おでかけのーと

城跡めぐり、ガーデニング、編物。

熊沢蕃山(岡山・備前市)

2022-03-15 | 岡山藩郡代津田永忠

★熊沢蕃山宅(Pあり) MAP
集落の入口に看板があるので、正楽寺めざして向かう。
奈良中期の天平勝宝年間(749~56)に創立され、一旦衰退。
鎌倉末期1304年(嘉元2)に大和般若寺の僧・信賢が再興し、こちらに堂宇を整備した。
江戸初期1615年(元和1)火災で丸焦げに。
 
江戸中期~後期にかけて岡山藩主の庇護で再び整備された。
山門は1817年(文化14)に赤穂坂越の棟梁・野村信慶が建てた棟札があるとか。


1634年(寛永11)、宮津藩・京極高広(正室は池田輝政の娘)の紹介で岡山藩・池田光政の児小姓役として仕える。
1637年(寛永14)島原の乱に行きたい言ったけどOKが出ず、辞職。
しばらく近江のおばあちゃんちに身を寄せ、1641年(寛永18)9月から半年ほど中江藤樹に師事し経世済民・治国安民の学問を学ぶ。
1645年(正保2)京極氏の口添えで帰参。
1647年(正保4)、光政に学問があるのを見込まれ300石に昇進。
1650年(慶安3)、鉄砲組頭3千石に起用され、藩政の中枢に入る。
承応・明暦の改革を、光政の腹心となって支えたけど。
仕置家老の池田由成、池田長明、日置忠治との権力闘争に敗れ。
1657年(明暦3)、岡山城下を離れて知行地に隠棲を余儀なくされた。
その際、若原氏の養子になってた光政の3男を養子に迎え、藩政に発言力を保ったけど。
1661年(寛文1)、養子との仲が悪くなり、岡山藩を去った。
 
新古今和歌集からとって地名を蕃山(しげやま)とした。
「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財として日本遺産に認定されてるらしい。

新幹線が次から次と通過していく高架をくぐる。
 
閑谷学校再開のため招かれた山田方谷は、明治6年から春秋の2回、1~2か月滞在して教えてた。
門弟が熊沢蕃山宅跡に遊息の場として草庵を築き、方谷と共に生徒も20人ほど寄宿してたとか。


池田氏

2015-11-19 | 岡山藩郡代津田永忠

MAP
池田恒興は母・養徳院が織田信長の乳母となった縁で織田信秀に仕え、信長にも仕えた。
1560年(永禄3)桶狭間の合戦後、組士30人を預かる侍大将に取り立てられ。
1570年(元亀1)朝倉・浅井攻めの後、尾張犬山城と1万貫の知行地を与えられ。
1580年(天正8)荒木村重の花隈城を攻め滅ぼし、摂津内で10万石して、恒興は大坂城、嫡子・之助は伊丹城、次男・輝政は尼崎城を守った。
1582年(天正10)本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、美濃13万石を領し、恒興は大垣城、之助は岐阜城、輝政は池尻城を守る。
1585年(天正13)小牧長久手の戦いで恒興&之助が討死。
輝政が家督を継ぎ、1590年(天正18)秀吉が関東・奥羽を平定すると三河吉田15万2千石を与えられる。


姫路藩
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20130721 池田輝政本陣
1600年(慶長5)関ヶ原の合戦では徳川方につく。
播磨28万石をもらって姫路城に居を構え、三木高砂明石龍野平福赤穂に支城を整備する。
家康の娘・督姫との間に生まれた忠継に備前28万石、忠雄に淡路6万石ももらう。
1613年(慶長18)、輝政死去するとお家騒動に。
門閥家老と近習出頭人の対立は、督姫を味方につけた門閥家老に軍配。
前妻・中川清秀の娘との長男・利隆が跡を継ぐも、赤穂・佐用・宍粟は忠継へ。
1617年(元和3)、利隆の子・光政が跡を継いだけど、幼少のため鳥取藩へ転封に。→本多忠政
新宮陣屋林田陣屋


鳥取藩
1601年(慶長6)関ヶ原の合戦後、輝政の弟・長吉が初代鳥取藩主に。
1617年(元和3)、備中松山藩に転封。
→池田光政は伯耆も領し、米子城に池田由之を入れる。
1632年(寛永9)、岡山藩とチェンジ。
→池田光仲は米子城に荒尾成利を入れた。
倉吉陣屋・八橋陣屋・松崎陣屋・鵜殿大隅陣屋


岡山藩
1603年(慶長8)、家康は5歳の孫・忠継に備前を与える。
1613年(慶長18)、父・輝政の死で赤穂・佐用・宍粟も相続。
1615年(元和1)、忠継の跡を洲本藩主をしてた弟・忠雄が継ぐ。
1632年(寛永9)、忠雄の跡を子・光仲が継ぐも、幼少のため鳥取藩に転封。→池田光政
光政の子・綱政が跡を継ぎ、政言が鴨方藩を、輝録が生坂藩を相続立藩。
周匝陣屋に池田長明を配す。
1648年(慶安1)、光政の弟・恒元が兄から領地をもらって児島藩を立藩。
翌年(慶安2)、陣屋を設置する前に山崎藩に転封となった。
 伊木長門(邑久郡虫明 3万3千石)
 池田之助の子・由之(児島郡天城 3万2千石)
 池田長政の子・長明(赤坂郡周匝 2万2千石)
 日置豊前(津高郡金川 1万5千石)
 池田長吉の子・長貞(津高郡建部 1万4千石)
 土倉市正(磐梨郡佐伯 1万石)


1615年(元和1)の兄の死で、輝澄が山崎藩、政綱が赤穂藩、輝興が佐用藩を相続。
1631年(寛永8)、政綱の跡を輝興が継ぎ、佐用は輝澄に加増。
1640年(寛永17)、家臣の分裂が起こり、輝澄は改易に。→松平康映
鳥取藩・池田光仲に預けられ、鹿野城に蟄居。
1645年(正保2)、輝興は妻子を殺害するなど乱心して赤穂藩を召し上げに。
岡山藩・光政に預けられた。
1662年(寛文2)、輝澄の跡を子・政直が継ぎ。
翌年、堪忍料1万石の所替えをされ、福本藩を立てる。