今年は、10月に12日間、11月に10日間、12月21日から10日間と延べ32日間の入院生活を経験しました。
食事とトイレ以外は寝ているだけの入院生活でしたが、退屈を感じることなく諸々の回想をしていました。
<回想の中の一つ>
写真は、子供の頃に仲間と鰍(かじか)とりで遊んだ川です。
何年か前に恩義ある方の病気見舞いの折、撮影したと記憶しています。(季節は10月末)
夏ですと河鹿蛙がコロコロと鳴くのを聴くことができます。
下の参考写真は鰍(かじか)です。
奇麗な水を好み身の回りの石の色に合わせて体色を変えてカモフラージュします。
ヤスでついてとった鰍は串刺しにして囲炉裏で焼いて食べると美味しい魚でした。
(写真はwebウイキペディアより拝借)
写真の地点より10分ほどのぼると、終戦直後に多かった乞食が住んでいた河原があり、大きな木の根方に乞食小屋があり同じ年頃の男の子と母親が暮らしていたのです。
その子に草履の作り方や魚の取り方を教えて遊んだ子供の頃の記憶がよみがえりました。
だが、その前振りは、苦い苦い思い出でした「乞食の子」と、からかっているのをバーちゃんに見つかり、芝(灌木の細い枝)で叩かれ「家に入るな」と、叱られたのです。
何時も優しいバーちゃんが怖い顔をして怒っていたのが思い出されます。
途方にくれていると、夕方、バーちゃんが、朴葉で包んだ🍙を持ってきて謝りに行けと言われたのです。
謝りに行った乞食小屋の入り口は扉ではなく「むしろ」がさがっていました。
その出来ごとがあってからは、お互いに父親を知らない境遇に共感したのか仲良しになり、草履を作ったり魚のとり方や棒を使った蛇のとり方と、蛇の捌き方、焼き方を教えながら遊びました。
マムシは捌かずにそのまま焼き、高いので売って小遣いにしますが、シマ蛇は焼いておやつにします。
しかし、皮がかたいので首のまわりに切り込みを入れて皮を剥き、内臓をとりのぞきます。そのまま焼くと腹に溶けないネズミが入っていたりするのです。
魚は灌木の枝を折って削り串を作って刺して焼きますが、蛇は親指ほどの小枝を割いて蛇行させてはさむ焼き方を教えたりして一緒に遊んだのです。
※その子は何時も裸足なので川に入る場合は、滑って危ないので必ず草履を履かせます。そんなわけで魚とりの前に草履つくりから始める必要があったのです。
私は5歳までに、自分ではく草履は自分で作れるように周りの大人が教えてくれました。
自分はワラをよじって継ぎ足しなながら縄をなうことも上手になってたので、得意顔で、その子に教えていように思えます。
その子は「お前なんも知らないな」と言われながらもニコニコと、楽しそうに縄のない方を練習していました。
縄はワラを少し水で濡らしてから手頃な丸太で石の上にのせて叩くと柔らかになり、丈夫な「縄をなう」ことができます。
因みに「縄がなえない」と、草履は作れないのです。
沢では石をおこすと「沢ガニ」や小さな「さんしょう魚」もとれるので沢山とって焼いて、おやつにしたり、蛇を焼いたのと一緒に保存食にしたのです。
※また、夏の内に(土用の頃)大きなミミズの腹を割いて川で洗い天日干して煎じて飲むと熱さまし(解熱剤)になると、バーちゃんから教えてもらい二人で沢山つくりました。
河原には多くのカヤが生えていてそれを刈り取って乞食小屋の吹雪対策用の「カマスあみ」も楽しかった思い出です。
※現在では想像できないですが、当時は蛋白源として「あしなが蜂」の巣をとり中の幼虫を焼いたものやシマ蛇を焼いておやつにしていたのです。
※しかし、私が小学校生になってから間もなく、川遊びが始まる前に別れがきました。遠くで手を振っていたのを覚えていますが、その後の消息は分かりません。
なんせ、祖父母のもとで子供なりに平穏に思えた環境から激変する中に放り出されたので、感傷に浸る暇が無かったのです。
小学校で4回転校する第1回目の事であり、五黄土星の生まれに与えられた試練の始まりでした。