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知らなかったDVの現実

2009-10-05 20:30:34 | Weblog
先日、あることから現代の日本での家庭内暴力(DV)の実態についてうかがう機会があった。恥ずかしながら全然考えたこともなかったような話だ。知人たちにそれを言うと皆様は私と違って、結構知っておいでで、さまざまな話をうかがった。

面白いといってはまずいかもしれないが、DVがなかなか外部に見えない原因のひとつに心理学的な共依存の問題があるのだそうだ。共依存とはまたなんとも不思議でわかりにくい現象だ。わかるようなわからないような、いったいどうしてそんなことになるのだろう。

子供は、家庭のモデルとして自分の生まれて育った親たちの生き方を見て育つ。そこで、DVの加害者は子供の頃、自分自身がDVの被害者だったことが多いのだという。大人になって、自分が家庭を築いたとき、パートナーに対して、自分がされていたように暴力で対応するらしいのだ。

ああ、しかし、状況は違うが、子供時代の影響というのは実はよくわかる。死んだ父は、実母の末の弟として戸籍に入れられていた。実母、私にはお祖母さんだが、父を実家に残して結婚して別の家庭をもった。残された父の少年時代は寂しさから、大変ないたずらっ子だったと聞いている。戸籍上の母親が実は祖母だから、父は年寄りっ子独特の人の善さを一生もち続け、自分の子にもそれを残した。

一人の人間の背後にはその人のの親、またその親、代々の課題が受け継がれているのだ。しかし、悪い共依存の問題は専門家の介入が必要だろう。当事者間だけではどうにもならないように思える。DVについてはまだほんのいりくちくらいのことしかわからないが、相談を受ける警察とか(3人に1人がDVで命を失っているというショックな話、日本の警察の現状ではわかっていないのだろうなあ、たぶん)さまざまな機関の担当者たちがもっとDVについて深い知識を持つように行政もなんとかしてほしいものだ。

次はお知らせ

聖イグナチオ教会真和会 
  第250回特別記念講演会 日本のこれから

    日時: 10月16日(金) 18:45~20:30
    場所: 主聖堂 (参加費無料)
    講師: 藤原 正彦 氏  理学博士 (数学者・作家)

東京教区主催  こころのセミナー
   こころの病やこころの傷についての理解を深めるために
   第2回 「統合失調症」

    日時: 10月17日(土) 15:00~17:45 (開場午後2時30分)
    場所: ヨセフホール(信徒会館1階) 入場無料
    講師: 井貫 正彦氏(精神科医)

    ◎ 各回セミナーの司牧的な観点からのコメント
第2回 英隆一郎神父 (イエズス会司教)
第3回 小字佐敬二師 (東京カリタスの家)
※ セミナーの開催日は土曜日ですので、午後6時から麹町教会の主日のミサがあります。
10月17日(土) 酒井俊雄神父司式
11月7日(土)  幸田和生司教司式
◎ スケジュール
第3回 「トラウマ」 11月7日(土)

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イエズス会叙階式

2009-09-18 14:50:21 | Weblog
この記事、実はbloggerからのコピペです。

これをここに載せるつもりではなかったのですが、先ほど、こんな記事を読み考え直しました。※URLを丸ごと載せているときはコピーしてアドレスに貼り付け、移動すれば、そのサイトにいきます。この面倒な作業だけはgooブログの惜しいところなのですが、そのかわり、大変に安全です。

http://www.asahi.com/national/update/0918/OSK200909180037.html

こんな時代でもまだちゃんと、超越的な世界と向き合い、世のため人のために一身をささげようという宗教者はおいでだったか。仏教とキリスト教と、考え方は違っても、求めているところは同じところに行き着くように思えます。

であれば、こんな記事も表に出しても悪くはないかもしれません。というわけで、この下は今朝、googleのbloggerの方に書いたものです。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


来週の月曜日、連休のさなかだが、午後から四谷の聖イグナチオ教会で、イエズス会の神学生の司祭叙階式がある。

先日東京教区の召命祈願ミサに行った時、来年は3人の神学生が叙階を受けるものの、新入生がゼロで、残るは3人しかいないと聞いた。本当に司祭になろうという若者が減っているのだ。

しかし、世界的に見ると司祭、修道者の召し出しは決して減っているわけではないのだそうだ。減っているのは豊かな国、機械文明の発達した一見、人間の力で何でもできると思える世界、そんな国々で司祭召命が減っているのだそうだ。考えさせられる話ではないか。

それで思い出した。もうひとつ、最近ずっと気になっているのは、昔は教会の長女とまでいわれるほどのカトリックの国だった筈のフランスを始め、欧米で、真剣に神を求める人がカトリック教会にではなくて、イスラームや仏教(チベット仏教や、禅など)に改宗する例が出てきているというはなしだ。

もちろん、結婚などでの改宗は別としてだ。欧米の真剣に神を求めている人たちが、キリスト教会にではなく、イスラームや仏教に道を求めるというのは何を意味しているのか。おそらく、今のカトリック教会には新しい風が吹かないといけない時なのだろう。別の言葉で言うと、宗教的な無意識を活性化させる力のある新しい「自己」(ユング心理学でいう自己)の象徴が捜し求められているということかもしれない。

現実のカトリック教会(日本も欧米も)の姿を見ると、頭を抱えるばかりだが、ヒントになりそうなのは、先日の高円寺教会での聖ビアンネの記念ミサの後の公開対談で、佐久間神父様のおっしゃっていらっしゃった、司祭も信者もある程度の修行が必要だろうという言葉だ。修行、つまりおっしゃりたいのは、祈りを深める修行(のようなもの)がないと、社会の流れに流されるよ、というようなことではないのだろうか。

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なんということもなく

2009-09-11 19:15:57 | Weblog
9.11という、この世界史にも残りそうな日にも、何心なく、ぼけーっと過ごしていただけですでに夜。

何か面白いことはないかな、とあちこちを見て回っているうちに見つけたのはこれです。

  http://eiga.com/buzz/20090717/16/1/01

上のURLをコピーしてアドレスに貼り付けると、eiga.comもサイトに行きます。ジョニー・デップの、不思議の国のアリス、すごい演技、すごいメーク。来年のお楽しみです。








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パソコンに不法侵入された

2009-09-09 10:39:39 | Weblog
一昨日から今朝まで、何回もリカバリーを繰り返すはめになりました。

ここは一番問題がないのですが、soーnetには異変が起こり、ケータイで確認した時はちゃんと更新出来ていたぶろぐが正常に機能しなくなり、一旦リカバリーして、Googleの助けを借りるために、Bloggerを起動させてから再び、三度と調子が回復するまでリカバリーを繰り返し、今はやっと一段落ついたところです。

書き手は一人しかいないのでそうそう、あっちにもこっちにもは書けませんからこの先は順番にまわって書こうかと思ったりしているところです。

Googleは携帯でホームページを作っていたころからお世話にはなってきていますが、時々、敵か味方かわからないようなことをしてくれて、なんとも困ったものです。

結局、今回も予定もしていなかったBloggerを始めなくてはならないことになってしまったのでした。
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以上2008年1月から2009年7月まで

2009-08-27 22:46:12 | Weblog
ここに入っているものは、今回9月いっぱいで停止することになった、SNS、日経WagaMagaの中の一部です。写真は入っていません。URLももう古くなって元がなくなっているものが多いようです。テキストだけですが、私自身にとって、重要なものだけアーカイブとしてのこすことにいたしました。

これを読んで、どのようにお考えになるかはご自由です。でも、30年以上の年月の中身をご存じない方にとやかくは言われたくない気がいたします。

ではよろしく。
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私には夢がある(もしくはあった?)

2009-08-27 22:39:18 | Weblog
私には夢がある(あった?)

タイトルは、キング牧師の演説の言葉からです。現在形に多少もじってみました。

どうして私のブログはつまらないことにばかりこだわるのか、というはなしです。それは今の私の状況の原因でもあります。

私の父方は鎌倉時代からつづく地元のふるい家だったそうです。地元は下総中山、ご先祖は中山法華経寺の日常上人(富木常忍)の家来だったのだそうです。父は門前の子ですから、子どものころはお弔いごっこにこ.じきごっこで遊んだとよく言っていました。

私の生まれ育ったところは中山から少し奥の若宮というところでしたけれど、法華経寺やそばの墓地は子どものころの遊び場所のひとつでした。法華経寺ともうひとつは家の裏手に下りていく方向で北方というところに住んでいた幼馴染の子の家でした。この子の家の近くにはカトリック市川教会の墓地があったのです。縁起でもないと思われるかもしれませんけれど、そういう環境だったのですから仕方がありません。

父自身も案外に宗教的な人で、実のところ父からの影響が私の土台になっているのです。父は当人の死後にはっきりしたのですが、実は父の実父という人はお寺さんだったのだそうです。薄々はわかっていました。だって、私の父ときたら全然そこいらの普通の人と違うのです。私が風変わりな人間だとしたらそれは父がそうだったのです。

父は若いころ、天理教のかなり熱心な信者だったそうで、母と結婚してから、母方の身内の猛反対で天理教をやめたのだそうです。でも、それでも天理教的な考え方はどうやら一生持ち続けていたようでした。死んでから父の知人は、欲のない人だったといっていたそうです。残された家族にはちょっとそれで困ったことも多いのですが、そういう人では仕方がありません。

その父は、私が子どものころからたびたび、「闇の夜に啼かぬカラスの声聞けば、生まれぬさきの父母ぞこいしき」お前、これがわかるか、と問う人でした。「三界の狂.人は狂せるをしらず」とも、たびたび語る人でした。お正月といえば家族が揃うと「門松や冥土の旅の一里塚」と始める人でした。学歴はないけれど、学はあった人でした。それもそんじょそこいらの人にはないような。

そんな親の子ですからこちらも変わっていたのかもしれません。子どものころから尼さまとかシスターのようなものになりたいと思っていました。終わることのないもの、永遠のものに仕える生活がしたいと思っていました。

それは父の与えてくれたアンデルセンの童話(今でも覚えていますが、父が買ってくれたのは子供向けではなくて新潮文庫のアンデルセン童話集全三冊でした)や、宮沢賢治の童話(こちらはもっとひどくて、旧かなの岩波文庫でした。それでも本好きのこどもだったのでなんとかかんとか読んでいたのです)の影響も大きかったと思います。

宮沢賢治の法華経の思想のことは大人になってから知ったのですが、そんなことはわからなくても、生きとし生けるものの本当の幸せを求めるという考え方に心惹かれ実はいまだにそうなのです。自分だけが幸せならそれでよいとはどうも思えないのです。すべての人の本当の幸せはどこにあるのかと考えてしまいます。

すべての人の本当の幸せ、それは「本当の」と付くのですから、決して無くならない幸せ、終わらない幸せでなければなりません。お金や物で代えられるような幸せは本当の幸せではないはずです。それで若いころ、祈りの道とか観想修道会の生活を考えたのですけどね。

いや、本当の話、自分のためだけに考えていたのだったら今頃こんな状況にはならなかったと思うのです。我ながら、おバ.カというか、なんというか、やっぱりバ.カなんでしょう。宗教家なら誰でもそう思うものと思い込んで、信じ込んでいたのですから。

ま、その辺はやめて、とにかく今の日本の社会に一番必要で一番欠けているのはその辺ではないかという気がするのです。

すべての人の本当の幸せ、それを捜し求めていく人が必要なんでしょう。7月1日の日本の殉教者の列福記念ミサのあと、聖堂に安置されたペトロ岐部の聖遺物を間近に見ながら、なんとなくそんなことを考えていたところに、なさけない中学生のホームレス襲撃事件のニュースを見たもので、ちょっと長々と自分の考えを書いてみました。

おしまい。   
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エンジンがかからない

2009-08-27 22:36:16 | Weblog
だっからもう、先にご飯を食べにいったほうがいいって言ったのにぃー、あら、ごめんなさい。今のはうちのおばはんに言ったのよ。あの人ときたらさ、一辺にいくつものことに手をつけたりして、結局どれも進まないんだから。

ハーイ、すっかりご無沙汰のマリーで~す。

このところ、うちのおばはんはちょっと真面目にお話しを書くんだって、珍しく沢山本を読んだりして勉強してるみたいに見えるわよ。勉強しているんだか、勉強しているふりをしてるんだか怪しいけれど、まあ、毎日、真面目に本や新聞や雑誌を沢山広げてるの。でも、なんだかね、テーマが大きくて全然まとまらないみたいよ。

今回は時間がかかりそうだから、考え考え進められるように手書きで原稿用紙で始めるんだって。

あたしにも話しの進行役、ほら、語り手っていうのかしら、あれをしろっていうの。やれと言われればやってみるしかないけどさ、かんじんのうちのおばはんのほうがなかなか仕事に取り掛からないのよ。

出だしと最後が見えないと書けないんだって。まったくうちのおばはんときたら厄介なのよね。手伝うほうのことも考えて欲しいわ。
それでもってこのところねぇ、材料探しにもなるからって、上野毛カトリック教会だとかカテドラルのある関口教会にもよく出かけてんの。場所が変わると頭が刺激されて、まとまらないものがまとまってきたりするんだって。お話しを作って書いてみるのって結構めんどくさい仕事らしいのよね。仕方ないからあたしもなるべく大人しくして待ってるんだわさ。

精々、ちゃんと時間にはまともにご飯を食べさせるように気をつけてあげてるけどね。でないと、あの人ときたらひとつのことに夢中になると時間なんてわすれちゃうんだもん。

まあ、今週はあと金曜日はいつもの聖書研究会にいくつもりみたいだし、土曜日の午前中は関口教会でしょう、日曜日の7月12日は、上野毛教会の建堂50周年記念の荘厳ミサってのに行きたがってるけど、あの人連日のお出かけだと果たして日曜の朝起きられるかな、難しいところなのよね。

でもさ、とにかくそんなこんなで材料集めにも動きまわってるから、うまく弾みがつけば書ける筈よ。どんな話しを書くつもりかしらないけどさ、あたしに語り手をさせるくらいだから、そんなに堅苦しいものじゃないと思うなぁ。

いつもあの人の日記や書き物を読んでくれてる皆さんたちも、もうちょっと待ってやってね。書けないときは書けないし、書けるときは書くっていうのがうちのおばはんのやり方なのよ。
ほんじゃ、今日のおしゃべりはこのへんでやめとくわよ。じゃ、またね。

削除修正
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今日の日記の内容はただの自分のためのメモですー1

2009-08-27 22:34:11 | Weblog
別に意味ありませんので飛ばして他所をごらんになってくださって結構です。

おっはようさんでーす。マリーで~す。

うちのおばはんは今、燃えるゴミを出しにいったの。前は生ゴミの出る朝はカラスがいっぱい待ってたもんだけど、金網の箱型ゴミ入れが登場してからめっきりカラスは出てこなくなったんですってよ。でも昼間食べ物屋さんの多い賑やかな駅前に行くと、そっちはカラスが多いのよね。それから大きな樹の多いところ。うちのおばはん、前にね子育て中のカラスのいるところに近づき過ぎて大きな親ガラスに追いかけられて後ろから頭を蹴飛ばされたのよね。それ以来カラスには一目置いてるのよ。カラスってあれでなかなか頭がよくて家族思い、仲間思いの鳥なんですって。だけど集団で野良猫だってやっつけちゃうんだから、あたしは苦手だわ。仔猫どころか大人の猫だって襲われてるの見たら、やっぱりちょっと恐いわよ。

あら、戻ってきたわ。今日はあの人、これから掃除洗濯をして出かける予定なのよね。あたしも一緒に行くのよ。あの人のお友だちがコンデジのキャノ子の名前はひどすぎるからもうちょい良い名前を付けてっていってるんだけど、うちのおばはん大雑把な性格だからいい名前が思いつかないしキャノ子はキャノ子だって言ってるあの子も一応一緒よ。

あたしたち、今日は夜に上野毛教会に行くのよ。明日が上野毛教会の保護の聖人のカルメル山の聖母のお祝いの日で、今日の夜は前晩の祈りとミサなんですって。あの人仕事をしている時はくたびれすぎてしまってなかなかこういうものに出かけられなかったの。初めてじゃないかな。

明日の朝も上野毛の10時のミサに行きたいらしいけどたぶん今夜何時に家に帰り着くか次第だと思うな。

でもとにかくあの人、今の上野毛教会なら行こうとおもってるのよ。あの人、霊名はアシジのフランシスコからの、フランシスカ・マリアだけど本当は一番最初に出会った聖人て、カルメル会の幼きイエスの聖テレジアだったのよね。あの人のお父さんが天理教の影響を受けていた人だったんだけど、幼きイエスの聖テレジアの言ってることとすごく似てたらしいのよ。だからあの人、プロテスタントじゃなくてやっぱりカトリックに改宗したのよね。

カルメル会っていろいろな意見があって、異性愛を連想させる神秘主義を嫌がる方も多いんだけど、そんなに複雑な見方をしなくたっていいんじゃないのかな。
神秘主義といったって別に道は一つじゃないみたいよ。前にイエズス会の神父さまが、大雑把にいうと自分の心の深みに入っていって神と、あるいはキリストと出会う道でこれがカルメル会風神秘主義への道、もう一つは自分の周囲の様々なもの、出会う人、出来事、大自然、生き物、芸術、美、なんてものを通して神に、キリストに出会っていく道、こちらはフランシスコ会風祈りの道というわけでこの二つに大別できるって教わったんですってよ。

でも、もっと言えば生きとし生けるものが全て神様の息吹の中で生かされていて、水の中の海綿のように聖霊の力が全てのものを内からも外からも包み込んでいるのだったら、心の奥深くにも、目の前に見ている現実の中にも神様に、キリストに出会う道があるんじゃないの。幼きイエスの聖テレジアと言う方はうちのおばはんにそんなことを教えてくれたみたいなのよ。

だから、あの人出来るだけ行けるときは上野毛に行くつもりなんだわ。まあ、そう悪くないからあたしも文句はいわないわよ。
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今日の日記の内容はただの自分のためのメモです-2

2009-08-27 22:29:31 | Weblog
宗教とかカトリックだ、キリスト教だのって、そんなもの興味ないよって方がこれを読んでたらごめんなさいね。あたしもうちのおばはんと関わるまではそんなの全然関係なかったのよ。でも、あの人の手伝いをするようになったらこれはもう仕方ないじゃないの。

うちのおばはんね、元々は観想修道会の修道女になりたかった人なの。だけど、どういうわけかちゃんとあの人を正しく判断して指導できる司祭に出会えなかったの。物凄く酷い誤解や中傷、意地悪、が何十年もも続いてたからあの人もとうとう還暦よ。

ずいぶんな目にあったけどあの人、望洋のんびり、暢気な長女だから、いつだってたいてい誰か助けてくれて、あの人のちっちゃい時からのモットーときたら、なんとかなるわよ、っていうの。

ほんとよ、あの人ったら、なんとかなるってそれだけでここまで来ちゃったの。ずいぶんいろんなことがあったのよ。とにかくやたらに人を信用しちゃうからひどい目にもあったけどそれでもやっぱり神様を信じてるし、教会にも行ってるわ。こんなどうしようもない人じゃ、あたしだってそばについてて時々文句も言わずにいられないじゃない。
放っておくとどんな失敗をやらかすかしれたもんじゃないわ。こんな人だから20年以上も真実を握り潰されっぱなしで気がつかなかったり、自分のかいたものの原稿を預けてそっくり行方不明にされちゃったり、親類にお金も横取りされちゃたし、ろくなことにならないのよね。

今回はちゃんとあたしが側についてがみがみ言ったげるわ。この20何年かの間に書いたもののことは一先ず御破算にして、まったく新しいお話しを書けばいいのよ。体力や気力が落ちたって、あの人の心の中から生まれるものを文章にしていく、あの人にしか出来ないことをするしかないんだわ。まぁ、どこまで出来るかはわかんないけどあたしもできるだけ手伝うつもりよ。

   ここ削除・・・・せっかくあの人のかわりに言ったげたのに怒られちゃった。自分で自分の功績を言うのは下品なんだって。そんなもんなの、言わないと分かってくれないじゃないよねえ。

まあ、いいか。あの人これからまた、まったく新しいもので勝負よね。
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「あらいやだわ」の日記を救出した

2009-08-27 22:24:08 | Weblog
WagaMagaがなくなってしまうとなると、初期のころ、当時は『あらいやだわ』というネームで書いていたころの日記から、ケータイのマリーさん関係のものを救出しなければならないと思い、試してみた。

2008年の1月中旬以来まったく、その時期のIDもパスワードも弾かれてしまい、パソコンもjigブラウザからも入れなくなってしまったため、仕方なく、偽名、偽住所、偽年齢で試してみたところ入れたので、デスク氏に連絡を取り、もぐりこんだのではなかったかな、たしか。

しかし、当時の日記は見られるし、コピーも出来たので、重要なものだけは80数点、大移動した。くたびれて今日はずっと頭がボーっとしている。

当時の日記を読むと、自分がいかにお人よしのおばかだったかがよくわかる。
まさかこの20数年、自分の情報が一人の人物に一手に握りつぶされていたとは気がついていないないようだ。ブログの方でそれを読んで笑っていた人たちもいたに違いない。まったくなんたること。

でも・・・・三つ子の魂。この先も似たような失敗を重ねそうなのがおっとろしい。

   
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