おでかけのーと

城跡めぐり、ガーデニング、編物。

三木合戦

2015-12-16 | 別所一族の興亡

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1568年(永禄11)冬、将軍と上洛した織田信長に三木城・別所安治&龍野城・赤松政秀は謁見、軍へ加わる。
小寺氏は、参じようと進言した家臣・山脇氏を攻め討つ。
1569年(永禄12)、播磨守護・赤松義祐と、分家の赤松政秀が対立し合戦に。
5月、別所安治が庄山城を占拠して、御着城を包囲。
8/12、随願寺&有明山城が落とされ。
小寺派の高砂城・梶原氏、北脇城・大塩氏、室津城・浦上勢も落とされた。
11月、赤松政秀が青山に出陣。
したけど、備前天神山城・浦上宗景が龍野城を攻撃したため降伏。
1573年(元亀4)、別所長治が印南野城攻めへ。
魚住城・魚住頼治が小寺氏を裏切って別所方についたけど、枝吉城・明石氏、志方城・櫛橋氏、神吉城・神吉氏らはどっちつかず。
1574年(天正2)5/5、別所長治が置塩城攻めへ。
別所方先鋒の恒屋氏が討ち取られた。
1575年(天正3)10月、信長は荒木村重を播磨へ侵攻させる。
若桜鬼ヶ城を囲んでた毛利氏は急遽帰宅。
小寺氏も反織田をやめ、岐阜城で信長に謁見。

1577年(天正5)2月、信長は大坂本願寺の軍事組織の中心である紀州雑賀を攻撃。
東播磨の国人も従軍。
その隙に毛利氏は宇喜多直家に龍野城を攻めさせ、赤松広英はアッサリ降伏して退去。
続けて5/14、毛利水軍が播磨門徒の拠点・英賀城から姫路を狙うも、黒田官兵衛が撃退。
10月、西国攻めの総大将に任じられた秀吉は播州入りし、官兵衛に提供された姫路城に入る。
11月、羽柴秀長を但馬に向かわせ、生野銀山を掌握し、太田垣氏八木氏朝倉氏など降伏させて朝来&養父を18日で平定。
11/27~12/3、宇喜多直家に属す赤松政範の佐用城&上月城を攻め落とし、龍野も取り返して、途中経過を信長に報告しに戻る。

http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20180612 松原城
1578年(天正6)、秀吉は正月を長浜で過ごして、毛利攻めのため再び播州入り。
加古川城に入り軍議を開いたけど、別所吉親と仲間割れ。
播磨の大半も離れた。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130202 君ヶ峰城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20101206 三木山森林公園、二位谷奥付城、小林八幡神社付城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20150507 明石道峯構付城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20090718 ホースランドパーク
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20150506 鳥町河原ノ付城、宿原城、和田村四合谷村ノ口付城、慈眼寺山裏山砦
3月、8500余騎が籠城する三木城を大軍で取り囲んだけど、別所方の援軍に夜襲され大敗。
三木城周辺をたくさんの付城で囲い、先に別所派諸城を落とすため、書写山に白山城を作って本陣を移した。
4/1、別所長治は織田方の細川館・冷泉為純を襲撃して自害に追い込む。
4/3~6、野口城を攻略。
毛利&雑賀の水軍が別府城・別所重棟へ攻め来たのは、黒田官兵衛の戦略で撃退。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20140420 播磨国分寺
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20140511 鶏足寺
どんどんいきたいところなのに毛利軍5万が上月城を包囲。
救援に向かうが膠着状態が続き、そっちはもおええと信長の一言で見捨てる。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130306 織田軍陣所
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20131123 中道子山城
総大将・織田信忠のゴージャス援軍で別所派諸城を攻略再開。
秀吉は但馬へ。
6/27~7/20、神吉城
8/10、志方城
8/13、端谷城
援軍が引き上げ秀吉が担当に戻る。
平井山に本陣を構え、全軍をあげて三木城への兵糧補給ルートを遮断する。
10/18、毛利方からの支援物資を三木城に運んでた高砂城・梶原景行を攻略。
10月、織田軍の有岡城・荒木村重が離反。
御着城・小寺氏も離反。
黒田官兵衛は荒木氏説得に出かけて幽閉されてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20120525 小浜城
信長が出馬して高槻城・高山右近&茨木城・中川瀬兵衛を調略。
残った支城の城下や村々を焼きまくり、その凄惨さに村重は手の出しようもなく篭城。
丹波の八上城も、大坂の本願寺も、三木城も、織田軍は包囲だけして決戦はせず干しあがってくのを待つ。
1579年(天正7)2/6、状況に耐えかねた別所氏は平井山本陣へ攻め込むも敗退。
5月、村重の支城・花隈城に海岸から兵糧を陸揚げ→丹生山→淡河城→三木城へ補給してたルート発覚。
弟・秀長が丹生山の砦を夜襲し、明要寺を焼き払って占拠。
淡河城も攻め、めためたやられたけど攻略。
6月、明智光秀に八上城が落とされ、丹波は信長のものに。
魚住城からの補給ルートを知った秀吉は、付城を置きまくって防備を徹底。
9/10、毛利&別所ダブル出兵し兵糧を三木城に運び入れる作戦を決行。
毛利勢は平田陣地に襲い掛かり、三木城からも別所吉親が3000余騎で出陣。
先に食糧を運び込んどきゃよかったものを、お腹ペコペコの別所方は次々と討ち取られ、食糧も奪われた。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20140119 池田城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20161009 七松城、常光寺城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130413 樋山陣所
毛利軍だった宇喜多直家が離反し、毛利本国⇔播磨&摂津の間が分断された。
しつこく催促されても援軍に行けない状況に。
9月、村重は身ひとつで大物城へ夜逃げ。
11月、有岡城は落城した。

http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20110417 法界寺
三木城内は食料が底をつき、毛利の支援も期待できず、数千人が餓死。
1580年(天正8)1月、秀吉は宮の上砦を攻め取って陣所にし、長治の弟・友之が守る鷹の尾城、叔父・吉親が守る新城も落とした。
すべての支城を失った別所長治は、城主一族が切腹することで城兵の命を助けてもらう約束で降伏。

三木城が落城しても、石山本願寺も毛利氏も健在だから、播磨争乱は終わらず。
生石神社や加茂神社は所領を没収されても秀吉に従わなかった。
弟・秀長に命じて生石神社を丸焦げに。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20141214 山崎城、法輪寺
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130211 町坪構居、城田付城構居
4/1~24、英賀城攻めへ。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20141231 松山城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20131105 香山城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20150503 聖山城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20111008 篠ノ丸城
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130429 柏原城
5月、長水城も落として、播磨平定完了。