲルマン法)に二分されていたが,どちらも本質的にはキリスト教法ではない。ユダヤ教やイスラム教とは異なり,
キリスト教では,宗
教の教えと法律,社会規範とは,それぞれ違っている ???
しかも,カトリック教会を始め,キリスト教諸派は,本来のキリスト
教にはあり得ない ?
法や戒律を発明した(キリスト教における戒律は,
元来,本質的にイエス・キリストとは関係がない ???
の ♪♪♪♪♪♪♪
である)。こんなことは日本人にとっては,
むしろ当たり前 ???
のことかもしれないが,
世界の宗教からすると,奇異なことである。
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro4-2.htm
●日本人は法に疎い?(2)--98.11.01--●
様HPより一部抜粋
仏教の戒律は釈迦が定めたものである(少なくともそう看做されている)。
仏教の論理は因果律である。
そのために,さとりをひらくためには,
それだけの原因を作らなければならない。
そのためのルールが戒律である。
仏教徒は僧(出家者)と俗人(在家者)とに分けられる(イスラム教に僧はいないし,キリスト教にはあってもなくてもよい)。
僧(男:比丘,女:比丘尼)は世俗から離れた宗教集団僧伽を結んで,
その中で修業をするが,僧は具足戒(比丘:250,比丘尼:348--数には諸説ある)を受ける(受具,受戒)ことによって僧の資格を得る。受戒には特定された手続きが必要で,3人の師と,他7人の証人が必要とされる(三師七証,勿論この10人にも
それぞれ資格が要求される)。
僧は具足戒を守る前に,具足戒や他の戒律について詳細に研究しなければならない。戒律について詳細に述べている教典を律蔵といい,経蔵(お経を集めたもの),論蔵(主な学者の論文を集めたもの)とともに三蔵と言われる。これからもわかるように,戒律は仏教の本質である。
キリスト教の戒が,修道院の戒(キリストの教えとは関係なく,修道院が勝手に決めたルール)であって,キリスト教の本質とは関係がないのとは
大違いであり,インドや中国だけではない,新羅・高麗・朝鮮,シルクロード諸国,スリランカ,東南アジアの国々は皆戒律を重んじた。
そんな中で,唯一の例外…
それが日本である。
伝教大師最澄が戒律を廃止して,日本は唯一の例外となった。
最澄は比丘の守るべき戒は250も必要でないとし,重い戒律10と軽い戒律48の合計58でよいとした。これは梵網経に根拠をおくものであり,菩薩戒という。勿論,菩薩戒自体は,日本以外の国でも行われていたが,菩薩としての心構えというべきものであり,具足戒に替わりうるものではない。
それなのに最澄は,具足戒を菩薩戒の十重戒と四十八軽戒に替え,さらに受戒の儀式を徹底的に簡素化した。すなわち,具足戒の三師七証を,釈迦・文殊・弥勒の一仏二菩薩の三師証とした。人間では,一人の伝戒師で十分,また一人の伝戒師も得られない場合には,仏像の前で自誓受戒OK!ということにした。このことは,非常に重大な意味をもつ。受戒は外面的儀式によらず内面的信仰による,ということになり,仏教の原点は,外面的行為から人間の内面的な信仰へと引き込まれていった。日本仏教(すすんでは,
それを中核とする日本教)は「キリスト教化」へ向けて,決定的な一歩を踏み出したのである。
この最澄が定めた戒を円戒,円頓戒,または大乗戒という。具足戒が主として人間の外部的行為に関するルールであるのに対し,円戒は内面的な心に関するものである。円戒または大乗戒の第一を摂律儀戒,第二を摂善法戒,第三を摂衆生戒というが,第二摂善法戒,第三摂衆生戒は殆ど戒の性質を具備していない(宇井伯寿『仏教汎論』岩波書店,p1127-1128)。第一摂律儀戒の主たる内容は十重戒であるが,これも,すべて「心性に約するもの」(宇井)である。つまり天台円戒の本質は精神的なものであり,戒律としての性質は備えていない。もっと重大なことは,円戒を破ったときの制裁が頗る甘く,重罪を犯しても懺悔し再度受戒するれば比丘に復帰することができるのだ。制裁こそ戒の要であるのに,だ。具足戒の場合ならば,比丘が四波羅夷罪〔最も重い罪)を犯せば,僧伽から追放になり,何をしても復帰は不可能,再度具足戒を受けることもかなわない。伝教大師最澄が日本仏教から戒律を追放し,最澄の力と朝廷の支持によって比叡山延暦寺は,日本仏教全体のウルトラ総本山となるに至った。だから,以後天台宗および天台宗から出てきた諸宗,並びに他の諸宗
まで,実質的にほどんど戒律を廃止するようになった(他の仏教地域からみたら異常事態である)。日本仏教は無戒律化はどんどん進んでいき,日蓮に至っては最澄が残したほんの少しの戒律も実質的になくし,法然も戒律を全廃した。日蓮教徒たるべき関門は受戒ではなく法華経の題目を唱えて一種の法悦の境地に入ることであり,法然のいう救済とは,浄土往生であり,そのための手段は専修念仏である(法然はすすんで菩提心を起こすことさえ必要ないとまで言い切った)。戒律に最後の止めを刺したのが親鸞であり,非僧非俗を宣言し肉食妻帯までしてしまった。
これではまるで,コーランもスンナ(マホメットの言行など)を捨ててしまったイスラム教みたいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC
スーフィー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
… 中略 …
スーフィー(Sufi)は、おおまかにはイスラームの範疇に含まれ、イスラム神秘主義と解釈されることが多く、スーフィズムとも呼ばれる。おおむねスーフィーの諸派は、イスラームの教えの真理を
その本質において認めるが、
国家または社会が容認するイスラム教の権威を必ずしも認めず、直接的な体験によってみずから知ることを求める傾向が強い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5
ダルヴィーシュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
… 中略 …
[編集] スーフィーの修道僧として
スーフィーは
イスラム教の一派としては
説明し切れない特異な宗派である。
スーフィズムは経験と内面を重視し、言葉による教義、ウラマーなど
の ♪♪♪
世俗的権威を認めない。
スーフィーは
肉体を酷使することで神を感得するという教義を持ち、白いロングスカート状の衣装でくるくる回転するセマー(旋舞)を行う。
セマーは数時間にも及ぶことがある ♪
(スーフィーは日本人にとってはしばしば、このセマーの踊り手として知られる。)スーフィーはイスラムで禁止されている歌舞、音楽などを信仰に持込んだとしてトルコ共和国などでは
禁教とされ、
取締りの対象となっている。セマーは、現在では観光客相手のショーとしてのみ行われている。
ダルヴィーシュはこのスーフィズムの修道僧、または托鉢僧のことである。もともとは「持たざる者」「貧しき者」の意味。粗衣に身を包みズィクル(連唱-日本仏教の称名念仏や唱題に相当する)に没頭し、ひたすら神を心に念じ続ける。一方でしばしば托鉢用の鉄なべをぶら下げ、大斧を担いで遍歴の旅に出る、というイメージで語られる。素性を隠して旅を重ね、時には禁を破ることもいとわないが、不正に対してはクルアーンと神の名にかけて勇敢に戦うヒーロー、などとされる[要出典]。『ダルウィーシュの冒険』といったタイトルで子供向けの絵本やアニメになっている。
… 中略 …
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