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偏愛と放浪の記録

「裁かれた命 死刑囚から届いた手紙」(著:堀川 惠子)

2017-06-27 23:58:51 | 【書物】1点集中型
 その昔「死刑の基準 『永山裁判』が遺したもの」で考えさせられたので心して臨んだが、今作もその取材の綿密さたるや相当なものだった。
 発端は、ある検事のもとに届いた、検事自身が死刑を求刑した犯人その人、長谷川武からの便りである。恨み言を連ねたものかと思いきや、感謝の言葉さえ綴られたものであった。「お世話になったお礼を一言申し述べたくて」という長谷川の真意を測りかねたその担当検事、土本武司氏に対し、著者は「長谷川君がどんな人物で、どうして手紙を書いてきたのか」調べることを持ちかけたのである。

 手紙が出された経緯を追うことは、当時、彼と何らかの形で関わりがあった人々の言葉から長谷川武という人間を再構築することだった。「猫のように大人しく、とても感じのいい青年だった」長谷川。彼の生涯に関わった人々は、彼に幾許かの影響を与えるとともに、彼の犯した罪と裁かれた結果から影響を受けることになる。
 彼の職人としての腕を惜しむ自動車工場社長、一審の裁判官、控訴以降の彼の弁護を請け負った弁護士、拘置所の職員、そして長谷川自身の母親、さらには長谷川自身とは面識のない彼の実の弟。実に多くの人々がいて、長谷川に対するそれぞれの思いがある。時には、それ以降のその人の考え方や生き方にも影響を及ぼす。罪と罰は、決して罪を犯した者だけのものにはならないのだと感じた。

 勿論、被害者側の苦しみは筆舌に尽くしがたいはずである。しかしこの本は、「そして、私たち」にあるように敢えて被害者側の人々の心理に踏み込む取材はされていない。被害者感情を無視することは到底あってはならないことだが、それでも死刑は「国家による報復」であってはならないということも肝に銘じておかねばならない。土本氏が立ち会った死刑執行(長谷川の刑ではない)の描写を見れば、絞首という執行方法が果たして国家の下す刑罰としてふさわしいものなのか、思いを致さずにはおれない。死刑は、国家の名の下に、人に人を「殺させる」行為でもあるのだ。

 「死刑というのは、(中略)単なる謝罪という次元を超えた最大の償いなんです。命を差し出すのだからこれ以上のことはない。それに対して謝罪してほしかったというのは本来、筋が通らない話です。それほど死刑というものは重いものであるはず」
 「犯人がどんな残虐な行為をしたとしても、国家は決して同じことをしてはならず、残虐ではない人道的な方法で罰を与えねばならない」


 これらは土本氏の言葉である。土本氏は元来、死刑廃止論者ではないそうだが、それでもこのように考えている。私自身、現状では死刑という刑自体を個人的には否定しようとは思っていない。ただ、こうした土本氏の考え方には納得できる。反面、死刑になりたいからという理由で残虐な事件を起こしたような犯人に対し、死刑をもって報いるのが本当に正しいことなのかどうか、という疑問も当然生じるわけである。
 かように、刑罰の問題とは、画一的な答えの出せない問題である。筆者は言う。

 「死刑制度を支えているのは、(中略)その責は、法治国家に生き、その恩恵を享受している私たち市民ひとりひとりにあります。私たちは忌み嫌われる仕事を一部の人に押し付けて、決して愉快ではない議論から目をそらしています」
 「人を裁くということは本来、『罪と罰』のあり様を考えることでもあります。実際に絞首刑は残虐なのか、残虐でない死刑はありうるのか、死刑によって何が解決されているのか、真剣に議論する必要があります」


 完全ならぬ人が人を裁くことの重大さに今作でもまた向き合わされたし、死刑存置・廃止だけでなく、死刑であれ懲役刑であれ、刑そのもののあり方についても考えねばならないのだと思う。