ringoのつぶやき

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スカイマーク破綻(1)100億円の男去る(迫真)

2015年02月10日 07時55分08秒 | 

1月28日、午後7時。航空各社の格納庫が立ち並ぶ東京・羽田空港の整備場エリア。人けもなく、冷たい風が吹き付けるばかりの静寂のなか、スカイマークの本社にだけは明かりがともり続けていた。民事再生法の適用申請を決める臨時取締役会が開かれていた。
 もう持たない。一刻も早く決めなければ――。取締役会は前日までは28日夜ではなく29日早朝に開かれる予定だった。急な変更理由のひとつは、資金繰りが危機的な状況にあったこと。もうひとつは社長(当時)の西久保慎一(59)の心身の疲労が限界に達していたことだった。直前の2つの「破談」が西久保を追い詰めていた。
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 1月13日のこと。スカイマークはエンジンなどの予備部品を全日本空輸グループに売却し10億円強を調達する計画だった。しかし年明けから検討を続けていた全日空の返事は想定外の「ノー」。1月を乗り切るための資金が目の前で消えた。
 さらに19日。西久保が生き残りへの切り札と位置づけていた投資ファンドからの融資話が、発表直前で急きょ取り消しになった。
 土壇場で命綱を断つ2つの破談は生き残りへ執念を燃やしてきた西久保への「最後通告」だった。
 西久保は2003年、経営不振だったスカイマークの筆頭株主になると、大手より割安な料金で事業を拡大、一時は「世界で3本の指に入る収益性」と会長の井手隆司(61)が自賛するほどに経営を立て直した。
 しかし、格安航空会社が台頭すると反転が始まる。搭乗率は低迷し、円安によるドル建ての支払い増も直撃。12年に300億円を超えていた手元資金は14年3月末には70億円にまで急減した。この半年は「航空第三極」の旗を守るための資金繰りとの戦いだった。
 7月にエアバスから巨額の損害賠償を求められてからは、航空会社や投資ファンドから支援の申し出が相次ぎ舞い込む。ただ、多くは最終的に大手の傘下に入るという提案。西久保は返事を保留する形で抵抗を続ける。
 9月末には手元資金が45億円にまで減った。そのころ顧問弁護士からこんな提案を受ける。「会社更生法の準備には1~2カ月かかる。そろそろ着手した方がいい」。その助言も一蹴した。
 11月、社員向けのブログに「私は今、夏休みの最終日にジタバタしながら宿題を仕上げている気分。もっと早く片付けておけば良かったものを」と心境を打ち明けた。「それでもどうやら間に合いそうです」と結んだ。
 余裕の裏には秘策があった。日本航空との共同運航だ。しかし、目算は狂う。国土交通省は全日空を交えない提携は認めないと待ったをかけた。西久保は「民間企業の論理ではありえない」と怒りを爆発させた。
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 年明け。ある噂が駆け巡った。「1月9日破綻説」。スカイマークは毎月10日が給料日。その約7億円の支払いメドが立たず倒産するという噂はおおむね正確だった。
 その窮地を救ったのは西久保だ。1月30日の返済期限付きでスカイマークに7億円を融資したのだ。保有するスカイマーク株の時価は100億円を超えていた。西久保はさらに私財を投じ、破綻回避に賭けた。
 しかし、危機は続く。15日、20日、23日――まとまった支払いのたびに破綻説は流れ、その都度、なんとか最悪の事態を先延ばしし続けた。空港使用料の延滞、燃油費の分割払い……だが、万策尽きた。関係者によると27日時点の手元資金は6千万円にまで減っていた。
 「クーデターを起こして西久保を外したほうがいい」。年明け前後から経営陣は複数からこんな助言を受けた。何度も経営危機をともに乗り越えてきた経営陣はそれでも西久保の決断を待った。
 そして28日。「責任をとります」。西久保は退任を申し出た。直後に開いた臨時取締役会は民事再生法の適用申請の議案をものの10分ほどで可決した。西久保への最後通告となった2つの破談を受け、井手らが弁護士とわずか一週間の急ピッチで手はずを整えていた。
 プレッシャーから解放されたためか、西久保の表情はさっぱりとしたものだった。社員からは花束を渡され、記念写真にも納まった。最後の社内ブログにはこう記してあった。「Thank you and Good bye!」(敬称略)

 国内航空3位のスカイマークが民事再生法による再生手続きを開始した。経営破綻の舞台裏を追う。



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