「政治についての誤解と思い込みを払拭し、政治を取り戻すべく」まとめられた「政治学入門」。このご時世、自分と接する政治を疎かにするわけにはいかない状況であることはひしひしと感じつつも、政治という言葉そのものに嫌悪感を覚えてしまい、つい顔を背けてしまう(自分の)現状を改善することができるかどうか? と思い、読んでみた。愛読しているコラムニスト氏が紹介していたというのも理由の一つ。
まずは「政治に対する思い込み」である「暗くて汚い」「カネがかかる」「偏っている」「関係ない」の「4K」を払拭する。人間は、聖者も善悪も名案も併せ持つ存在であり、政治はそんな「人間のすべての問題を扱う」からこそ暗いのである。そして意外に見落としがちなのが「政治と道徳は同列に考えることができない」という現実であろう。ある行動が正しいかどうかは、政治のゴールをどこに置くかによって変わってくるのだ。ある人が政治的な意味において自分の立場を貫くということは、公共の利益に照らしたうえで、本当の意味での「無私」での行動ができるということだ。
また「カネがかかる」ということは、経費としてかなりのカネが必要なのはわかるので、そのこと自体が悪いわけではない。政治家以外の人々から見て「政治で儲けたカネで私腹を肥やしている」ように見えるのが問題なのだと思うのだが……
著者の言う政治とは、「世界に対する自分の立ち位置を部分的に開示すること」であり、それはつまり「この世の解釈をめぐる選択を、あくまで言葉を通じて不特定多数の他者に示すこと」である。実体としての存在ではない「現実」を、自分の言葉によって造形する、それこそが政治なのである。このへんをわかりやすく示すためにオーウェルの「一九八四年」が引き合いに出されており、言葉を最小限に抑える(=公用語としてのニュー・スピーク)ことによって支配体制が強固になっていることを指摘する。つまり言葉を支配することは、それ自体が政治的な支配になりえるということでもある。
だから、同じ数字であっても、同じ背景であるはずであっても、「解釈」の仕方で表現はいくらでも変わり、その言葉を受け取る相手に与える印象もいくらでも変わる。最近物議を醸した「解釈改憲」も、そのひとつではないかという気がする。
そしてさらに最悪であるのが「沈黙の調達」とされる、選択肢を狭めることとその選択肢を正しいものだと認識させることによって「有無を言わさない」状況を作り出す、「行為の指定が成功する」状態である。これにより「言葉が存在しない」=「政治など存在していない」と思わせるという、「政治の最高かつ危険な機能」。この流れは、「北」のいわゆる「主体思想」に酷似しているという寒しさを感じるのは私だけだろうか。
そしてもうひとつ。何とかしたいと思っても、人ひとりの力ではどうにもならない状況に対し、「最良の選択ではなく、最悪を避けるために『力添え』をすること」が政治でもあると著者は言う。選挙では、投票したい候補者がいないから投票しない(あるいは白紙投票をする)というのは、逆に「最悪の候補者を当選させてしまう」ことにつながってしまう可能性を持っているのだ。だから、政治を作る末端に参加することは決して無意味ではない。
人は政治と無縁に生きてはいられないことを理解すべきである。自らの言葉を自らの意志によって発するべきである。言葉をぶつけ合うことからしか論議は生まれない。論議のないところに、発展はないのである。
まずは「政治に対する思い込み」である「暗くて汚い」「カネがかかる」「偏っている」「関係ない」の「4K」を払拭する。人間は、聖者も善悪も名案も併せ持つ存在であり、政治はそんな「人間のすべての問題を扱う」からこそ暗いのである。そして意外に見落としがちなのが「政治と道徳は同列に考えることができない」という現実であろう。ある行動が正しいかどうかは、政治のゴールをどこに置くかによって変わってくるのだ。ある人が政治的な意味において自分の立場を貫くということは、公共の利益に照らしたうえで、本当の意味での「無私」での行動ができるということだ。
また「カネがかかる」ということは、経費としてかなりのカネが必要なのはわかるので、そのこと自体が悪いわけではない。政治家以外の人々から見て「政治で儲けたカネで私腹を肥やしている」ように見えるのが問題なのだと思うのだが……
著者の言う政治とは、「世界に対する自分の立ち位置を部分的に開示すること」であり、それはつまり「この世の解釈をめぐる選択を、あくまで言葉を通じて不特定多数の他者に示すこと」である。実体としての存在ではない「現実」を、自分の言葉によって造形する、それこそが政治なのである。このへんをわかりやすく示すためにオーウェルの「一九八四年」が引き合いに出されており、言葉を最小限に抑える(=公用語としてのニュー・スピーク)ことによって支配体制が強固になっていることを指摘する。つまり言葉を支配することは、それ自体が政治的な支配になりえるということでもある。
だから、同じ数字であっても、同じ背景であるはずであっても、「解釈」の仕方で表現はいくらでも変わり、その言葉を受け取る相手に与える印象もいくらでも変わる。最近物議を醸した「解釈改憲」も、そのひとつではないかという気がする。
そしてさらに最悪であるのが「沈黙の調達」とされる、選択肢を狭めることとその選択肢を正しいものだと認識させることによって「有無を言わさない」状況を作り出す、「行為の指定が成功する」状態である。これにより「言葉が存在しない」=「政治など存在していない」と思わせるという、「政治の最高かつ危険な機能」。この流れは、「北」のいわゆる「主体思想」に酷似しているという寒しさを感じるのは私だけだろうか。
そしてもうひとつ。何とかしたいと思っても、人ひとりの力ではどうにもならない状況に対し、「最良の選択ではなく、最悪を避けるために『力添え』をすること」が政治でもあると著者は言う。選挙では、投票したい候補者がいないから投票しない(あるいは白紙投票をする)というのは、逆に「最悪の候補者を当選させてしまう」ことにつながってしまう可能性を持っているのだ。だから、政治を作る末端に参加することは決して無意味ではない。
人は政治と無縁に生きてはいられないことを理解すべきである。自らの言葉を自らの意志によって発するべきである。言葉をぶつけ合うことからしか論議は生まれない。論議のないところに、発展はないのである。
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