雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話 2

2019-09-09 06:16:08 | カワサキ単車の昔話
★昨日『カワサキ単車の昔話』をご披露したら、皆さんの反応も良かったので、
 あの当時のあまり皆さんご存じない話を。

 これも『J1での富士登山』をやった福田康秀クンも叉絡んでいるのである。

 昭和39年(1961)年の話で、当時のカワサキは日活と身近な関係にあって、日活映画にはよくカワサキが登場していたのである。

 『花咲く乙女たち』 という映画のロケが岐阜県尾西市であったのだが、そのロケにカワサキの車を提供したのだが、若し止まってしまった時のために、サービスを一人つけて欲しいと仰るのである。
 それを福ちゃんに頼んで、私も一緒に現場を見に行ったのである。


 『花咲く乙女たち』 と 
 Google 検索するとこんな写真が現われるから不思議である。 


  
 


尾西市で行われたロケには、当然主役の舟木和夫なども来ていて、日活の映画館が是非舞台で挨拶を、などと交渉していたり、
当時はめちゃ有名だった『喜劇俳優堺俊二』の息子の堺正明も下っ端で来ていて『堺俊二の息子』も出てるなどと思ったりしたのである。

    

 
現地では特に何もなくて、当時の日活の笠井プロデユーサーに映画界の話などいろいろ聞いたりして、福ちゃんと二人、いい旅館に泊めて頂いて、違う世界を経験したりしたのである。


★そんな日活との関係が続いていた昭和39年(1961)だが、
 たまたま明石日活に『風と樹と空と』という吉永小百合・浜田光夫主演の映画上映があって、『浜田光夫が挨拶に来ている』という話を聞いて、

   

 
突然、明石日活に行き、
浜田光夫に『明石工場に来ませんか?』と誘ったら、『お伺いします』と仰るのである。
   
 

    

 
この年の7月14日のことだが、
当時の大スター 浜田光夫と松原智恵子がカワサキの明石工場にやってきたのである。

 そんな突然の話だったが、当時の塚本本部長に対応して頂いて、その録音を録ろうとしたのだが、録音器を持ち込むのがほんの少しだが遅れてしまったのだが、
 浜田光夫は、全く自然に『最初の挨拶』から頼みもしないのに『やり直して』くれたりしたのである。
 そんな対応が自然に出来るのは『流石だな』と今でもそう思っている。

 そんな話の後、『テストコースで単車に乗りませんか?』 と言ったら『乗ります』と言われて、テストコースにご案内したのだが、
浜田光夫が来るらしい』とは、いろんなところに伝わっていたらしく、
テストコースはちょうど発動機工場の横だったので、発動機の女工さんたちがラインを離れて、群がって見に来たものだから、発動機のラインが止まってしまったのである。
 当時の勤労部長に文句を言われたりしたのだが、
これは発動機の管理体制の問題で、文句を言われる筋合いはないと思ったりした。

 今思うと、『よくやったな』と思うし、浜田光夫も『よく単車に乗った』ものである。
 どのように『お礼をしたらいいのか?』よく解らなかったが、3万円を謝礼に包んでいる。 3万円か?と思われるかも知れぬが、その年の私のボーナスが6万円の時代なのである。

 浜田光夫には、明石日活の劇場の壇上では、カワサキのバイクの話を詳しく話して貰ったし、広報担当の私としては大満足の出来事だったのである。



★昨日の『J1の富士登山』の話もそうだが、
 『咄嗟の判断』で動くことが大事だな、と思っている。

 この『浜田光夫』の件も、前日に課の女子社員が『浜田光夫が明石日活に来るらしい』という一言で、始まっているのである。
 日活を訪ねた時は、まさか『明石工場にやってくる』とは全く思ってもいなかったのだが、動いてみないとできるものも出来ないのだということは、こんな若い時代に経験できて、 私自身はこんな『咄嗟の判断』で動くことは多いのだが、段々と勘が
よくなって、『実現力』に繋がっていると思っている。

 そういう意味では、『計画』が動きをツマラヌものにしているような気がする。
 企画畑も長かったので『計画』はよく創ったが、その通りにやるので、オモシロくならないのだと思っていて、刻々と世の中は変化するので、その変化に合わせた『計画の修正』が一番大事だと思っている。

 カワサキの創生期は、単車が新しい事業だったこともあって、若い人たちが第1線で『咄嗟の判断』が許されるそんな体制だったので、カワサキ自体がオモシロく育っていったのだと思っている。

 
★そんな昭和39年だったが、『源平芸能合戦』でテレビ出演したのもこの年の8月のことで、この年は『イベント屋』みたいな動きをしている。
 この時も、本社の岩城部長以下が応援してくれて、ホントに当時の川崎航空機はオモシロい会社だったと思っている。

  

 こんなブログに、その『さわり』だけをアップしているが、
 応援団で手伝ってくれたのは、後川重社長にもなった田崎雅元さんである。
 

 オモシロいと思うので、時間のある方は、お読みになって下さい。

 
 昭和39年(1961)は私は29歳、まだ30歳前の若手だったが、いろんなことが出来て、この1年は、結構オモシロい年だったように思うのである。
 川崎航空機という会社自体が『若かった』のかも知れない。


 


 
    


   

 
    
 
  


   

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