タイトルは「An嬢」の思い出としておきましたが、「An嬢」はただの当て字です。また、「An嬢」そのものがテーマというわけではありません。今回は私が関わった不登校についての思い出です。少し長編です。
先日、JTの卒業生からアド変のメールが届きました。9年前の卒業生です。相方より一学年上ということになります。JTに赴任した最初の年、私は一年生の英語を受け持ちました。その際、車椅子の障害生徒が在籍していたクラスの副担になりました。こうした生徒には授業を受け持たない専任の体育講師がつき、休み時間ごとに教室にやって来て世話をします。そのクラスでは更にその上に、私と大先生美髯公という2大変人奇人が副担につくという、一般生徒にとっては有難迷惑な厚遇?となっておりました。
そのクラスに在籍していたのがAn嬢でした。そしてある日、An嬢が不登校になりました。不登校の原因など、明確ないじめでもない限り、誰にも突き止めることはできません。ただ、いつの間にか誰も訳がわからないうちに登校しなくなったのです。卒業後に本人の口から直接聞いた話では、朝きちんと家を出るのですが、荒川にかかる橋を渡るまではまともに学校に向かっているものの、その後は無意識の内にあらぬ方向へ自転車を飛ばし、結局学校にはたどりつかないという日々を送っていたそうです。
そのクラスの正担任は、JTでは一番の重鎮と言われる教師でした。誰もが彼には一目も二目も置いていました。そのクラスの女生徒が一人不登校になったからといって、軽々しく口をはさむことは不可能でした。恐らく彼も一般論としての家庭訪問などはしていたのだろうと思います。ただ、副担に何らかの情報をくれるわけでもなく、私たちも重鎮のやることに口をはさむという空気ではないので、An嬢の不登校は存在しないかのような流れになっていました。
それでも、やじうま精神の旺盛な私は、彼に一度だけ正担任に向かって、こう聞きました。
「An嬢に対しては、構ってやった方がいいのですか?それともあたりさわりなく放っておいた方が良いのですか?」
彼の回答は、「構わないでおいてくれ。」というものでした。
しかし、それにもかかわらず、あえて私はAn嬢に近況を聞くメールを送りました。無論担任には内緒です。なぜか私は、このケースではそうすべきだと感じたのです。それから間もなく、An嬢は再び登校するようになりました。また、それ以後は特におかしなところもなく、普通に生活し、普通に卒業していきました。
卒業して数年後、An嬢とその親友から連絡が来て、私は彼女たちと会うことになりました。私は最初の一年間しか授業を受け持っておらず、その後は受け持っている学年が違えば使用する階が違ってしまうので、彼女たちと顔を合わせることすらありませんでした。
しかし、卒業後向こうから声を掛けてきたところをみると、やはり彼女の不登校に対して私がとった行為は正解だったと言えるのではないでしょうか。
話は数年遡ります。S高校T校舎に勤務していた時のことです。これまた他のクラスの、Kという女子が不登校になりました。やはり原因などわかりません。今にして思えば、隅田川の土手の下にあったこの校舎、集まって来た生徒は大部分が葛飾区のやや屈折を抱えた子供たちでした。住んでいる地域の気風があまり明朗快活爽快ではなく、また第一志望に落第してやむなくここに入って来た子が多かったのです。何しろ入試が別枠で3月末に行われていたのですから。そんなところへ、大泉学園と言う、全く異なる気風の地域からただ一人入って来たために、あの独特な鬱屈した校風にそぐわなかったのではないかと想像できます。彼女はとても穏やかで、いつも微笑みを浮かべているような、口数の少ない少女でした。
彼女の不登校に対しても、有効な手は打てず、このままでは無意味に月日が流れてしまうと感じた私は、この時も担任には内緒でメールを送りました。
「何か困ったことでもあるんですか?いや、あるからこそ登校できないんですよね。」
と書いた記憶があります。
そして彼女もまたこのメールの後、再び登校を開始しました。彼女はあくまでもよそのクラスの生徒です。登校再開後も、特に私のところへ挨拶に来るでもなく、言葉を交わすでもなく、月日は過ぎてゆき、やがて無事卒業の運びとなりました。するとある日、彼女の保護者名義で、私の元へかなり高額の商品券が送られて来ました。それは、私の一言で娘が不登校から解放されたことに対するお礼の気持ちだったのです。
理由のわからない不登校の解決は、なかなか難しいものです。しかしこの二つの事例では、それぞれ一通のメールだけで問題は解決してしまいました。家庭訪問をするわけでもなく、直接会って面談をすることもなく、ほんの数行のメールだけで事足りてしまったのです。
メールには本当に数行の文章しか書きませんでした。何通も送ったりはしませんでした。言葉を尽くして説得しようというメールではなかったのです。ただ、「私もほんの少しだけど君の事を心配しているんだよ。」という気持ちを言外に込めただけのものです。
私はとても厳しい教師でした。JTでのあの学年では、私の授業が終わると生徒たちが身も心も疲れ果てたというように廊下を歩いているので、前の時間が私の英語であったことがすぐにわかったそうです。そんな風に日頃恐ろしく厳しい教師であった私から、まさかのメールがあったことがうれしかったのかもしれません。いずれにしても、誰にも解決できなかった不登校が、たった一通のメールで解決してしまったことを思うと、人の心とは計り知れないものだという気がします。
私は思います。不登校の解決にはもっぱら担任があたり、良心的な担任ほど家庭訪問を繰り返して登校を促すものだとされていますが、正解は案外、もっと他にあるのではないか、と。
近々「An嬢」たちと再会することになりました。一通のメールが結んだ縁という訳ですね。
先日、JTの卒業生からアド変のメールが届きました。9年前の卒業生です。相方より一学年上ということになります。JTに赴任した最初の年、私は一年生の英語を受け持ちました。その際、車椅子の障害生徒が在籍していたクラスの副担になりました。こうした生徒には授業を受け持たない専任の体育講師がつき、休み時間ごとに教室にやって来て世話をします。そのクラスでは更にその上に、私と大先生美髯公という2大変人奇人が副担につくという、一般生徒にとっては有難迷惑な厚遇?となっておりました。
そのクラスに在籍していたのがAn嬢でした。そしてある日、An嬢が不登校になりました。不登校の原因など、明確ないじめでもない限り、誰にも突き止めることはできません。ただ、いつの間にか誰も訳がわからないうちに登校しなくなったのです。卒業後に本人の口から直接聞いた話では、朝きちんと家を出るのですが、荒川にかかる橋を渡るまではまともに学校に向かっているものの、その後は無意識の内にあらぬ方向へ自転車を飛ばし、結局学校にはたどりつかないという日々を送っていたそうです。
そのクラスの正担任は、JTでは一番の重鎮と言われる教師でした。誰もが彼には一目も二目も置いていました。そのクラスの女生徒が一人不登校になったからといって、軽々しく口をはさむことは不可能でした。恐らく彼も一般論としての家庭訪問などはしていたのだろうと思います。ただ、副担に何らかの情報をくれるわけでもなく、私たちも重鎮のやることに口をはさむという空気ではないので、An嬢の不登校は存在しないかのような流れになっていました。
それでも、やじうま精神の旺盛な私は、彼に一度だけ正担任に向かって、こう聞きました。
「An嬢に対しては、構ってやった方がいいのですか?それともあたりさわりなく放っておいた方が良いのですか?」
彼の回答は、「構わないでおいてくれ。」というものでした。
しかし、それにもかかわらず、あえて私はAn嬢に近況を聞くメールを送りました。無論担任には内緒です。なぜか私は、このケースではそうすべきだと感じたのです。それから間もなく、An嬢は再び登校するようになりました。また、それ以後は特におかしなところもなく、普通に生活し、普通に卒業していきました。
卒業して数年後、An嬢とその親友から連絡が来て、私は彼女たちと会うことになりました。私は最初の一年間しか授業を受け持っておらず、その後は受け持っている学年が違えば使用する階が違ってしまうので、彼女たちと顔を合わせることすらありませんでした。
しかし、卒業後向こうから声を掛けてきたところをみると、やはり彼女の不登校に対して私がとった行為は正解だったと言えるのではないでしょうか。
話は数年遡ります。S高校T校舎に勤務していた時のことです。これまた他のクラスの、Kという女子が不登校になりました。やはり原因などわかりません。今にして思えば、隅田川の土手の下にあったこの校舎、集まって来た生徒は大部分が葛飾区のやや屈折を抱えた子供たちでした。住んでいる地域の気風があまり明朗快活爽快ではなく、また第一志望に落第してやむなくここに入って来た子が多かったのです。何しろ入試が別枠で3月末に行われていたのですから。そんなところへ、大泉学園と言う、全く異なる気風の地域からただ一人入って来たために、あの独特な鬱屈した校風にそぐわなかったのではないかと想像できます。彼女はとても穏やかで、いつも微笑みを浮かべているような、口数の少ない少女でした。
彼女の不登校に対しても、有効な手は打てず、このままでは無意味に月日が流れてしまうと感じた私は、この時も担任には内緒でメールを送りました。
「何か困ったことでもあるんですか?いや、あるからこそ登校できないんですよね。」
と書いた記憶があります。
そして彼女もまたこのメールの後、再び登校を開始しました。彼女はあくまでもよそのクラスの生徒です。登校再開後も、特に私のところへ挨拶に来るでもなく、言葉を交わすでもなく、月日は過ぎてゆき、やがて無事卒業の運びとなりました。するとある日、彼女の保護者名義で、私の元へかなり高額の商品券が送られて来ました。それは、私の一言で娘が不登校から解放されたことに対するお礼の気持ちだったのです。
理由のわからない不登校の解決は、なかなか難しいものです。しかしこの二つの事例では、それぞれ一通のメールだけで問題は解決してしまいました。家庭訪問をするわけでもなく、直接会って面談をすることもなく、ほんの数行のメールだけで事足りてしまったのです。
メールには本当に数行の文章しか書きませんでした。何通も送ったりはしませんでした。言葉を尽くして説得しようというメールではなかったのです。ただ、「私もほんの少しだけど君の事を心配しているんだよ。」という気持ちを言外に込めただけのものです。
私はとても厳しい教師でした。JTでのあの学年では、私の授業が終わると生徒たちが身も心も疲れ果てたというように廊下を歩いているので、前の時間が私の英語であったことがすぐにわかったそうです。そんな風に日頃恐ろしく厳しい教師であった私から、まさかのメールがあったことがうれしかったのかもしれません。いずれにしても、誰にも解決できなかった不登校が、たった一通のメールで解決してしまったことを思うと、人の心とは計り知れないものだという気がします。
私は思います。不登校の解決にはもっぱら担任があたり、良心的な担任ほど家庭訪問を繰り返して登校を促すものだとされていますが、正解は案外、もっと他にあるのではないか、と。
近々「An嬢」たちと再会することになりました。一通のメールが結んだ縁という訳ですね。