戦場スケッチ - 戦後 70 年の追悼 -

掲載のスケッチは田端敏雄さんの作品です。
リンク切れがありますが、ご容赦ください。

出 征

2006年05月22日 | 戦争体験談

「朝日新聞、夕刊」に、「日印関係」についてのシリーズものの特集記事が掲載されていました。 その第一話となる 5 月 8 日、一人のインド人女性が登場しています。

「アシャの出征 独立願い「朝子」は兵士に

「黄ばんだ原稿用紙に約 200 枚。 短歌をちりばめ、旧仮名遣いの端正な日本語で記されている。 1943 年から終戦まで 2 年間、戦火の東京や台湾、タイなどで書き続けた記録だ。 表題は『アシャの日記』。 アシャの愛称を持つその女性は、第 2 次大戦前の神戸で生まれ、日本文学をこよなく愛し『朝子』と呼ばれた。 ・・・」

敗色濃厚な日本軍の有力指揮官が将兵を戦場に残したまま日本に戻る同じ頃、17 歳の少女は東京に残る両親の下を離れ、チャンドラボース率いる「インド国民軍」に身を投じておられます。 東京からの出征は終戦間際の、昭和 20 年(1945 年) 3 月末、混乱を極める戦線にたどり着かれたこと自体が奇跡としか言えない状態であったはずです。

このお話も早速、川畑さんにお知らせしましたら次のようなご返事を戴きました。

「『如何にせん する事々に思ひ出す 別れ来たりし 母の涙を』、17 歳の少女の母への思い、痛いほど分かります。 駅頭で見送りの母が目を潤ませながら私に手を振った、あの日のことが今でもはっきり思い出されます。 私も 17 歳でした。 南方に赴任という事は母にも分かっていましたが、勝った勝ったとインパール作戦の派手な報道の真っ只中のビルマ戦線に行くということは薄々知っていたようでした。

インド国民軍に参加されたアシャさんもイギリスの植民地からの解放と独立を目指されて「インド独立の土になる」覚悟で決死の参加だったのでしょう。 子を思う母の涙。 またその母の涙を事毎に思い出すアシャさん。 気丈な母の涙ぐむ姿に、自分はあくまでも弱さは見せずと涙をこらえて出発。 彼女の姿に私の当時の姿がだぶります。 (5-9-06)」