雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

 二輪車新聞社 衛藤誠さんのこと

2020-02-16 04:50:51 | カワサキワールド

★ 衛藤 誠さん、 二輪車新聞の記者さんである。
 1959年(昭和34年)二輪車新聞創刊と同時に入社され、61年間勤務されていたのだが、
この2月末を以って退社されるというご挨拶を二輪車新聞の代表取締役木村様から頂いた。

カワサキが二輪事業をスタートさせたのが1960年(昭和35年)だし、
私が単車営業部に配属されたのが1961年なのだが、
その時には衛藤さんはカワサキの担当として既に出入りされていたのである。

2007年に『衛藤誠さんのこと』というこんなブログをアップしているが、
 

衛藤さんとは以来60年間のお付き合いで、
今回の退社に関しても、つい先日ご本人からお電話を頂いていたのである。


★ そういう意味では、私の『カワサキ単車』のお付き合いでは、
販売店の方々なども含めて、現在に至るまでいろんなお付き合いがあるのだが、
何と言っても『最長』は衛藤誠さんなのである。

単なる記者さんとのおつき合いだけではなく、
カワサキの単車事業そのものに対しても、いろんな意味でご尽力を頂いたと言っていい。
特に私はお互いに『スタート』からのお付き合いだったこともあって、いろんな意味で、具体的に援けて頂いたのである。


これはごく最近『二輪車新聞のネット版』に、
衛藤さんが『カワサキの販売網創り』を紹介されているのだが、
カワサキの最初の特約店制度実施は大阪からだったのだが、その趣旨説明を二輪車新聞のトップ記事で大々的に報じて頂いたことが、その成功に繋がったと言っても過言ではない。

       
 


その時のことを書いておられるのである。

  



★私だけでなく、カワサキの単車事業60年の間、衛藤さんはずっと大阪支社でカワサキを担当されたのだが、関西では二輪メーカはカワサキ1社であったこともあって、
歴代のカワサキの方たちと繋がっていて、まさに『カワサキの生き字引』と言ってもいい方だった。

 こんな記事も書かれていて、ちょっとその記事を抜粋してご紹介すると、
 

 
現在の「カワサキ」が、本格的な一貫生産を開始したのは、1960年(昭和35年)からだと思う。
当時は川崎航空機工業の発動機事業部。これより2年前の58年に「単車生産準備室が、設置された。弊紙創刊の1年前である。・・・・
そこでまず「単車生産準備室」を設置し、組み付け部品や資材の調達対策、人材の確保、二輪車生産ラインの建設など準備を進め、約2年後の1960年、遂に単車一貫生産のスタートをみたのである。
これを支えた人材は、生産技術関係は主にジェットエンジン事業部から、その他発動機事業の営業部や勤労部からなど、言うならば“寄せ集め”人事であった。・・・・

一貫生産を開始したが、なかなか軌道に乗らなかった。・・・・・・・
ところが、63年に奇跡が起こった。それは、兵庫県下・青野ヶ原でMFJ第1回モトクロス大会が開かれ、欠陥車B7の次に開発した“B8”がなんと1〜6位を独占したのだ。
この快挙に発動機事業部の志気が一気に高揚し、これを見て経営診断をしていた日本能率協会は、「単車事業部を続けるべし」の答えを出し、単車事業の再建が図られることになったという。・・・・・・
後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」とおっしゃっていた。・・・・
そうして65年には、単車事業本部に格上げとなり、本部長には本社の常務取締役の役職にある岩城良三氏が就任した。この岩城本部長により米国現地生産の“リンカーン工場”建設が進められた。

   

さて、これまでのカワサキの生い立ちをあれこれと綴ってきたが、ここで書きたかった本題は、カワサキが本格的に一貫生産をスタートさせてから約10年間の激動の時代を支えた“カワサキマン”たちの話である。

この時代を生きた人たちは、現在もなお強い絆で結ばれ、ほぼ毎月、神戸・灘の酒蔵(料亭)「酒心館」に集まっている。
この会は既に10数年以上続いているが、主宰者は桑畑禎文氏で、・・・・事務局の世話係を務めているのが野田活志氏で、・・・・・特別な議題があるわけでなく、“来たい人がふらっと来て”美味しい酒を飲み、昔話に花を咲かせるといった会である。
メンバーには2年前逝去された高橋鐵郎氏もいたが、今なお元気な田崎雅元氏(元川重社長)・大前太氏・川崎芳夫氏・古谷錬太郎氏・野田浩志氏・井川清次氏・北村敏氏他。・・・・・
変わったところでは、元伊藤忠商事社員で、カワサキフランス(KMF)社長などを歴任し、ルマン24時間耐久レースへのエントリーにも貢献した遠藤治一氏も。・・・・
なお、16年にメンバーの高橋鐵郎氏死去にあたっては、「酒心館」でメンバーによる「偲ぶ会」も開かれた。

   

などと書かれていて、60年間のカワサキのことよくご存じなのである。


★ 今でこそ順調に育っているのだが、
大分県直入町に日本で初めての『一般ユーザーが走れるサーキットSPA 直入
の開拓は1987年当時私と岩崎茂樹との二人でスタートしたのだが、
その現地調査を含め、いろんな意味で手伝って頂いたのが衛藤誠さんなのである。

衛藤さんは大分県のご出身で、その故郷の地にカワサキのサーキットが出来ることに賛同して頂いて、その情報発信で大いに援けて頂いたし、勿論『オープンセレモニー』にもわざわざ足を運んで頂いたのである。

大阪の『特約店制』のスタートの時もそうだったが、
世の中で初めてのこと』の場合は、第3者が客観的な立場で記事を書いて頂くことが、非常に機能するのは間違いないのである。

そんな長い衛藤誠さんとカワサキのお付き合いだったのだが、そんな衛藤さんともこの2月でお別れなのである。

 衛藤さん、60年間、本当に有難うございました。

 
 

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