梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

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2015-03-24 10:38:06 | 日記
   タイトルは「An嬢」の思い出としておきましたが、「An嬢」はただの当て字です。また、「An嬢」そのものがテーマというわけではありません。今回は私が関わった不登校についての思い出です。少し長編です。

   先日、JTの卒業生からアド変のメールが届きました。9年前の卒業生です。相方より一学年上ということになります。JTに赴任した最初の年、私は一年生の英語を受け持ちました。その際、車椅子の障害生徒が在籍していたクラスの副担になりました。こうした生徒には授業を受け持たない専任の体育講師がつき、休み時間ごとに教室にやって来て世話をします。そのクラスでは更にその上に、私と大先生美髯公という2大変人奇人が副担につくという、一般生徒にとっては有難迷惑な厚遇?となっておりました。

   そのクラスに在籍していたのがAn嬢でした。そしてある日、An嬢が不登校になりました。不登校の原因など、明確ないじめでもない限り、誰にも突き止めることはできません。ただ、いつの間にか誰も訳がわからないうちに登校しなくなったのです。卒業後に本人の口から直接聞いた話では、朝きちんと家を出るのですが、荒川にかかる橋を渡るまではまともに学校に向かっているものの、その後は無意識の内にあらぬ方向へ自転車を飛ばし、結局学校にはたどりつかないという日々を送っていたそうです。

   そのクラスの正担任は、JTでは一番の重鎮と言われる教師でした。誰もが彼には一目も二目も置いていました。そのクラスの女生徒が一人不登校になったからといって、軽々しく口をはさむことは不可能でした。恐らく彼も一般論としての家庭訪問などはしていたのだろうと思います。ただ、副担に何らかの情報をくれるわけでもなく、私たちも重鎮のやることに口をはさむという空気ではないので、An嬢の不登校は存在しないかのような流れになっていました。

   それでも、やじうま精神の旺盛な私は、彼に一度だけ正担任に向かって、こう聞きました。

   「An嬢に対しては、構ってやった方がいいのですか?それともあたりさわりなく放っておいた方が良いのですか?」

   彼の回答は、「構わないでおいてくれ。」というものでした。

   しかし、それにもかかわらず、あえて私はAn嬢に近況を聞くメールを送りました。無論担任には内緒です。なぜか私は、このケースではそうすべきだと感じたのです。それから間もなく、An嬢は再び登校するようになりました。また、それ以後は特におかしなところもなく、普通に生活し、普通に卒業していきました。

   卒業して数年後、An嬢とその親友から連絡が来て、私は彼女たちと会うことになりました。私は最初の一年間しか授業を受け持っておらず、その後は受け持っている学年が違えば使用する階が違ってしまうので、彼女たちと顔を合わせることすらありませんでした。

   しかし、卒業後向こうから声を掛けてきたところをみると、やはり彼女の不登校に対して私がとった行為は正解だったと言えるのではないでしょうか。

   話は数年遡ります。S高校T校舎に勤務していた時のことです。これまた他のクラスの、Kという女子が不登校になりました。やはり原因などわかりません。今にして思えば、隅田川の土手の下にあったこの校舎、集まって来た生徒は大部分が葛飾区のやや屈折を抱えた子供たちでした。住んでいる地域の気風があまり明朗快活爽快ではなく、また第一志望に落第してやむなくここに入って来た子が多かったのです。何しろ入試が別枠で3月末に行われていたのですから。そんなところへ、大泉学園と言う、全く異なる気風の地域からただ一人入って来たために、あの独特な鬱屈した校風にそぐわなかったのではないかと想像できます。彼女はとても穏やかで、いつも微笑みを浮かべているような、口数の少ない少女でした。

   彼女の不登校に対しても、有効な手は打てず、このままでは無意味に月日が流れてしまうと感じた私は、この時も担任には内緒でメールを送りました。

   「何か困ったことでもあるんですか?いや、あるからこそ登校できないんですよね。」

   と書いた記憶があります。

   そして彼女もまたこのメールの後、再び登校を開始しました。彼女はあくまでもよそのクラスの生徒です。登校再開後も、特に私のところへ挨拶に来るでもなく、言葉を交わすでもなく、月日は過ぎてゆき、やがて無事卒業の運びとなりました。するとある日、彼女の保護者名義で、私の元へかなり高額の商品券が送られて来ました。それは、私の一言で娘が不登校から解放されたことに対するお礼の気持ちだったのです。

   理由のわからない不登校の解決は、なかなか難しいものです。しかしこの二つの事例では、それぞれ一通のメールだけで問題は解決してしまいました。家庭訪問をするわけでもなく、直接会って面談をすることもなく、ほんの数行のメールだけで事足りてしまったのです。

   メールには本当に数行の文章しか書きませんでした。何通も送ったりはしませんでした。言葉を尽くして説得しようというメールではなかったのです。ただ、「私もほんの少しだけど君の事を心配しているんだよ。」という気持ちを言外に込めただけのものです。

   私はとても厳しい教師でした。JTでのあの学年では、私の授業が終わると生徒たちが身も心も疲れ果てたというように廊下を歩いているので、前の時間が私の英語であったことがすぐにわかったそうです。そんな風に日頃恐ろしく厳しい教師であった私から、まさかのメールがあったことがうれしかったのかもしれません。いずれにしても、誰にも解決できなかった不登校が、たった一通のメールで解決してしまったことを思うと、人の心とは計り知れないものだという気がします。

   私は思います。不登校の解決にはもっぱら担任があたり、良心的な担任ほど家庭訪問を繰り返して登校を促すものだとされていますが、正解は案外、もっと他にあるのではないか、と。

   近々「An嬢」たちと再会することになりました。一通のメールが結んだ縁という訳ですね。


   

   

日中韓

2015-03-23 18:29:40 | 日記
  日中間の会議がようやく始まりました。それを受けて、私が最近思っていることを書いてみます。

①「いわゆる」従軍慰安婦問題
  
   韓国は執拗に「いわゆる」従軍慰安婦問題をでっち上げたまま、振り上げた手を下ろそうとはしません。というより、あまり激しくつっかかり過ぎたので、下ろすタイミングを失ってしまったことは明らかです。特に現在の大統領はバランス感覚と実利感覚に欠けるただの偏屈なおばさんに過ぎませんから、きっとこれからも頑固な姿勢を崩さず、結局は身を亡ぼすことになる可能性があります。しつこくこの問題で日本に絡み続ければ、結局は韓国にとって大きなマイナスになるしかないことを、経験を通じて教えてやるべきでしょう。

   私の考えはこうです。従軍慰安婦問題については、諸外国が韓国の一方的な主張を信じている傾向についてはこれを正していくことは必要ですが、日韓の間の交渉によってこの問題を解決してはいけません。なぜなら、韓国の本音は正義を勝ち取るところにあるのではなく、因縁をつけて賠償という名の金銭をむしり取ることにあると思われるからです。では、日本が韓国の要求に応じて金銭による解決を図った後、何が起こるか。善良な日本国民はそんなことは夢にも思っていないでしょうが、彼らは新たなるゆすりの種を発掘して、永遠に金銭をせびり取ろうとし続けるからです。

   従軍慰安婦問題が解決せず存在し続けている間は、彼らはこの問題にこだわり続け、新なる要求はして来ないでしょう。つまり、従軍慰安婦問題は、ある意味で日本にとっての保険にもなり得るのです。したがって、この問題は円満解決したりせず、永遠に日韓の間の懸案として残し続けるのが最善の策だと考えます。

②中国の歴史認識について。

   中国はもまた日中戦争の歴史認識についてねちねちと嫌がらせを続けていますが、彼らの言い分に騙されてはいません。日本は「中国」と戦争はしていません。何しろお互いに宣戦布告をしていないのですから、戦争ではなく、「シナ事変」という言葉があるように、「事変」というべきです。更に言うなら、当時の中国には、アメリカと組んだ勢力(蒋介石)と、日本と組んだ勢力(汪兆銘)、更にソ連と組んだ勢力(共産党)による現代版三国志時代だったのであり、汪兆銘婦人がいみじくも裁判の場で語った通り、「日本は悪ではない。日本が悪かったことと言えば、この戦いに負けた事だけだ。」とも言えるのです。そもそも共産党の軍勢は日本とは刃を交えず、もっぱら蒋介石に日本軍との戦いを押し付けていたのですから、自分たちが日本にたいする戦勝国であるなどどいうのはおこがましすぎます。

   更に重要なことは、中国が本当に考えているのはこれから先の未来のことであって、戦争中のことなどではないのです。一見戦争についての反省と正しい歴史認識を求めているように見えますが、これは中国が日本の頭をハンマーでたたくための方便に過ぎません。彼らが狙っているのは、将来に渡って日本が中国に頭が上がらないちんけな島国であり続けるように仕向けることです。中国は実に何十年も先を見据えて行動しています。彼らが過去の事にばかりこだわっていると思ったら大間違いです。

   ところで、中国人と韓国人の、日本人に対する見方の違いには、興味深いものがあります。韓国人は日本人の優れたところを認めず、ありとあらゆる屁理屈で日本をけなし、見下そうとしますが、中国人は違います。中国人は、「日本のこんなところは中国が到底及ばない。」とか、「日本人の方が中国人よりはるかに民度が高い。」「やはり中国の方が数十年遅れている。」などと平気で口にします。これは韓国人にはできない芸当です。韓国国内で日本や日本人をたたえる言動をすることは、社会的に抹殺されるか、ひどい場合には殴り殺される場合すらありますが、中国国内では割と平然とそうした言葉を口にすることが出来ます。特にネット上には日本を評価する書き込みが無数に見られます。中国では、共産党や現政権を批判する以外の言論の自由は認められている感があります。どう考えても韓国人よりも中国人の方が一枚上手だと言わざるを得ません。

   ちょっとまとめようがない走り書きになってしまいましたが、私の身の回りにはこうしたことを理解していない人ばかりなので、あえて書いてみました。

   

  
   

四国旅行記⑬

2015-03-20 10:06:17 | 日記


  
   馬瀬山山頂公園は、紫電改展示館を目玉としていますが、実際には宇和島名物「闘牛」なども行われる場所です。日本の闘牛は闘牛士がいるわけではなく、牛同士が角突き合わせて戦う形式です。なぜか日本ではここ宇和島と長野県?の山古志村の二か所だけで行なわていたと記憶しています。 

   次は「宇和島タワー」。こちらも別料金です。とても細長い鉛筆のようなタワー(高さ110メートル)の周りにドーナツ状に展望室がついており、これが回転しながら上昇していきます。ついでに下りる時には一気に落下してくれると楽しいのですが、そういう造りにはなっていません。さらりと周囲の景色を眺めてあっさり降りてくるという嗜好です。観光の目玉にしたいのでしょうが、どこか寂しさを誘う代物です。

   昼食は宇和島真珠館というところで、これまたオプションの昼食。細かく刻まれたタイの刺身でできたひつまぶし?のようなものですが、食べ方に対する説明がしつこくて、わずらわしくなりました。真珠を販売する傍ら食堂も兼ねているという場所で、恐らくこのあたりにはこの一軒くらいしか適当な店がないのではないかと思われます。残念ながら真珠に関心を示す人はひとりもいませんでした。

   ツアーの最後は大洲城です。写真で見るとひどくこじんまりしているように見えますが、城下町としては、かつてはそこそこの規模があり、今のようにすたれてしまったことが惜しまれます。写真はその大洲城の天守閣ですが、眼鏡を掛けたイケメンの若者(ただし、いかにも公務員風)が解説をしてくれました。この天守閣は21世紀に入ってから再建されたものですが、とんだお役所仕事で、木造で3階建てを超える建築は許可できないとして、国から再建を拒否されたそうです。そこを何とか理屈をつけて再建にこぎつけたのがこのような建物なのですが、現在白壁になっている一階部分は、オリジナルでは木の板でふかれていたものです。おそらくは、ここを漆喰にすることが条件になっていたのかもしれません。

   こんなふうにして、今回の三泊四日四国ツアーは無事終了しましたが、今回私の脳裏を巡ったものは、史跡でもなければ自然でもなく、老人の置かれた孤独な状況でした。あの68才男性は、次男と同居しているという話でしたが、私に対する熱のこもった途絶えることの無い話ぶりからは、息子夫婦と同居しながらも話し相手のいない寂しい日常がひしひしと感じ取れました。

   実の息子夫婦と同居していたら、それはなかなか幸せな老後ではないかと思うかもしれませんが、現実はそう甘くありません。私は身近なところで、そうした老人が自殺してしまった例を知っています。私が駐車場を借りていた家は、やはり息子夫婦と父親が同居していたのですが、息子夫婦にネグレクトされて、首をつってしまいました。

   私の叔父は、私の家から50メートルも離れていない家で息子夫婦と暮らしていましたが、なかなか家に帰れず、いつも300メートルほど離れた飲み屋で酒を飲み、今にも転びそうな千鳥足で帰宅するのが常でした。当時は車などほとんど走っていなかったので、通りをふらふらと老人が歩いていても、さほど危険ではなかったのです。この叔父も、ある日家の裏の桜の木に縄をかけて自殺してしまいました。

   私は妻の実家に同居していたのですが、連れ合いを亡くして久しい義母が、ある日突然思いつめた表情で私の部屋に入って来ました。曰く、「〇さん、(私の名)死のうと思って川まで行ったけど死にきれなかった。ただ話を聞いててくれるだけでいいから、私が死ぬまではこの家にいて欲しい。」 義母は、孫が幼い間は毎日が楽しくてしかたがなかったのだと思いますが、皆成長して無口になってしまい、妻も聞き上手なタイプではなかったので、いつの間にか一人で思いつめていたのでしょう。

   私が68才老人の切れ目のない話に辟易しながらも4日間付き合うことができたのは、こうした事例を身近に見て来ているからだと思います。彼は私に対して思い切り語りまくったことで、帰宅後もしばらくの間は寂しさを忘れることができるかもしれません。いや、そう期待しましょう。

 
  

四国旅行記⑫

2015-03-19 11:43:22 | 日記


   最終日となりました。4日目ともなると68才男性の口はますます滑らかに。もはや一秒たりとも休むことはありません。私としてはガイドさんから聞くことが出来る地元の話がとても興味深く、できればそちらに耳を傾けたいのですが、68才男性の声に邪魔されて何も聞こえません。そして、ついうっかりと歌手の公演の話に相槌を打ったために、彼は更に舌好調に・・・・。

   彼は「都はるみ」だの「天童よしみ」だのの地方公演に足しげく通っていたのです。さすがにKARAや少女時代やApinkまでは守備範囲に入っていませんでしたが、その熱心さは私の比ではありません。この相手は話になると踏んだのか、彼はついに携帯を取り出すと、過去の記録を開帳し始めました。予定表を残してあるのでしょうか、月別のカレンダーにマークがしてあり、その日を開くと、どの会場で誰のコンサートを見に行ったかが克明に記されているのです。これを一つ一つ開けて解説を加える時の彼は幸福感に満ちていました。聞かされる私の方は、パンドラの箱を開けてしまった気分で、とても不幸な気持ちでいっぱいだったのですが・・・・。

   朝一番は「馬瀬山山頂公園」。「公園」といっても、私たちが目指すのは景色ではなく、「紫電改展示館」です。こちらは終戦真近なある日、B29爆撃機を迎撃するために発進した戦闘機「紫電改」を展示してあるのです。現在紫電改はアメリカに稼働可能な機体が保存されているそうですが、日本国内にはかなり腐食が進んでしまったこの一機しかありません。宇和海に不時着水したまま沈んでしまった戦闘機を、誤って錨を海に落としてしまった漁師が潜水して探すうちに、偶然発見したのだそうです。

   私たちが到着すると、往年の戦闘機乗りの服装に身を固めた男性が入り口で出迎えてくれました。果たしてこのコスプレが必要なのかどうかわかりませんが、この衣装が大変決まっている人でした。役目はこの展示館にやって来た人々に、この機体が発見されたいきさつなどを話して聞かせることのようです。鹿児島県知覧のゼロ戦の方がネームバリューがあり、観光地としても大きいので、訪問する人もまばらであろうこの展示館の存在はもう少し知られても良いのではないかと思います。この紫電改は特攻機ではありませんでしたが、空の要塞といわれたB29を迎撃し、本土防衛のために殉職した若者の追悼碑なのです。

   ちなみに、戦闘機乗りにとって、爆撃機は戦闘機同士よりはるかに恐ろしい敵です。なぜなら戦闘機は翼と期待の先端に機関銃や機関砲がついているだけで、それらは全て前方に向いて装備されているのです。腕のいいゼロ戦乗りは、さっと敵機のバックを取り、撃墜してしまいます。その時は機体が接触しそうになるほど敵機に接近するので、死の恐怖に怯える米軍パイロットの表情まではっきりと見て取れたそうです。

   一方爆撃機にはいくつもの砲や銃が備えられています。機首・機体の上側・機体の腹の部分・尾翼近く・・・上にも下にも備えられていて、死角はありません。爆撃機のバックを取ったところで、後ろを向いた機関砲に迎撃されてしまう可能性が高いのです。B29を迎撃する戦闘機乗りは、決死の覚悟で発進していったということです。

四国旅行記⑪

2015-03-18 11:34:59 | 日記


    三泊四日の四国ツアーも3日目の夕刻を迎えました。途中、とある川に架かった橋を通った時、河原に沢山のブルーシート・ハウスがあるのが目に留まりました。隅田川や荒川の土手にある、ホームレスの住居と同じものです。しかしこれはホームレスが住む住居ではなく、ウナギの稚魚を捕る漁師たちが設置したものです。夜になると漁師たちがやって来て、それぞれの小屋を起点に稚魚漁をします。

   私が幼い頃には、江戸川区葛西にはこの稚魚がいくらでもいました。あまりにも当たり前の光景でしたし、ハゼほどの大きさもないので、捕まえようなどと思う子供はいませんでした。今にして思えば東京湾は実に贅沢な海だったのです。為政者たちは湾内の漁業が立派な産業であることに気づかず、ほとんどすべてを埋め立てて向上地帯にしてしまったので、豊穣の海であった葛西海岸はもはや死にかけた海となっています。葛西臨海公園にはそこそこの砂浜がありますが、絶えず浸食によって失われてしまうので、定期的に山から砂を運んでは継ぎ足しているのです。

   稚魚漁が成功するかどうかは運頼みです。夜、漁師たちは電球を灯し、その明かりに引かれてやって来る稚魚を小さな網で掬うのですが、今やこれが生きたダイヤモンドと化しています。首尾良く大漁だった人は、運が良ければ一年間遊んで暮らせるほどの収入になるそうですが、そうは問屋が卸さないでしょう。昔は「群れ」で遡上してきた稚魚が、今や孤独な航海の果てにたどり着くというのが実情なのですから。

   バスは一路足摺岬へ。断崖絶壁におののいて後ずさりしたことからこの名がついたと言われていますが、この崖から飛び降りると、死体が浮かんでくることはないそうです。後腐れなく身を処したい人にとっては理想的な場所かもしれません。しかし、最近は自殺志願者を目当てにした新たな商売が登場したそうなので、世の中、正に生き馬の目を抜くといったところです。

   韓国人売春婦の中には案外高学歴者がいて、日本でいえばお茶の水女子大に相当する梨花女子大を卒業後日本の大学院に留学中であるにも関わらず、副業として売春に励んでいる女性もいます。その対極にあるのが中国から遠征してきている売春婦たちです。最近彼女たちの中には自殺の名所に出没し、一攫千金を狙う者が登場しているそうです。

   自殺の名所で挙動不審な男性を見かけると、「どうせなら死ぬ前に気持ちいいことしない?」と声を掛け、「お金なんてもう必要ないでしょ?」というわけで、所持金の全てと、人によっては預金通帳を巻き上げられるのです。最近自殺者が相次いだ新小岩駅のホームにも、彼女たちが姿を見せていたそうです。中には逮捕されるケースもあるのですが、それは日本人が経営する風俗店が、自分たちの商売に対する営業妨害になるとして警察に密告するからだそうです。笑えるような、笑えないような、微妙な話ですね。

   本日最後の訪問先は「四国霊場38番札所金剛福寺」だったのですが、到着してみると、既に閉門時間となっており、中に入ることはできませんでした。おそらく御朱印をいただくつもりだった方もいらしたでしょうに、残念なことをしました。それにしても閉門時間は5時と決まっているようなので、これは優秀な現地ガイドさんが犯した唯一のミスだったと言えるでしょう。

   このツアー最大の特徴は、普通のツアーとは逆に、日を追って宿がしょぼくなっていくことです。しかし、宿がしょぼくなるにつれて、仲居さんたちの接客態度が親切になっているような気もします。