おでかけのーと

城跡めぐり、ガーデニング、編物。

黒田氏

2015-12-17 | 日記
佐々木源氏の末流・源宗清から始まる黒田家は、鎌倉・室町時代を通じて近江黒田村でブイブイいわしてた。
6代目・高政が1511年(永正8)、細川高国&将軍・足利義稙 vs 細川澄元&三好之長 in 船岡山に参陣。
軍紀違反して将軍に怒られ、佐々木盛綱が源頼朝から恩賞にもらった備前へ縁故を頼って流寓。
コチラで生涯を終えた。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20131028 黒田城
赤松一族説もありーの。
 
2男・重隆が家督を継ぐ。
赤松支配地は片っ端から守護代・浦上村宗に攻められ、1525年(大永5)、播磨に移る。
龍野赤松家に仕えるも、すぐに見切りをつけ姫路へ。
日岡神社の神主だった竹森氏の計らいで、広峯神社の神官・井口太夫と知り合い信仰組織を勢力拡大に活用。
1530年(享禄3)、小寺則職に仕えた説がある。
この年、則職の父が庄山城で浦上村宗に討たれた。(細川家内乱③)
 
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130724 枝吉城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130129 神吉城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20140105 国府山城
1545年(天文10)、職隆が筆頭家老・八代道慶に代わって支城の姫路城を預かる。
小寺の勢力は一層拡大し、好ましく思わない三木別所氏&龍野赤松氏は同盟を結んで何度も姫路へ攻め込む。
1548年(天文17)5/24、別所就治が庄山城を占拠。
砥堀で合戦となり、別所派の妻鹿射場父子は討たれ、官兵衛オバアチャンの実家は滅んだ。
1558年(永禄1)8/7、赤松義祐は義父・小寺則職と組んで、父・赤松晴政を置塩城から追放。
南条砦で抗戦したけど敗れた晴政は、娘婿・赤松政秀を頼って龍野城へ。
 
1562年(永禄2)、官兵衛は小寺政職の近習に。
1564年(永禄7)、浦上政宗は勢力を盛り返すため、黒田家と姻戚関係を結んだけど。
婚礼当日、赤松政秀に室津城・を攻められ討死。
同時に栄城も攻められ、井口氏も滅ぼされた。
1567年(永禄10)頃、家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光を正室に迎え、姫路城代となる。
1575年(天正3)、反織田をやめ、岐阜城で信長に謁見。

荒木村重謀反の噂に説得に向かった官兵衛は、有岡城に幽閉される。
信長は人質にとってた子・長政をぶっ殺せと命じ、機転を利かせた竹中半兵衛が死んだことにして居城に匿う。
官兵衛が獄中にいた6月、半兵衛は平井山の陣営で亡くなった。
長政は関ケ原の合戦で西軍側だった竹中息子を東軍に誘い、一緒に戦った。