★姫路藩御船役所(←Pリバーシティ) MAP
初代姫路藩主・池田輝政は、城下南端と飾磨津を運河で結ぼうと開削工事を試みた。
運河は途中で断念したけど、出た土砂を埋め立てに使って中州を造り、姫路藩御船役所を置いて水軍を配した。
ブラタモリが来たみたい。
★東堀水門
少し南へ行くと宮堀川へ続く分岐がある。
センサーで水位を監視。
頭についてる棒は避雷針。
宮公園一帯は船着場だったらしい。
流れは船場川へ合流する。
★飾磨御蔵 MAP・MAP
姫路藩領内6ヵ所にあった米蔵の1つ飾磨御蔵があり。
御蔵跡に飾磨市役所が置かれた。
姫路藩御茶屋もあった。
★姫路藩裏手番所・飾磨津川口御番所 MAP
燈籠台管理、船舶検問、飾磨米蔵、御茶屋の警備など担当。
北前船の寄港地だったよう。
★魚屋堀跡 MAP
1667年(寛文7)の史料に「飾磨津は古来より御船手役を勤めてきており、海手の漁業を生業とし、その数は500人余に及ぶ。嶋屋・魚屋・菊屋・亀屋に魚問屋株を保証し、営業を独占させてその生業を守る」とある。
岡上家が営んだ魚屋の門前には魚屋堀が開かれ、周囲に建ち並んだ蔵に船で品が運ばれてた。
幕末1863年(文久3)、元福岡藩士・平野国臣、長州の騎兵隊ら尊王攘夷派の志士たちが上陸。
大和国で決起した天誅組に呼応し、生野代官所を襲うべく飾磨街道を北上した。