雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキアーカイブス と 私のアーカイブス

2019-06-20 16:48:11 | カワサキ単車物語50年

★ いまカワサキでカワサキの二輪事業のアーカイブスを作成中で、私もその一人に選ばれて、今年の2月にインタビューを受けたのだが、この度編集完成して、家まで届けて頂いたのである。


   
 
 2時間ほどのインタビューだったが、それを1時間10分ほどに纏められていて、なかなかオモシロい内容に出来上がっている。

 私自身は昭和36年(1966)の単車事業スタートから平成9年(1997)までの31年間を一貫してカワサキ二輪事業に従事していたので、自分史みたいなところもあるのである。

 その間、結構事業の真ん中にいたこともあって、この30年間のカワサキの出来事をこんな資料に纏めて持っていて、このインタビューもこんな資料に基づいたものになっているのである。

   


 今回のアーカイブスの担当部門の方が、『この資料』を貸して欲しいと言われたので、2月からお貸ししていたのだが、それも昨日戻ってきたのである。
 こんな資料は多分どなたもお持ちでないので、貴重なのである。 今回、その中から必要なものは会社として残されたようなので、実はホッとしているのである。

 これは勿論私にとっても貴重なのだが、量が多すぎて今後多分処理に困るだろうとも思っていたので、この際整理して、3冊に纏めてしまったのである。
 現役の時からずっと思っているのだが、『整理ができない』人は資料を持ちすぎて『捨てない』から、結局は『整理ができない』のである。

 今回、アーカイブズも出来たので、この3冊に整理してしまった。

  


 従来の資料の現物ももちろんあるのだが、このように年度ごと、月毎、日付ごとに既に整理してあったので、それだけに纏めたら、ちょうど3冊のファイルに納まったのである。
 コレで昭和32年4月1日の入社当日から平成9年の現役最後の日までの31年間が、日単位で見ることが出来るので、これはカワサキの二輪事業の歴史であると同時に、私の『自分史』の一部だと思っている。

 こんな資料に纏めることが出来たのは、20歳の大学2回生の時にスタートした日記が、86歳の今も続いているので、この資料も日記をベースにチェックしてあるので、まず間違いはないはずだと思っている。

★ ところで『カワサキアーカイブス』の製作は昨年スタートして未だ途中のようで、今のところ田崎雅元さん・大槻幸雄さん・稲村暁一さん・川崎芳夫さん、百合草三佐雄さんなど私が今でも親しくお付き合いのある方の他、10人ちょっとのインタビューが終わってはいるようだが、まだまだ続いて行くのだと思う。
 
 それぞれの方たちがそれぞれの想いで『カワサキを語られる』ので非常にユニークなものに仕上がるだろう。インタビューの時間も1時間近くに編集されているようで、それなりの独特なものに仕上がっていくはずである。

 非常にユニークな取り組みで、インタビューをされている方の人選を見ても、別に職位には拘っていないようである。
 如何にもカワサキらしい取り組み方で、なかなかいいなと思っているのである。
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昨日は カワサキインタビューだった

2019-02-16 05:50:24 | カワサキ単車物語50年

★カワサキが二輪生産の一貫工場を明石に造って、『単車事業』をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだからもう60年にもなろうとしているのである。

 そんなカワサキの単車事業の歴史を纏めようという取り組みが昨年あたりから始まって、当時を語れるOBたちに、昔の思い出話を聞こうかというプロジェクトなのである。

 そんな担当部門の方と、インタビュアーとしては発動機からアメリカリンカーン工場などにも出向された、山田淳一さんが担当なのである。

 山田さん、東大出の秀才なのに、彼のFacebook  https://www.facebook.com/yamadajack  をご覧になってもお解りのように、なかなかオモシロい人なのである。

 白髪なので、お年を召しているのかと思ったら、未だ50代の ぱりぱりなのである。

 

  

 

 今回、初めて仕事らしきやり取りをやらして貰ったが、それはなかなかのものだったし、事前の私へのマーケッテングも的確で、それに準じた質問内容になっていたのである。

 場所は、三木のNPO The Good Times の事務局がある Good Times Plaza

 

   

 

こんな本格的な装置で、ブルガリア人だが日本語ペラペラのプロのカメラマンの撮影だったのである。

 

   

 

  地図を添付したのは、『ブルガリア』と聞いてどこにあるのか解らなかったので『ブルガリアって、どのあたりですか?』と私が質問したものだから、皆さんはご存知かも知れぬが、こんなところにある国なのである。

 写真撮影も、めちゃめちゃ早い『速写』なので『そのカメラ幾らするのですか?』と聞いたら、『30万円ちょっと』とさらっと答えられて、やはりプロの持つものは違うなと思ったのである。

 有名なカメラマンだそうである。

 

    

     

  昨日、カワサキ側から来られたメンバーは、こんな方たちである。  

 

      

 

  約2時間の取材だったが、編集して1時間に纏めるそうである。

 事前に聞いていた、いろんな質問に対して、『すべて本音』でお応えしてるので、正規のものは『ちょっとCUT』が必要だろう、でもほんとは『カットされるであろう部分』がオモシロいのだと思う。

 

 この写真も以下の写真も、陪席して頂いたNPO The Good Times の登山道夫さんに写して頂いたもので、登山さんはご自身のFacebook に、

午後からは耳をダンボにして、興味津々なお話を聞かせて頂いてました♪  今日も楽しい1日でございましたよd(^_^o)』

 と書かれてるので、どんな話だったかは登山さんにお聞きになると、『カットされるかも知れぬ部分』もお聞きになれるかも知れません。

      

     

 

 私もビデオになるとか聞いたので、いつもとはちょっと違う、現役時代に幾らか近づいた感じになってるな、と自分でも思います。 

ただ、どんな場合でも『緊張したり』することは皆無なので、いつもの通りだったと、自分では思っているのだが、果たしてどうだったのでしょう?

 

     

 

★最後に、座右の銘は?  後輩に対して言いたいことは というご質問でしたので、

 

● 座右の銘は、緒方竹虎さん(吉田茂内閣の副総理)がどこかで語られていた

 『人の不幸を喜ぶ者は、自らの無力を恥じよ』という言葉と

 

● 後輩対しては、1975年にアメリカで創られたが、3年程で消えてしまったので、20年程後1990年代の初めに、国内販社で復活し髙橋鐵郎本部長が世界に展開され、さらに田崎雅元さんが川崎重工業の社長になられた時に、川崎重工業の基本コンセプトにされて、その後20年続いていた

 Kawasaki.Let the good times roll!をぜひもう一度単車事業部では復活して欲しいと結んだのである。

 

 ひょとしたら、そんなこともあるかと、10年前に登山道夫さんたちと

 NPO The Good Times を立ち上げて、この精神を広く世の中に伝えていこうとNPO法人にしているのである。

今は理事長を山本隆さんに譲って相談役となっているが、既に他界されてしまったが髙橋鐵郎さんはNPO The Good Times の初代相談役だったし、田崎雅元さんも、大槻幸雄さんも現役会員さんなのである。

 

Kawasakiに出会う人たち がハッピーになるような活動を、カワサキはずっと続けます』と髙橋さんは訳しておられたが、

NPO The Good Times に出会う人たちがハッピーになるような活動を展開したい』と思っているのである。

 それが、ホントの意味の  広報活動=PR=Public Relations=社会に於けるいい人間関係創り なのである。

 PR =Public Relation を『広報』と訳したばっかりに、日本では『広報』をちゃんと理解している方は少ないのである。

 NPO The Good Times も、私の現役時代の活動も、今も『私は真の広報活動』をしている積りなのである。

 これが一番今の 現役後輩たちに 伝えたいことなのである。

 今日の話の最後は、こんなお話で結んだのである。

 

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アーカイブス  雑感

2018-12-20 08:19:52 | カワサキ単車物語50年

★『アーカイブス』とはどんなことなのか? ちょっと調べてみたらこのような記述があった。

アーカイブ (archive) とは、日本では一般的に書庫と訳されることが多いが、元来は公記録保管所、公文書、または公文書の保管所、履歴などを意味し、記録を保管しておく場所である。

保存記録としてのアーカイブ
アーカイブの複数形としてアーカイブズがあり、文書保管を目的とした施設や仕組みを指す。なお、過去に放送された番組や関係資料の所蔵・閲覧を目的とした映像拠点として2003年に埼玉県川口市にオープンしたNHKアーカイブスの「アーカイブス」は、「アーカイブズ」では末尾に濁音が続き発音しにくいために、NHKによってつくられた造語

 

★ 突然なぜ『アーカイブス』なのかというと、田﨑雅元さんから、こんなメールと、田崎さんの資料が送られてきたのである。

私の アーカイブス は ビデオ撮りも終わり、ヒストリーメモ も、ほぼ校正が終わりに近づきました。 貴方とのメール交換で80%は出来ていたので助かりました。貴方は、既に100%出来上がっているようなものですね!単車を退職した、ご存じの東大卒MBAの山田淳一さんが (株)メッセイジ オブ ライフ という会社を立ち上げ、今、カワサキ アーカイブス に全力投球中です。私と貴方が済んだら、細部の事例は別として、殆ど全体をカバーしてしまいそうですね!・・・・

 

山田淳一さんは、Z1会のメンバーで、その席でもこの『アーカイブス』のことは話しておられたので、何となくは解っていたのだが、田崎さんからこんな具体的な資料が送られてきたので、調べてみようという気になったのである。

 もうすでにこんなに纏まっているようである。

   

      

 

      

    

 こんな写真も添えられていたし、さらにこんな目次まであってそこには『カワサキ単車の歴史』が時系列に並んでいたのである。

ここにある川崎航空機時代からの約40年間は、田崎さんとは殆ど一緒に仕事をしたので、ここに書かれている項目については、大体のところは理解できて、私にとっても非常に懐かしいのである。

 

     

 

★この企画は、カワサキの二輪事業に関わった方たちから、山田さんが直接話を聞いて、カワサキの単車の歴史の記録を纏めようと取り組まれている『大仕事』で、今年から既に進んでいるようで、Z1会のメンバーに対しても、協力のお願いがあったりしたのである。

 私自身も、このような『記録』には、非常に関心があって、日記は60年も続いているし、カワサキの資料も自分なりにいっぱい整理して持っているのだが、それでも、昔のことを正確に思い出すのは大変なのである。

 田崎さんとは、今年になって過去の話の『やり取り』が続いていたので、『80%は纏まっていたので助かった』と言われているのだが、ホントにその通りで私が今取り組んでいる『カワサキジェットスキー物語』も、福井昇くんや、松口久美子さんに援けて貰って、やっと何とか時系列にほぼ正確になってきたのである。

 私自身の記録というか、カワサキの単車の歴史50年は、このブログにこんなカテゴリー別にアップしているのである。

   最近のネットはホントに良くできていて、以下をそれぞれクリックすると「読める」とはビックリなのである。

 

  こちらは日記から纏めたものだが『私の履歴書』として『20代から70代までの60年間』の粗っぽい、まとめで、一番詳しいのは日記だが、それまでに3段階ぐらいで、纏まっているので、田崎さんは『100%出来上がっているようなものですね』と言われているのである。

 ご覧になるとお分かりの通り、KHIと国内販社の比率がほぼ同じで、半分は出向期間なのである。 また右の方の ○印は会社としても、私としても、或は世の中でも『全く新しい仕組み』の取り組みで、殆ど生涯『新しいこと』ばかりに取り組んできたので、他の方から『引き継ぎ』を受けた経験が皆無という珍しい現役生活だったのである。

 

          

 

★ カワサキの単車事業の歴史もそのスタートの昭和35年(1960)からはもう60年近いし、逆に言うと解り過ぎていて、それを何十分かで『纏めて話す』のは、逆にムツカシイのかなと思ったりしているのである。

 先日のZ1会の総会には、私は所用で欠席したのだが、その席でも山田さんから、この『アーカイブス』のお話があったようである。この話とは別に、『カワサキの二輪の歴史』を纏めようと、KMJの方たちを中心に動いておられたのだが、これと連動しているのかな? と思ったりもしているのである。

いずれにしても、なかなかの大仕事なので、来年いっぱいに纏まればいいのだが、頑張って欲しいと思っているのである。

 

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カワサキ単車物語

2018-05-10 08:09:30 | カワサキ単車物語50年

 ★昨日、東京の浅野公一郎さんからのお問い合わせに対して、当時のことを書いたブログがあったのでリンクしたのだが、読み返してみるとなかなかよく纏まっているので、再掲してみたい。

 2013年4月28日、今から5年前のブログです。

 いまから50年前の『カワサキの販売網』がどのようにして創られたのか?

 時代は変わったが、そのベースにある発想は『カワサキの伝統』として受け継いで欲しいなと思っている。

 

 

★ 昭和で言うと20年代はバイクの中心はエンジン付き自転車で、カワサキですら明発工業に単体エンジンを提供していた時代だったのである。

昭和30年代の主力は50ccのモペット、その販売は全国に4万店もあったと言われた自転車屋さんで販売されていたのである。

『販売』と言ったが、正確に言うと販売ではなくて、自転車屋さんがお客さんに取りついで、その取次手数料を払うと言う『委託販売制度』だったのである。

『委託販売』とは、自転車屋の店頭にバイクを置いてもらって、それが売れたらお客とは直接地方代理店(メインデーラー)が販売し、自転車屋さんにはその『取次手数料』を支払うと言うシステムなのである。自転車屋にとってみれば、店先にバイクを置かせてあげて、客が付いたらマージンが貰えると言うそんな仕組みで、何のリスクも負担もないのである。店の面積は限りがあるので各地方代理店はそんな場所取り合戦をやっていた時代なのである。

そんな自転車屋のことを通称『サブデ―ラ―』の『サブ』と呼び、地方デーラー(メインデーラー)は、メーカーとの間に挟まって大変な時代だったのである。

サブ殿さまのデーラー乞食』などと囁かれていた、そんな時代だったのである。

昭和40年代に入って、ようやくCBやA1などスポーツ車も世にでるようにはなったが、二輪の販売形態はそのまま、自転車屋が主力の委託販売制度が続いていた。

今のようにお金の回収が容易な時代ではなくて、田舎では盆払いだとか、秋のお米が採れたらその代金でとか、銀行には通用しない私制手形みたいなのまであって、その回数も長いし、『モノを売ってもなかなかお金に変わらぬ』そんな時代が長く続いていたのである。

 

★A1、W1につづいてマッハⅢなどの新機種の発売が続いて、ようやくスポーツ車が都会では人気の出始めた昭和44年(1969)ごろからカワサキだけが、それも東京だけで、スポーツ車を中心の販売網構想から、都内を約60店に絞ったカワサキ独特の販売網を敷いたのである。

城東カワサキ、城南カワサキ、城西カワサキ、城北カワサキ北多摩モータースなどの懐かしい意気盛んな時期だったのである。

この新しいシステムを展開されたのは、当時東京を担当されていた茂木所長の発想で、茂木さんの強烈なリーダーシップで実現したのである。

東京でこのような新システムがスムースに展開出来たのは、大東京の市場の大きさがあったからで、その他の地域では、自転車屋さんからの販売網の脱皮はそんなに簡単ではなかったのである。

ホンダ、スズキ、ヤマハなどにとっては、国内の販売の主力は圧倒的に50ccモペットだから、委託販売の自転車屋主力の販売方式からの転換など考えられなかったのだろうと思う。

 

 

北多摩モータースも、城東城北などの名前も見える)

 

昭和44年に3社合併があり、川崎航空機から川崎重工業となって、今後の単車事業の展開を中大型スポーツ、海外市場特にアメリカ中心に展開するという方針に転換した時期でもあったのである。

それまでは、B8からB1などが中心の『実用車のカワサキ』であったし、その主力市場も、九州や東北といった地方が販売台数でもリードしていたのだが、1970年代に入って、従来一番弱かったと言われた大阪市場など注力することになり、私は仙台から大阪へ異動となったのである。1970年(昭和45年)大阪万博のあった年である。

それから約5年間、国内のカワサキは国内市場に於いて、全く新しい特約店制度展開の時代に入るのである。

 

★ 毎年日本一の実績を続けていた岩手カワサキなどの販売網は、自転車屋ベースだが、それなりにカワサキに対しても忠誠心もあったのだが、大阪に来てみると、販売網らしきものは殆どなくて、取引店の数は500店とか600店とか何店あるのか解らないほどあるのだが、年に部品を何点か購入してくれるようなところも入っていて、カワサキへの忠誠度などは殆どないそんなお店ばかりであった。

当時の中心店、船場モータースの岡田博さんなども、どちらかと言えばスズキが中心で、

『仙台ではどうだったか知らぬが、大阪でのカワサキは、「ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ」ぐらいだね』 などと言われてしまうような状況であったし、販売台数もお隣の兵庫県は地元で、平井稔男さんなどが頑張っていて、大阪よりははるかに多い販売台数を誇っていたのである。

まず特約店制に入る前に、カワサキシンパの店を創るべく『カワサキ共栄会』を組織して対策に入ったのである。この共栄会のメンバーを大阪の全販売店600店の中から選んで組織化をし、その会長を船場モータースの岡田博さんに務めて頂いたのである。

その選定は店の大きさなどよりは、店主の人物中心に、カワサキから見れば、育て甲斐のある考え方の確りした店という選定基準で徹底した。

二輪の販売網は4輪と違ってネット販売、販売網というシステムで売る訳だから、その中心の店が弱体であったのではどうにもならないのである。

なぜあんな田舎の岩手が毎年ダントツの日本一の実績を続けるのか?

それは岩手の久保克夫社長のトータルシステムの発想と、その販売網なのである。最初の営業経験で久保さんに会えたのが、その後の私の人生の基本的な発想のベースになっていて、そういう意味で久保克夫さんは恩師だと思っている。

 

★大阪商人はエゲツイなどと、よく言われるが口は悪いが結構本音が通るところだと思う。最初はマージンの額の多寡みたいなことばかりを言うものだから、営業所の仕入れ値を教えたら、その後一切マージンの額の話はなくなった。

共栄会の25店で大阪の600店全体の60%を売るような実績になったら、その時点で25店の特約店制に移行する、と宣言したら一挙にお客から『仲間』に、そして『同志』に変わっていったのである。会長の岡田博さんは、わがことのように先頭に立ってこの制度の実現に尽力して頂いたし、当時はホントに小さな店だった、伊藤モータース、今の忍者の伊藤さんなど熱心を通りこして熱烈だったのである。

共栄会時代を約2年を経て、まず大阪、京都、愛知の3県から特約店制度はスタートしたのである。

 

その特約店制度とは、

● 特約店契約を締結した店以外とはカワサキは取引しない

● 特約店契約を締結する店は担保の提供、または保証金の積立をMUST とする。

● その最初の契約は甲乙平等の立場で、1店1店、店の希望なども入れたもので、一律に印刷された約款のようなものではなく、手書きのモノからスタートした。

● 大阪で言うと600店の店を25店に、京都では京都市以外は宇治カワサキの1店だけで京都府全体で10店ほどの徹底したスタートだった。

● 台数契約ではなく『金額契約』とし、取引価格も一応の基準はあったが、1店1店、店の希望を入れたものであった。

● 中大型車で金額も張ることから原則『委託』としたが、担保の提供のある店には買い取りも、手形による支払いも許容した。

● 特約店を育てると言うコンセプトであるから、特に財務面の徹底した経営指導を行い、これにより店の経営内容は飛躍的に改善が見られた。

● お客とはユーザーのことを言うのであって、特約店はお客ではなく、仲間、同志という認識であった。

この特約店制度がスタートたのが40年前で、カワサキの名車Zの販売された時期になるのである。特約店制度の展開にZの果たした役割も大きかったし、一挙に店の規模を大きくしていったところも現実に多いのである。

上記の中で特筆できるのが、担保の提供と保証金の積み立て制度である。担保提供した店や保証金が一定額に達した店は『手形発行』を可能とし、通常の利率の適用をOKとした。 当時の金利は『アドオン方式』と言うべらぼうに高い金利が二輪や4輪業界では一般的だったのである。担保はともかく、保証金はお金など持っているわけはないので、3年とか5年とかの長期分割の手形支払い方式であった。これはその後販社にとっては資金繰りに効果したし、特約店にとっては利益蓄積として機能したのである。

 

この最初の時期に特約店契約を結んだ店で、現在も頑張っている店としては、

●大阪では株式会社忍者、当時の伊藤モータースだったり、

名古屋のミスターバイク  当時の店名は春日井スズキ(斎藤さん)という小さなお店だったのである。

●岡崎では、今は世界一のバイク販売店かも知れないレッドバロンの前身ヤマハオートセンター(杉浦斎さん)が、当時は岡崎1店だけで、店をスタートさせたばかりだったのである。

 伊藤さん、斎藤さん、杉浦さん、それぞれなかなかのうるさ型で仕事ではいろいろとあったのだが、私は結構仲がよくていいお付き合いをさせて頂いている。40年経つと立派になるものである。

 

★そんな特約店制度は、世の中によくある全国一斉の実施ではなくて、大阪、京都、名古屋からスタートし、その後兵庫、さらには広島、千葉、福岡、などと大きな県から順次『特約店説明会』を開催し、その趣旨に共感する店だけで1県、1県順次展開していったのである。

 ●まず、各地の責任者が共感し『やる』と自ら手を挙げたところからの順次実施で、現地の責任者が『やる気』であったこと

●全国展開の実務担当として、当時、古石喜代司くんが非常に細やかに現地と繋いでくれたのである。

●『特約店説明会』で、最も説得力があったのは、大阪の船場モータースの岡田博さんが、現地まで行って頂いて、特約店制について話して頂いたことである。

●そして、カワサキ側の厳しい条件ではあったが、現地の販売店のうち納得、共感された方だけが、特約店として仲間に入って行かれたのである。

 

 この最初の時期特約店制度の実現に関わってくれたカワサキオートバイ販売の中心的なメンバーは、(失念した人もいるのだが・・・)

 大阪 古石喜代司、宮本進(滋賀カワサキ)、竹内優、北村 

 京都 藤田孝明、久後淳一郎、関初太郎(モトボックスセキ)、柏原久 吉川健一(山科カワサキ)

 名古屋 鍋島英雄、南昌吾、五島頼孝(ファイブテン)平田篤郎さん達である。

推進した人たちとともに特約店として活躍してくれた人も多い。

兵庫地区は当時平井稔男さんが担当をしていて、大阪などよりはずっと多くの販売実績があったのだが、典型的な自転車屋の旧い店ばかりで、殆ど候補店がなくて、カワサキの従業員からの独立開業ののれん分け制度で展開したのである。

財満君(灘カワサキ)が第1号店で、次々にカワサキ関係者の出店が続いたのである。西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキ、加古川カワサキなど、みんなそうだし、大阪なども八尾カワサキなど全国的にカワサキ関係者からの独立が多いのも特約店制度特徴と言えるだろう。

と書いていたら、山本レーシングサービスの山本隆くんに『私が抜けてる』とオコラレタ。彼はちゃんと特約店説明会から出席したようで、その時の話をよく覚えていていろいろ話してくれたりした。

 

この特約店制度は、大阪でカワサキ共栄会からスタートして、約5年の歳月を経て全国展開がほぼ完成したのである。

全国約1000店の二輪専門店網が、ホンダ、ヤマハ、スズキさんに先んじて、カワサキ独特の制度として完成し、その後各メーカーも、同じような方向での販売形態を取り現在に至っている。

カワサキは、特約店ARK(Authorized & Reliable shop of Kawasaki)などの時代を経て、現在に至っている。

独りカワサキだけでなく、国内の二輪販売網の嚆矢としての役割を果たしたものと思っている。

 

昭和45年から、この特約店制度展開の5年間は、国内のカワサキにとってはZ2の発売があって、初めて『バックオーダー』を体験するなど、特筆すべき5年間だったのである。

私自身は、この特約店制度のほぼ完成を見て、ちょうど10年間のカワサキオートバイ販売の出向期間を終り、川崎重工の発動機事業部企画室への異動となり、また違ったカワサキの単車事業の展開を経験して行くことになるのである。

 

 

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川崎重工業120周年

2016-01-23 07:46:51 | カワサキ単車物語50年

 ★ 「かわさき」が送られてきた。

今年は、創立120周年だそうである。

120年の長い歴史の中で、昭和32年(1957)から平成11年(1999)まで約40年間 お世話になったのである。

二輪事業のスタートの時期から、企業として経験のない分野を当時担当した人たちはみな、苦労しながら乗り切って今がある。二輪事業の損失で本体の川崎重工を無配に追い込んだ危機的状況の時代もあったのである。

 

   

 

 私が入社したのは川崎航空機で、戦前エンジン工場であった明石工場は1952年の再開以来エンジン関連の歯車や、アメリカ空軍のジェットエンジン工場はあったのだが、二輪車に関してはエンジンを明発に提供はしていたが2輪の一貫生産はまだやっていなかったのである。

当時の川崎航空機には、エンジンの専門家はいたが、二輪車の解る専門家はいなかったし、メーカー体質で、マーケットの販売のことなど経験者は一人もいなかった時代なのである。

 

    

 

 この図は、時系列に事業展開を追っかけているのだが、メグロと業務提携し二輪車の一貫生産を目指して『単車準備室』が出来たのが1960年12月、実際に工場が動いてB7の生産を開始したのは1961年のことだと思う。

この二輪事業の開始時期の記入がないのは残念である。

私が当時のできたばかりの単車営業部に配属されたのは1961年12月のことだった。62年、63年は単車事業はよちよち歩きで、この事業を進めるべきかどうかの調査を日本能率協会に依頼し『単車やるべし』との結論を得て、単車事業部となり岩城常務が本部長で総力を挙げて動き出したのは1964年1月のことである。

この年の10月10日が東京オリンピックの開会式で、当日は伊豆丸の山高原でのMCFAJ 全日本モトクロスに4種目中3種目に優勝して、カワサキのレース界での明確な位置づけができたのである。

国内だけでなくアメリカ市場への進出を企図して調査に入ったのがこのあたりからで、表記されているように1968年には販売会社KMCの設立がなされている。今年はその50周年にあたるようである。

66年にA1,  69年にH1, 72年にZ1  と中大型スポーツ車を市場に投入しカワサキのイメージを確固たるものとした。

73年には、Jet Sky をKMCがアメリカ市場で販売を開始している。

当時日本でもJSが売られたりはしているがこれは商社がアメリカから輸入したものでカワサキ本体が扱ったものではないのだが、そのJSが人身事故を起こし国会で取り上げられ、正式な商品としての名称がなく『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりしたのである。ジェットスキーはカワサキの商品名なのである。

 

 

         

 

そんな時代を経て、74年には、ガスタービンが登場しているが、この事業を担当していたのはZ1を開発した大槻幸雄さんで、単車とジェットという2部門の部門を兼務したりしていた。

アメリカでは『リンカーン工場』がこの年スタートしているが、アメリカに工場を造ったのは多分間違いなくカワサキが初めてである。ホンダの工場進出もこの数年あとだし、4輪などもっとあとの工場進出なのである。

ひょっとしたら、日本の本格的な工場進出の第1号は、リンカーン工場かも知れない。この時期アメリカ市場を担当しKMCを設立、リンカーン工場進出の旗を振ったのは2014年11月日本自動車殿堂入りをされた浜脇洋二さんである。日本自動車殿堂には二輪からは本田宗一郎さんや鈴木修さんなどが入られている。

浜脇さんはカワサキを途中退社し、その後、BMW JAPAN の社長として、日本でのBMW販売網を創り上げたりしたのである。

大槻さんも浜脇さんも当時の職位は新任部長のころだったことを思うと、その動きは誠にダイナミックだったのである。

 

その後、1984年NInja 900 が世に出た時代は、大庭浩本部長(後川崎重工社長)が再建屋として単車事業部に赴任されていた時期で、私はその番頭役をやっていた、カワサキ二輪事業の危機と言われた時期である。その規模は川重本体を無配に追い込むようなものだったのである。

それを無事乗り切って、いまの二輪事業があると言ってもいいい

それ以降は多少の波はあったのだろうが、二輪事業も川崎重工も順調に推移していると言っていいのだろう。

1995年には阪神・淡路大震災があったりしたが、川崎重工業の現役メンバーには一人の死者もでることなかったのは、奇跡に近いような気がする。

その翌年、1996年が100周年大庭社長時代だったが、英国のサッチャー首相記念講演をされたりしたのである。これは1991年の英仏海峡海底鉄道トンネルに川崎重工が大いに貢献したこともあったのだろう。

 

★その100周年からさらに20年、私も現役引退して20年近くになる。

こうした川崎重工業の想い出話を書けるだけでも幸せだし、この40年間で身に付いたマーケッテングマインドやソフトノウハウ創り続けた仕組みの経験は、今も尚いろんな分野で活用できることに心から感謝したいのである

 

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ベタータイムスの森田伊活さんと AJの吉田純一さん

2016-01-18 07:26:11 | カワサキ単車物語50年

★現役時代カワサキの二輪事業に長く関係していたのだが、現役を引退してもう20年近くなるのにいまだに我が家には二輪車新聞とベタータイムスが送られて来る。

お蔭様で、何となく現在の二輪業界の情報が解るし、二輪普及協議会のネットニュースなどからも業界の情報が送られてくる。

ベタータイムス』は、森田伊活さんが、1980年(昭和55年)ごろ発刊されたもので、当時は車で言えば、FX400時代のことで、たまたま私は国内市場を担当していて、ずっとお世話になっていた当時の全国カワサキ会会長故小野寺和夫さんに森田さんを紹介されて、森田さんとのお付き合いが始まっているのである。

    

 

毎月1回の発刊で428号だから、もう36年も続いているのである。

当時は未だ、モペットが主体で二輪の販売網も自転車屋さんが数では主力の時代で、全国的に結構なレベルで揃っていたのは、中大型を販売する特約店制度を敷いていたカワサキだけというような時期だったのである。

小野寺さんのご紹介ということもあって、当時のカワサキの特約店1000店にこの業界雑誌『ベタータイムス』の定期購読をお願いしたのである。

そんなことで、ベタータイムスの森田さんともカワサキのお店は繋がりが深かったのだと思う。

吉田純一さんがカワサキから独立して大阪で販売店を出し、さらに今のオートバイ協同組合を大阪や兵庫などで立ち上げたのは、ちょうど相前後する時期だったのだと思う。協同組合も全国一斉に立ち上げたのではなく、共感する地域から一つ一つ地道に立ち上げて今に繋がっているのである。

それは、『ベタータイムス』との2人3脚のような形で、広がっていったと言っていいのだろう。

 

★ところで今月号のベタータイムスにも、全国オートバイ販売店協会の活動が中心となっていて、その会長の吉田純一さんが多く誌面を飾っている。

その吉田純一さんについては、彼がカワサキ出身者で親しいこともあって何度もこのブログで取り上げたりしているが、

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5a6cdfdb3e7fd07e1070c8f24b4fa1d3

2年前にもご一緒して、こんな写真とこんな書き出しで紹介している。

     

 

先週の土日は、KAWASAKI Z1FAN CLUB のイベントで吉田純一くんと一緒だった。気安く『くんづけ』で、呼んでいるが、私の周りの人たちの中で、『一番エラクなった』のは純ちゃんだ思っている。・・・・・・・・

彼は、この全国オートバイ協同組合連合会の組織自体を大阪で、一から立ち上げて、何十年も掛って、今は全国の冠を付けてもおかしくないまでに創り上げたのである。

 

本当に彼は国会のエライ先生方ともお付き合いがいっぱいだし、ホンダの社長さんとも気軽に飯を食ったりするのに、昔の仲間とは昔の関係そのままのお付き合いなのである

そんな彼の業界活動の仲間が森田伊活さんであり、『ベタータイムス』なのである。

今月号の『ベタータイムス』にもいっぱい登場する。

      

 

 国会の先生がたとの会合だし

 

        

 

こちらは中央官庁の方々と一緒である。中央官庁に行かれた経験のある方は少ないだろうが、中央のお役人とは、上場企業の役員さんでもなかなかこんなことにはならないのである。

 

          

            

 

 今月号には、懐かし方や、Facebook で毎日お会いしている方たちも載っていた

吉田純一さんをFacebook にお誘いしたのは私である。

 https://www.facebook.com/junithi.yoshida?fref=ts

そんなことなので私が紹介した人は、すべてOKしてくれるので、沢山の方たちにご紹介しているのだが、改めて結構『エライ方』なんだとのご認識を持ってほしいのである。

彼は気軽に付き合ってくれて『いいね』もいっぱいくれるのだが、ホントになかなかの大物なのである。偉くなっても『偉ぶらない』ところが『ホントにエライな』と思っているのである。

 

   

 

 ベタータイムスの森田伊活さんも、吉田純ちゃんも、何年か前のKAWASAKI  Z1 FAN CLUB がグリーンピア三木で開催した、KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE にはわざわざ来てくれたりした。その時のYou Tube である。

  https://www.youtube.com/watch?v=ZKdEuytpOns

旧い仲間はいいものである。

  

 

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マーケットがカワサキを引っ張った時代

2014-05-09 06:01:02 | カワサキ単車物語50年

★カワサキの単車事業ももう50年以上になろうとしている。

カワサキの単車の長い歴史を振り返ってみると、カワサキを引っ張ってきたのは技術部門で

その開発陣が世に出したマシンの数々が、現在のカワサキの輝かしいブランドを築き上げたことは間違いない

ただ、そんな長い歴史の中で、マーケットが事業を引っ張った時期が2度あると私は思っている。

その1回目は

1966年アメリカのシカゴにAmerican Kawasaki が設立されたマシンで言えばA1の時代から、H1,Z1中心の時代で、KMCが設立されて、現地にR&DLincorn工場もつくられ、Kawasaki Let the good times roll! というコンセプトが発表された1973年ごろまでのアメリカが輝いていた時代である。

このアメリカ市場の成功がなければ、カワサキの単車事業は世に存在しなかっただろうと思う。

この時期のアメリカ市場での成功がヨーロッパへの進出を促しカワサキの二輪事業が世界への展開となっていくのである。

ただ、この時期を過ぎて1974年からの数年間で、アメリカ市場はスノ―ビークルの失敗ハ―レ―のダンピング訴訟、さらにはHY戦争の影響を受けて、惨憺たる状況に陥り、川重本体にも影響するような事業存続の危機に見舞われたりするのである

 

★そんな時代を乗り越えて、1990年代に入るころ高橋鐡郎本部長時代が、マ―ケットオリエンテッドの基本方針で、本部長自らの言葉でそれが語られ、実践もされた

第2回目のマーケットが事業を引っ張った時代だったと思う。

その当時のマーケットの主流はZEPHYRE人気にわき、レースでも唯一鈴鹿8耐をカワサキが制した国内市場で、、ホンダさんに『1強3弱』などと言わしめた何年間だったのである。

その高橋本部長時代に、ずっと発行され続けたMIND という冊子があって、この創刊号から15号までを、先日カワサキの熱烈なユーザーの美樹さんから頂いたので、そこに記載されている記事を中心に何回かに分けてご紹介してみたいと思っている。

 

           

 

 当時の二輪のマシンで言えばこんな時代で、同時にジェットスキーも世界展開で輝いた時代なのである。

 

MIND とは

M   Market               顧客重視

I    Innovation     構造改革

N   Network       情報管理

D   Development   人材育成

を徹底して追求したMarket Oriented の時代で、それを引っ張ったのは国内市場であった。

そんな時代が懐かしい。

 

            

 

   鈴鹿8耐にカワサキが念願の優勝を果たしたし、世界のレースでも国内でも、非常にカワサキが活躍をした。

 

        

 

  KAZEを中心にした一般社会を巻き込んだ活動も盛んで、

 

        

 

   こんな小さい子供たちも視野に入れた活動が、KMJの広報を中心に展開されていたまさにマーケットオリエンテッドの時代だったのである。

  そのベースになったものが、この時期国内市場で復活し、高橋本部長の決断で世界展開となった『Good Times Concept』なのである

   このGood Times Concept こそが、このマーケットがKawasakiをリードした時代の象徴だと思っている。

 

  当時のMIND にこんなに詳細に紹介されているので、そのまま転載してみる。

  是非、今の現役の方もよく読んでみて欲しい。

 

          

          

          

          

 

  ★このGood Times Concept が世の中から消えることのないことを願って 

 

          

   

    5年前から、こんな基本コンセプトで、NPO The Good Times と言うNPO 法人を創立し活動展開しているのである。

    そんな経緯から高橋鐡郎さんや当時の仲間、田崎雅元さんなどは、設立時からの会員さんで参加されているのだが、高橋さんは相談役で、

    田崎さんとは『孫文を語る会』で協働したりもしたが、今年からはその活動も第2期に入る。

 

    マーケットがKawasaki を引っ張ったように、『Good Times Concept』が世の中を引っ張れたらいいなと思っている。

    

 

   

English Version です

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カワサキ単車物語50年 その22 F21Mデビューの年のこと

2013-09-17 06:37:46 | カワサキ単車物語50年

★Facebook で山本隆くんが

 

 

こんな懐かしい

 

 

青森県岩木山スキー場でのMCFAJ 全日本の写真をアップしたので、

FBでシェアしたら、それをまた、『二輪文化を伝える会』の松島裕さんが、

 

 

 

『二輪文化を伝える会のFBページ』に取り上げられたので、もう少し日時などちゃんと調べてあげようと当時の日記帳を開いてみた。

 

 

 

 

★昭和41年(1966)、私の広告宣伝課長最後の年である。  

日記からちょっと拾ってみると

1月5日  初出の日、藤井敏雄が契約のことで明石にやってきた。 この時点では本人の希望で、ライダー契約ではなくマシン貸与契約とした。

1月17日 FISCOを4輪車で試走、前年からMFJ 運営委員会ではFISCO での日本GP開催にホンダが第1カーブが危険と反対。この日運営委員がコースを4輪で試走した。『聞きしに勝る迫力』とその感想を書いている。

2月12日 鈴鹿でGP 125のテスト、ライダ―は藤井、三橋、金谷、ベストタイムは2分48秒

2月27日 山本隆くん結婚式。仲人を頼まれていた。頼む方も頼む方だが、それを引きうけるのもどうかと思う。山本22歳、私32歳だった。

3月13日 FISCOで、MCFAJの全日本クラブマンレース、W650に金谷が乗る。350cc以上のクラスで2位。

5月22日 富士でのMCFAJ全日本モトクロス完敗。 スズキがRHニューマシンを久保、小嶋に。モトクロス界注目。

6月23日 MFJ 運営委員会、ホンダFISCOでのGP不参加を表明する。

 

 

★全日本での惨敗を受けて、モトクロス250ccのニューマシンを造ることに決定。

7月7日  青森のMCFAJの全日本モトクロスのために。エンジンは技術部、あとのマシン製作はモトクロス職場の松尾勇さんがべニア板に釘を打って、ヘリのクロモリのパイプを使って製作。 スズキは2台だが、契約ライダ―全員に7台を造ることにした。

7月11日 モトクロスニューマシン1号機完成。ライダーが社内で一人一人試走、評価最高

 

7月19日 トラック5台編成で、青森嶽温泉に向かって朝出発、安藤監督以下メカニックたち、私もその一人として出発、御殿場須走旅館で一泊。

7月22日 3時から練習。ニューマシンは他社から注目の的。スズキRHは小嶋松久1台だけ、7台を揃えたのは圧巻であった。

7月23日 3時から公開練習。ニューマシンは断然早い

7月24日 大会当日は土砂降りの雨、最悪のコンディション。250ccクラスはトップを走ってた岡部転倒で、小嶋が優勝。2,3,4ぃはカワサキ。オープンは山本優勝歳森、北山(S) 、星野、岡部と5位までに4人が占めるデビューであった。当日浅虫温泉まで移動、そこで宿泊。

7月27日 名神に乗ってホッとする。6時半明石に到着。全行程3100キロ

 

 

★この年は、レースではいろいろとあった。

モトクロスのF21M を除いては、私は大変な年だったのである。

 

8月27日~  1000キロ耐久レースのためにFISCO いたら、明石から電話、『マン島のプラクティス中に藤井敏雄が転倒死亡』のニュース。

帰明後 葬儀など検討も、契約がマシンの貸与契約だけなので、レースなど関係ない管理部門の人の中には『会社は関係ない』などと言う人もいて纏めるのは大変だった。

9月1日~ 藤井の遺体が羽田に到着、現地で送りだしてくれたのは、ドイツに留学中で、前レース監督の大槻幸雄さん。 通夜、葬儀、カワサキがお手伝いが出来たことで本当にホッとした。

 

9月5日 レース運営委員会で、初出場のGPなどのレース方針が決まる。

ライダーは安良岡、シモンズ、あとデグナ―、谷口尚己などとの契約候補が決まる。

カワサキ陣営は山田熙明さんが総責任者、監督中村課長助監督渡辺課長GP監督はドイツから帰国する大槻さんジュニアロードレース安藤さんが監督マネージャーは古谷と決まった。

9月10日 デグナ―と契約するのに、外人ライダーとの契約など誰も解るものがいない。ホンダの前川さんに電話して教えて欲しいと言ったら、『鈴鹿まで来て頂けたら』と仰って頂いて、鈴鹿まで出かける。

9月18日 ロードレースで初めての優勝、東日本ロード選手権。90ccは村上、歳森、金谷、三橋と4今で独占、250ccは金谷、三橋と1,2位を占めた。

9月26日 デグナ―来日、神戸まで迎えに行く。Good Morningと一言言っただけで、明石まで車で戻ってきた。当時は英語など通訳をつけて話すものだと思っていた。

9月29日 FISCOで練習中デグナ―転倒、御殿場の中央病院で診察、大丈夫ということで、明石に連れて帰ることにする。

10月1、3日  明石病院にデグナ―入院させる。アタマではなく肩の治療のため。3日になってデグナ―の容態急変、脳に出血。

10月4日  明石病院は脳外科がないので、急遽神戸医大に移して光野教授の診察を受ける。大丈夫との診断安心する。

10月16日 FISCOでの日本GP、90ccは三橋が3位、250ccは金谷がガリーニクソンと大接戦の結果2位、日本GP 125ccは安良岡が7位。

 

 

★この年が、レースも最後の年であったが、

藤井敏雄のマン島の事故死、続いてデグナ―の転倒入院などがあって、ライダー契約などの担当として、本当に大変な年だったのである。

そんな中で、何となくよかったのが、モトクロスのニューマシンF21M が世に出て、カワサキのモトクロスの地位を不動のものにしたことだろう

 

この年、レースでいろいろと関係のあったお二人、それは大槻幸雄さんと安藤佶朗さんである

 

大槻幸雄さん。

あのZ1の開発責任者の大槻さんなのだが、この時点では市販車には、殆ど関係しておられない。もっぱらレース担当だったのである。

この年の前半までは、ドイツへ留学中で、マン島もそのGP125ccのマシンの開発には、関わっておられたので、個人的に観に行っておられたのである。藤井敏雄君マシンの貸与契約だったから、ほんの数人のメカニックが付いていただけなのである。

あの事故があって、もし大槻さんが現地にいなかったら、どうなっていたのかも解らない。藤井君が元スズキだったのでスズキの方にはいろいろお世話になったようである。

直ぐ、そのあと帰国されて大槻さんは、GP の監督に復帰されたが、デグナ―の入院で、おかしくなった時は、デグナ―はドイツ語しか喋らなくて、お医者さんとの通訳をされたのが大槻さんなのである。

私は、そんなご縁で今でも繋がっていて、KAWASAKI Z1 FAN CLUB などではお世話になっているのである。

 

安藤佶朗さんは、既にお亡くなりになってしまった。

国内レースの監督を大槻さんのドイツ留学の後、引き継いで頂いたのが安藤さんである。F21M のエンジン開発は、安藤さんが238ccにボアアップして創られたモノなのである。

この年のF21Mは、連戦連勝で、私は広告宣伝も担当していたので、モ―タショーに展示すると言ったら、『そんな恰好悪いこと止めろ』と安藤さんは仰るのである。

何が恰好悪いのか?』とお聞きしたら、

『市販車の125ccのエンジンを、150ccまでボアアップして、さらにレーサーにして238ccにしても持ってると言うことは如何に過剰品質か』と言うことで、

それが『カッコ悪い』と仰るのである。

『そんなこと大丈夫ですよ』とモ―タショーには展示したのだが、

先日森脇さんから、Z1について、コストを考えない過剰品質のところがいいと褒めて頂いたのだが、

大槻さんも、安藤さんも、当時のレース監督の技術屋さんには、あまり『コスト意識』など無かったのかも知れない。

 

 

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カワサキ単車物語50年  その21  SPA直入

2013-09-15 06:37:41 | カワサキ単車物語50年

 

★私の約40年ちょっとの現役生活の中で、全体的にはちょっとハリのなかった2年間ほどがある。

1987年に単車と発動機が合併して、私は企画室から営業本部の方に異動した。

営業全体の統括なのでそんなに面白くない職務ではないのだが、経営次元の仕事ばかりをずっと担当していたので、何となく範囲が小さくなったなと思ってしまうのである。

営業の具体的なことなどは担当の人たちで十分にこなせてしまうのである。私自身がやることは殆どない。これが普通の職制なのだろうが、そんなお神輿に乗ってってるような日本的な動きにはどうも性が合わなかったのである。

 

この2年間、私がやってたことは、『SPA 直入』 日本で初めてのユーザーのためのサーキット建設だったと言っていい。

カワサキの単車事業にとってもそれは画期的なことだったし、川崎重工業がサーキットを持つなど当然初めてのことだったのである。

 

SPA 直入物語

 そんな2年間に亘るSPA直入物語は、こんな5つのブログに纏めてはいるのだが、

私の現役生活の中で、これは私と故岩崎茂樹でなかったら、他の方では絶対に実現しなかったプロジェクトであったと言い切っていい。 

それだけに今でもなお SPA直入の懸ける想いはいっぱいなのである。

この一連のブログの最後 NO.5 ではこのように結んでいる。

 

 SPA直入物語ー5

起工式から丁度1年後の1990年4月15日、SPA直入はオープンイベントで幕を開けた。

金谷、和田、清原、宗和などカワサキに関係したライダーたちが参加してくれてイベントを盛り上げてくれたが、主役は何といっても自分の愛車に乗って集まってくれたユーザーたちだった。
その数4000人。広いと思っていたパドックが埋まってしまった。

岩屋万一直入町長は開会セレモニーで、
今日、有史以来一番大勢の人が直入町を訪れた。」と挨拶された。

愛車に乗って直入を訪れたユーザーたちが、その車でサーキットを体験走行したのである。
先導をつけたものではあったが、切れることなく続いた走行はまさに壮観であった。

これは日本で始めての試みであった

これを機会に各地のサーキットでも一般ユーザーの走行会などが開催されるようになったのだが、その皮切りの役目をSPA直入は果たしたのである。

建設当初からレースだけでなく、
一般の人たちも気軽に走れるサーキット」というコンセプトでイベント当日だけでなく、「インジョイライデング」などと称してその後も一般ライダーに開放する時間帯を設けたりしたのである。

地元直入町にもいろんな意味でお役に立てたと思う。
もともと、温泉で有名であったがSPA直入ができて若者も集まるようになり、温泉だけでなくモータースポーツのサーキットのある町というイメージも生まれた。

芹川ダムのジェットスキーもプラスになった。
特に、後年カワサキといろんなことで関わりのあった岩城滉一がジェットスキーで芹川ダムに、レーサーでSPA直入を好んで訪れるようになった。

今、人気の宿房「翡翠之荘がスタートしたばかりの頃で,その主、首藤文彦さんとも仲良くなって岩城滉一の定宿となったのである。

SPA直入と時を同じくして建設されたオートポリスもご縁があって、今カワサキのサーキットになってKMJがマネージメントを担当している。

その責任者の渡部達也君は、直入とも深く関係があった。
機会があれば是非訪ねてみたい懐かしい思い出いっぱいの、今は竹田市直入町である。

 

渡部達也くん、今NPO The Good Times の副理事長で、且つKAWASAKI Z1 FAN CLUB の代表を務めてくれている渡部達也君なのである。

 

 

 

 

★ 大自然の囲まれて、日本で一番美しいサーキットだと思っている。

一般のライダーたちが安全に走れるように、そのコース設計には細心の注意を払った。スタート以来多分未だ一人の死者も出していない珍しいサーキットなのである。

これを創るきっかけはいろいろあったのだが、

私が一番強く思ったのは、当時レーサーレプリカ全盛で、メーカーは競って高性能の市販車を世に出すのだが、それを買ったユーザーたちが走る場所がないのである

峠に集まったライダーたちは、『峠族』と呼ばれて、問題になったりした、当時のサーキットはレース仕様車以外の走行はどこも認めてはいなかった のである。

 

『一販のユーザーたちが自分の車で走れるサーキットを創ろう』 これが一番のコンセプトだったのである。

社内で、特にレースに関わっている人たちから反対があったりした。 タイヤの点検などレーサーまがいの厳しい基準を要求するのである。

今のまちを走ってる市販車はそんなに危険なモノなのか?

一方通行で、交差点もない、対向車もいない。 

そんな環境を自分の車で走ることが危険だと言うならば、『バイクなど売るべきではない』などと、反対意見を半ば職位で押さえつけて、建設に掛ったのである。

故岩崎茂樹とたった二人で背丈ほどの草が生い茂るサーキットの候補地を1日がかりで歩きまわったのが思いだされる。

 

 

★川崎重工の中でこんなプロジェクトは初めてではあったが、

当時の大庭浩社長には、単車本部長時代の番頭役を務めて抜群の信頼があったので、経営会議でも直ぐ認可されたのである。

川重の財産課も、建設工事会社もサーキットなど初めての経験で、その仕様や勾配、カーブのアールなど皆目解らないサーキット素人集団を仕切ったのは、

故岩崎茂樹の独学の賜物なのである。

SPA直入の名付け親も岩崎茂樹である。 

直入町は温泉町だから、SPAには温泉と言うことも当然含まれてはいるのだが、

ベルギーにある世界的なサーキット スパファランコルシャン の SPAと掛けて名づけられているのである。

 

そんなサーキットが出来て、もう25年が経とうとしている。

 

   

 

   

 

  

 

 

 

 

 

 

★そして、これは昨日Facebook にアップされた、10月27日の3時間耐久の案内サイトである。

懐かしくて、以下のようにシェアさせて頂いたのである。

古谷錬太郎さんがSPA直入さんの写真をシェアしました。 

私の想い出の地です。

当初のコンセプト通りの運営になっています。
みんなのサーキットです。

 

 

そんなことで、カワサキ単車物語50年 その21は SPA 直入のことを書いている。

ちょうど25年も前の話なのである。

故岩崎茂樹のことを書いたら、今ずっとお付き合いのある登山道夫さんに繋がった。

 

SPA直入の運営を担当する遊びの会社 ソフト会社 株)ケイ・スポーツ・システムを立ち上げた。

そして、ユーザークラブKAZEが出来た。

そして、現在のNPO The Good Times はその延長線上にある。

 そんな原点になったのが SPA 直入なのである

 

 

 

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カワサキ単車物語50年  その20 高橋鐵郎さん 

2013-08-24 08:10:57 | カワサキ単車物語50年

★ずっと書き続けてきた『カワサキ単車物語50年』

前回の単車再建最終年までの30年間で、

カワサキの波乱万丈のオモシロイ時代、カワサキらしい時代は一区切りを告げたのかも知れない。

 

 

これは神戸のカワサキワールドに飾られている 青野ケ原のモトクロス優勝の写真と展示である。

左から二人目が若き日の 高橋鐵郎さんである。

 

このレースで1位から6位までを独占した成果で、カワサキの単車事業は再スタートを切ったと言ってもいい。

1963年(昭和38年)5月、今からちょうど50年前の出来事なのである。

この時期から1988年まで、

マシンで言うなら、B8、A1、F21M、W1 マッハⅢ、カワサキZ、 カワサキKR 、 Ninja などなど、

カワサキの時代を背負った、カワサキらしいマシン が世に出て、『カワサキイメージ』もこの時代にその基盤が創られたのである

 

 

★こんなカワサキの創成期の歴史の中で、 高橋鐵郎さんは事業の中枢をずっと歩き続けられている。

 

●青野ケ原のレースではその現場監督を務められた当時は製造部の係長時代だったと思う。

●そのあと事業部の技術部山田、営業苧野という当時の部長クラス以下で構成された『レース委員会』では、製造部門の中村課長とともにその中心メンバーだった。

●その後カワサキオートバイ販売に出向され、この第1線経験が高橋さんの『マーケッテングオリエンテッド』への180度転換をもたらしたのである。

●川崎重工の技術本部長に復帰され、Zの開発や、現在のSPA直入の開発試験コースの土地購入などを推進された。

●さらに、東南アジアを中心とする市場調査団長を務められ、そのまま『市場開発プロジェクト室長』を兼務、その後はさらに営業本部長、そして単車事業部長を務められている。

ハ―レ―のダンピング訴訟で事業部が揺れ、その対策としての国内販社対策案は最終営業部立案となたtが、その実務対策としてカワ販副社長も兼務されている。

●さらにアメリカのKMCの経営悪化で単車事業の危機となった時点で、田崎さんと一緒に、KMCの会長としてアメリカ現地で指揮を取られたのである。

●このKMC対策問題は、川重本体も揺るがす大きな問題にまで発展し、本社首脳を始め財務部隊が総力を挙げての対策となるのだが、その対策に明石の企画室再編があり、高橋さんはその企画室長でアメリカから戻られることになる。

●そして約1年後本社は大庭浩本部長を、単車事業再建に送り込まれ、高橋さんはその副本部長として大庭さんを援ける立場を3年間務められて、大庭さんの副社長としての本社復帰、 高橋鐵郎単車事業本部長の実現となるのである。

 

 ここまでが1988年までの大まかな単車事業の動きと 高橋鐵郎さんのその間の経歴なのだが、

列記した上述の事項に、私自身も後川重社長を務められた田崎さんも密接に関係しているのである。

 

●『レース委員会』の事務局は私が担当だったし、マシン開発の現場レース職場の責任者が田崎さんだった。

●カワ販出向時に真っ先に現地視察されたのは私が担当していた東北地域だった。当時は未だ実用車のカワサキ時代で、東北や九州が主力市場であった。高橋さんは直営部長としてスポーツ車の市場としての大都市圏を担当され、大阪の営業所の土地購入などに尽力されるのだが、その大阪営業所の責任者として私は仙台から大阪に異動した。

●高橋さんが川重に復帰されてから数年後私も川重企画部に復帰、この部門には田崎さんもいてアメリカとリンカーン工場を担当していた。そこで私が起案したのが小型車の市場開拓としての東南アジア対策で、この調査団団長に高橋さんがなられて、初めて 高橋鐵郎さんとの直接のコンビが実現することになった。

ハ―レ―のダンピング訴訟を担当したのが田崎さんである。そしてその具体的な国内販社構造対策は私が立案し、そんな関係でカワ販常務となり、 高橋鐵郎さんはその副社長として援けて頂いた。

●逆に高橋、田崎さんがKMCに出向された時に、第1線の経営の解るカワ販メンバー富永、日野君をKMCに送りこんでその経営再建を手伝った。

●川重本社が立案した、単車事業再建の目玉の企画室担当を私は命じられたのだが、引き受けるに当たって出した条件が 高橋鐵郎さんの企画室長復帰である。アメリカに行ったばかりでなかなか本社もYesと言って頂けなかったのだが、結果は高橋さんの復帰となり、アメリカは田崎雅元さんの社長となったのである。

●その1年後に大庭さんが単車に来られて、私はその番頭役みたいなことをやっていた。特に本社財務副社長の大西さんや財務担当の松本新さんなどへの単車窓口は、私だけが事務屋であったこともあって、大庭ー高橋ー田崎さんの担当分野の本社通訳みたいな役割を果たしていて、当時の主力銀行第1勧銀本店などにも状況説明などに伺ったりした。

 

そんないろいろなことがあって、単車事業は再建され、新しい時代に入って行くのである

 

 

 

★そんな1988年時代までが、単車事業の創業期と言えるのだろうと思っている。

それ以降のマシンは、これらの時代の車をより洗練した形のものだし、単車事業の経営もある意味落ち着いた安定的な時代に入ったような気がする。

そんな中で、その後の大ヒット商品と言えば、何と言っても ZEPHRE を挙げねばならない

 

 

そのZEPHRE と一緒に写真に収まっているのが、当時の単車事業本部長、カワサキオートバイ販売社長の 高橋鐵郎さん である。

大庭浩本部長時代の単車再建の時代を経て、川崎重工業の事業の中で単車事業は確固とした基盤を造ったのである。

大庭さんは副社長として川重中枢に戻られ、単車事業は高橋鐵郎本部長の時代へと移った。

そしてさらに大庭川崎重工業社長、高橋鐵郎副社長の時代へと移って行くのである。

 

 

★私自身も、この1988年までの『単車再建の時代』までは、ほぼ事業の問題点のど真ん中にいることが多くて

カワサキの単車事業をそんな中枢から眺めたり、ある意味影響力を持ったりしながらの30年であったと言っていいのだが、

1988年以降は、また現場に戻ったこともあって、

その後のカワサキの単車事業そのものについては、ヨコから眺めていたそんな時代だったのである。

 

単車再建時代に、大きな問題として事業存続の関心事となった事項の一つに『為替対策』があったのである。

為替対策の対応の方向としては、事業の構造的な体質を変える仕組みの再構築の方向が企画室長としての私個人の想いとしてはあったのだが、

その後の企画中枢の取られた方向は、

一つは、『コストのドル化』 など生産拠点の海外移転特に小型エンジンのアメリカへの移転と

もう一つは『為替に影響を受けない国内市場の充実強化』で、私はこの二つ目の課題を直接担当することになるのである

 

 

高橋鉄郎さんにそのことを命じられて、

● 国内市場での7万台の販売目標

● 国内市場が文字通り事業部の経営を支えるために事業本部の国内から得られる限界利益額100億円

 という 二つの非常に高い目標を高橋さんとお約束して、カワサキオートバイ販売専務として、以後約10年間を担当することになるのである。

 

★これ自体は、私自身の単車事業経験の集大成のようなオモシロイ目標であり、且つそれは実現することになるのだが

それはあくまでもカワサキの単車事業の一部であって、単車事業そのものではない のも確かなのである。

そんなことで、『カワサキ単車物語50年』も、私の『自分史』に近いもにになってしまう ことをお断りしておきたいと思うのである。

 

ただ、私が国内販社グループを担当した10年間は、そのトップのカワサキオートバイ販売の社長は、高橋鉄郎さんなのである

 

これからの約10年間は、文字通り高橋さんとのコンビで国内市場を担当出来た非常にオモシロイ画期的な10年間であったことも事実なのである。

 

 

その当時の二人で写っている写真である。

あらゆるひとにグッドタイムスをお届けします』 と言っている。

 

それまで長い間眠っていた

Kawasaki . Let the good times roll  !!   の基本コンセプトは、この時期国内で復活し、高橋さんによって世界展開となったのである。

 

 

 

そしてこれは NPO The Good Times のメンバー達で主催した

3年前の3月4日、 『カワサキの想い出、そして未来』 でご挨拶をされた高橋鉄郎さんである

 

高橋鉄郎さん、 NPO The Good Times の創立以来、その相談役をお願いしているのである。

そういう意味で高橋鉄郎さんとのご縁はまだまだ続いていると言ってもいい。

 

私個人にとっては、この当時の基本コンセプトをカワサキだけではなくさらに拡げて、

ささやかでもいい『グッドタイムス』の演出が出来ればいいと思っているのである。

 そんなことなので、敢えて『カワサキ単車物語50年』 とネーミングしているのである。

 

 

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川崎単車物語50年 その19 1986年単車再建最終年

2013-08-12 06:33:43 | カワサキ単車物語50年

1986年、

この1年はカワサキの単車事業にとっていろいろと大きなことがあった年である

4年間続いた単車再建の最終年でもあった。

 

個人的な紙の記録も残してはあるのだが、少々生臭いことも多いので差し支えのない範囲でその内容を記述してみる。

 

 

1月 元旦に円は200円を割った。KHI全体の損益も悪化、全社的に人員対策など行われつつあった。ヤマハがPWS(パーソナルウオータークラフト水上バイク)に取り組むと小宮常務が挨拶に来られる。

2月 円は190円、短計は約10億円の悪化、単車構造対策の検討。

3月 国内カワ販の新社屋落成。 円は175円に。今期は△30億円と報告。

4月 J/Sの世界展開ビジネス網構築を推進、J/Sとの関連でヤマハと接近。KMC田崎ー百合草社長交代に関連してKMCの構造計画、販社剰余金対策、円建て計画など本社財務松本常務に報告、承認。

5月 KMC新オフイス完成。田崎ー百合草社長交代発表。円162円に。この対策として抜本的な為替対策としてのKHI /KMC の構造対策を提言、松本常務100%賛成。

6月 高橋鉄郎単車事業本部長、大庭本部長は副社長として本社に復帰することとなった。当時カワサキの2輪エンジンを使ったクライスラーとのC-Project が具体的に推進されていて、特に大庭さんが熱心であった。担当はKMC 百合草。(カワサキの源流と軌跡のP84に百合草さんが具体的に記述している)

7月 円155円に。短期的な損益悪化は避けられない状況になった。

8月 KHI 全体の損益も悪化。 大庭副社長を囲む経営懇談会が開催され全社から若手メンバーが集まる。その会合に出席。KMCで百合草社長以下の新メンバーによる中計の策定2桁の黒字計画、累損消去計画立案。

9月 単車、発動機の合併計画、製造部別会社計画などドラスチックな構造計画。

10月 製造会社別会社案はKHI全体の人員削減策ともマッチし、経営会議で承認された。 (然し、この案はその後実行されなかった)

11月 発動機とに合併は翌年4月1日と決定。

12月 翌年6月、川重大庭社長昇格と発表。 翌年度以降のKMC 計画は非常によく纏ったものに仕上がった。労働組合との中性協で、単車の中期構造計画を説明。労組側から非常によく解った。全社で一番と評価されたりした。

 

 

★1986年は急激な円高が進行し、KHIも含め非常にムツカシイ時期に直面していた。

海外販社経営の健全化』 を目標に4年間単車の企画室を担当しその実現に向けて対策を進めてきたが、その目標は100%達成され、一番問題であったKMCの経営は、その累損消去計画も具体的に組めて配当可能な販社への脱皮が具体的に進みつつあった。

ただ年初200円であった為替は150円を切る水準まで円高が進行し、その抜本的な構造対策の骨子までは年末にはきっちりと発表できるまでに組み上がっていたのである。私の企画室長としての提言で、本社からも承認される段階まで来ていたのだが、翌年新企画室メンバーに代わってからは、その案は立ち消えになってしまったのである。

● 単車事業としての本社機能の充実

● 製造部門の別会社化

● 為替対策としての円建てへの移行などの新経営構造

大きく言うとこの3つだが、全体の綜合的な構造対策で、仕組みの創造なのでなかなかムツカシイ課題であったことは解るが、実現していればカワサキの単車事業もまた違った形になったのかも知れないと今でも思っている。

 

★翌年4月からは、為替対策の一環として具体的に推進されたのは、

● コストのドル化 を目標にアメリカリンカーン工場への発動機エンジン生産移管

● 為替の影響を受けない国内市場の充実強化

というどちらかというと個別政策に重点が置かれ、私自身は営業部門に異動し、主としてアメリカ市場と国内対策を担当することになるのである。

 

大庭さんが単車に来られた期間、企画部門担当として事業部並びに海外販社の経営戦略を担当したのだが、非常に画期的なオモシロイ時代であったと思う。

高橋鉄郎さんが大庭さんを立てられたし、民需、量産事業の経験のない大庭さんは、下の人たちの立案をホントによく聞いて頂いたと思っている。一般に言われている大庭さんのイメージとは私は100%違ったものを持っている。

単車時代の大庭さんは、下の人たちがホンネでづけづけ発言したこともあるが、非常にフランクにものごとを考えられたし、民需、量産事業を本当に好きになられて本社に戻られたと思う。

それがその後の川崎重工の体質転換にも大いに機能したのだと思っている。

特に川崎重工の人事面では、高橋鉄郎さんは副社長で大庭さんを支えたし、その後田崎雅元、佐伯武彦さんなど当時の単車のメンバーが川崎重工の中枢を支えたのである。

1961年はそんな私にとっては、

単車事業の中枢で、その時期にはそれが川崎重工の最も重要な課題でもあった『単車事業の再建』というテーマを担当出来た最後の年であったとも思う。

 

★川重全体としても、それは目標通りの評価をされたのだと思う。

それは大庭社長、高橋副社長の人事一つを見ても明白なのである。

かって単車事業は川重本社にとって『不信』極まる事業だったのである。

他の事業部が全て『受注生産事業』であることから、『民需、量産事業』の経験者もいないし、単車の言っていることが理解できないそんな段階だったのである。

 

それがKMCの再建に本社部門から大勢の若手がアメリカの現地に出向して、現地販社の経験をしいろんなソフト、ノウハウを身に付けたこと、

再建屋と言われた大庭さんが単車本部長をされて、その本社が送りこんだ大庭さんの発言は、川崎重工としても解らぬままに認めざるを得なかったこと。

大庭さんは、ご自身の意見もさることながら、特に企画、財務などの戦略については、スタッフの進言通りの発言を通されたのである。

その間の私の役割はある意味本社中枢部門に対しての『単車語』の通訳的な責務を担っていたと思うし、殆ど100%意見を聞いて頂けたのがよかったと思っている。

 

私自身は、特に当時の大西副社長、山田副社長、松本常務には、直接いろいろとご指導も受けたし、心底応援もして頂いた。

私の一番大きな目標であったKMCの累損消去は、もう少し後だが百合草社長時代に実現し、

KMC問題に関わった大西さん以下全てのメンバーで、神戸でそのお祝いパ―テ―をしたのが『いい思い出』である

 

累損消去、そんなこと俺は聞いていない』と大庭さんは言われたのである。

大庭さんが単車に来られたそのスタート時点は、本社の財務担当者たちも、期間損益が黒字になることぐらいしか思っていなかたはずである。

日本円にして100億円近い累損を消去するなど、誰も考えもしなかったことだと思う。

然し、販社の経営再建など期間損益がちょっとクロになったから再建できたと思ったりするのは論外だと思っている。

当時、私だけかも知れないが、

販社の経営再建は、累損など勿論なく、十分な剰余金があって初めて合格だと信じ、それを目標にすべきだと思ったのである。

 

 

この年以降、私は最も大きな新目標に掲げられた、為替に影響を受けない国内市場の充実強化 を直接担当し、

具体的には『7万台の目標』を掲げて、国内市場を担当することになるのである

 

 

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カワサキ単車物語50年  その18 コーヒーブレイク 

2013-07-25 05:53:44 | カワサキ単車物語50年

 カワサキ単車物語50年  その18 コーヒーブレイク  カワサキコンバット のこと

 

1963年と言えば、カワサキがB8で青野ケ原のモトクロスで1位~6位を独占して、一般にはそれがカワサキのレースのスタートだと言われている。

神戸のカワサキワールドにもその時の写真が飾られていて、そのように説明されている。

 

私自身は当時すでに単車事業部の営業にはいたので、直接レースには関わっていなかったが、いろんな情報だけは持っていた。

カワサキとしてのモトクロスレースは、もう一つ以前の機種、B7でも行われていたのは間違いないのである。

昨年7月、ヤマハの本橋さんから『カワサキのB7に乗ったことがあります。井手さんと言う方がおられました』と言う話を聞いて、本橋さんがB7に乗ったとは意外だったのある。井手哲也さんは確かに当時レースに関係されていて、三吉一行などとの関係も深かった。

その時代は、まだ川崎航空機ではレースなどやっていなくて、カワサキ自動車販売関係でレースらしきことに取り組んでいたのである。

 

●カワサキ自販でレースに関係していたのは、当時の企画、宣伝課長の小野田滋郎さんであったことは間違いない。

●ライだ―としては、三吉一行も関係があったのだと思うが、小野田滋郎さんが直接接触したのが三橋実で、彼を50万円でヤマハからひっこ抜いたと言う話は、私は小野田さんから直接聞いている。

三橋実は1962年の日本初の鈴鹿のロードレースの250ccのチャンピオンである。ちなみに350ccは片山義美が優勝していて、この二人のライダーが後カワサキのレースに色濃く関係するのである。

●翌年5月に青野ケ原のレースに工場の人たちが出場しようと思ったのは、前年度の鈴鹿ロードレースをバスを仕立てて見学に行ってレースに感動したのがそのきっかけなのである。

●カワサキのレースが具体的には、営業部門の中でスタートしていくのだが、その最初の時期、東は三橋実が主宰するカワサキコンバット、そして西は片山義美が主宰する神戸木の実クラブのライダーたちで、カワサキのレースチームが構成されたのである。

●当時私のグループの中にいた川合寿一さんが、そのレースチームらしきものの面倒を見ていたが、ライダ―との契約がどんな形で、どのような額で行われたのか、よく解っていない。契約第1号は神戸木の実の歳森康師であったことは間違いない。

●そして東では、小野田滋郎さんが三橋との関係で『カワサキコンバット』をスタートさせていたのだと思う。

 

 

小野田滋郎さんは、あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の実の弟さんなのである。

雁の巣や厚木や八戸など米軍の基地の近くから、日本のレースはスタートしているようにも思うのだが、三橋がいたのが厚木で、私が気が付いた時は、既に『カワサキコンバット』と言うカワサキのレースチームは出来ていたのである。

『コンバット』と言うテレビか映画の番組があって、そのヘルメットには縦にⅠの字が入っていて、それと同じの字の入ったヘルメットだったのである。

三橋実、梅津次郎、岡部能夫、加藤清丸などでスタートしていたのがカワサキコンバットだったのである。

 

1963年秋ごろのことである。

 

神戸木の実からは、は歳森康師に次いで山本隆が契約した。

川崎航空機の単車事業部に広告宣伝課が創られて、動き出したのがちょうどこの時期、1964年からのことで、ファクトリーチームと呼べるのは、この年開催されたMFJの第1回全日本モトクロス相馬ヶ原への出場からだと言うべきだろうと思っている。

その広告宣伝課が私の担当であったし、同僚の川合寿一さんがその中のレースを直接担当していたのである。

 

★当時のカワサキのレースチーム運営は、『カワサキコンバット』が主体で、現地でのチーム監督的な役割は、三橋実君が果たしていたのである。

そして、そのチーム運営のために月間20万円の運営費で全国から有望ライダーを集め、厚木にアパートも準備して練習費なども一切含めて三橋実君に任せていたのである。

副将格で安良岡健もメンバーに入り三橋、安良岡、梅津、岡部が最初の契約選手で星野一義三橋弟、栗山、野島、金子など最盛期には何人ライダーがいたのか解らぬほどの大所帯だったのである。

 

 

 

1965年富士の裾野の朝霧高原でのMCFAJ 全日本モトクロスの時の写真である。

 

山本隆、歳森康師(右から3,4番目神戸木の実クラブ)以外は全員がカワサキコンバットのメンバーで、

右から梅津次郎、岡部能夫、三橋実、安良岡健、星野一義、そして野島、栗山、三橋弟だと思う。

 

 

これは昨年11月、『二輪文化を伝える会』の第1回トークショーの時に集まったメンバーで、

星野一義、岡部能夫、山本隆、金子豊なのである。

 

金子豊は今は星野インパルの経営を担当しているのだが、当時は秋田から厚木までやってきて、カワサキコンバットの一員として活躍していたのである。

 

 

 

★つい先日、7月21日には東京品川で、

『二輪文化を伝える会』が 主宰して

全日本MX Legend Riders 記念パーティ―が行われたのだが、その時集まった中にもカワサキコンバットの懐かしいメンバーがいた。

これは開会前の顔合わせの時の写真だが、

 

 

これはカワサキコンバットのメンバー

星野、野島、金子、栗山なのである。

もう40年以上も会っていなかったのだが、昔のままに喋れるレース仲間は懐かしいものである。

 

カワサキコンバットは、1966年までは存続したのだが、三橋実との契約が切れて、世のレースもMCFAJからMFJにその主力が移るようになって、だんだんとその存在が薄れて行くのである。

梅津、岡部がレース界から引退した時でカワサキコンバットが無くなり、

星野一義も神戸木の実クラブへ移籍して、カワサキとの契約を続けた時代へと移っていくのである。

 

 

 

 

この二人とも、7月21日に久しぶりに会った。

増田耕二と従野孝司君である。

カワサキコンバットではなく、神戸木の実のメンバーであった。

従野はモトクロスでカワサキとファクトリー契約まで結んだのだが、増田耕二がカワサキからレースをスタートさせたことを知っている人は少ないかも知れない。

 

カワサキのレースの主力は、『カワサキコンバット』から『神戸木の実』にその中心が移っていくのである。

モトクロスのだけではなくてロードレースの世界で、金谷秀夫、和田将宏、清原明彦なども、神戸木の実からカワサキとのライダー契約を結んでいたのである。

 

カワサキコンバットと神戸木の実レーシング、そのクラブを主宰した三橋実と片山義美、その二人が日本で最初に開催された鈴鹿ロードレースのxチャンピオンであることも、ご縁なのである。

 

 

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カワサキ単車物語50年 その17 大庭浩本部長時代

2013-07-14 05:41:18 | カワサキ単車物語50年

★人それぞれ、何か運とか、ツキを持って生きているように思う。

自分自身のことを言って恐縮だが、私自身も非常にいい運命を背負っていると自分自身でそう思っている。

実際に生きてきた時代の変化や境遇など悪いように見たら、無茶苦茶運が悪いのかも知れぬが、そんな波乱万丈の人生を経験できたことを運が良かったと思っているのである。

会社の事業などを見てもそれを取り巻く環境、一緒に仕事が出来たメンバーなどなど、何ごとも一人では出来ないので、巡り合わせがよくないと事業の結果もそんなによくはならないのである。

 

1983年7月から1986年の4月までが、所謂『再建屋』と社内で言われていた大庭浩本部長が単車事業を担当された時代である。

その3年間の番頭役みたいなことをやっていたのだが、一言で言って大庭さんは最高にツイテいたと思われる。そんな運をお持ちであった

 

● まず、大庭さんを支えた周囲のメンバーがよかったと思う。 高橋鉄郎さんが企画の綜合担当として、本当によく大庭さんを支えられたと思うし、技術安藤、製造酒井の両理事も大庭さんの意を戴してよく頑張られたと思うし、私も含めて田崎、北村、百合草、武本、大前と当時の若手がよく頑張った結果だと思う。

●さらに、本社の財務部門や、技術研究部門など、従来単車には無関係であった部門が、精力的に単車事業に応援体制を敷いてくれた。これは従来の単車事業経営にはなかったことである。

●経営環境は、アメリカのPL問題や、白バイのリコール問題など、いずれも100億円単位の非常に危険なリスクだったのだが、

PL問題は本社法務班から専門メンバーがKMCに出向し、自ら保険会社を設立したりして対応、白バイリコール問題は、品証の田村一郎、清原明彦コンビがアメリカに長く滞在して、見ごとに対応しきったのである。

●商品はちょうどNinjaの発売時期で、アメリカ側が提案した『Ninja』のネーミングは、日本側では、黒装束の暗いイメージが強く不評で、大庭本部長もその意見に乗って、なかなかYesとは仰らなかったのだが、

KMCの田崎社長が『アメリカではNinjaはそんな暗いイメージではありません。ジェームスボンドの007のようなカッコいいイメージです』と説得して、大庭さんを口説き落としたのである。 私はその席に同席していたので、その経緯はよく承知している。Ninja が命名されて、もう30年になろうとしているのだが、今やKawasakiのスポーツモデルの代名詞のようなネーミングになっている。

●当時の第1目標は、海外販社の経営安定化だったので、その目標は幾多の困難はあったのだが、ほぼ2年でその目的は達成し、全海外販社の期間損益黒字化が達成できたのである。もう一つの大きな目標KMCの累積損失38百万ドルの消去は、もう少し長くは掛ったが、田崎―百合草KMC社長時代に達成できたのである。

●この期間の最中に大幅な円高が進行して、海外販社の経営は安定したが、日本の事業本部には400億円近い累損がたまってしまったたのである。私は当時の企画を担当していて、事業経営の数値を任されていたのだが、本社財務の副社長から言われていた指示は、あくまでも海外販社の経営健全化で、日本側の事業部の管理損益的な数値は造船をはじめとする各事業部の黒字で相殺すると言う約束でスタートしていたのである。

思わぬ円高で、大きな管理損失が出たのだが、この400億円近い累損を、本社財務は造船などの黒字と相殺して0スタートにしてくれたのである

これがその後の単車事業の安定的な経営に一番大きく効いた本社財務の処置だったと思うが、この事実をご存じの方は、多分事業部でも数人で殆どの方がご存じない事実なのである。

 

★こんな3年間の単車事業部の成果をお土産に、常務で単車に来られた大庭さんは、副社長で本社に戻られて、単車事業部は初めて単車出身の高橋鉄郎事業本部長の時代に入っていくのである。

この間、川重の中で一番変わったのは、本社中枢の方たちの単車に対する『信頼』だと思う。

それを勝ち得たのは、単車育ちの人たちの努力もあるだろうが、この時期本社からKMCへの出向やら、単車事業部への転籍など本社のメンバーが単車事業の中に身を投じて、単車事業そのものを体感されたことが大きいと思う。

当時の財務担当のトップ松本新さんは、毎月の川重役員会の席上で単車の経営状況を自ら説明される時期が続いたのである。そのための報告に私は毎月本社に松本さんを訪ねたし、当時の最大の課題KMCの経営報告もKMC田崎社長に代わって私が報告するそんな状況だったのである。

そのKMCには本社から高田、小里、奥寺、松岡さんなどが出向して援けてくれたし、事業本部側には小川、中村さんなどのメンバーが単車の仲間として活躍してくれたのである。

 

そんなことで川崎重工業の体質の中に、自然に民需量産事業の単車事業の体質みたいなものが徐々に注入されたことは、単車にとっても、川重にとってもよかったのではと思う。

そんな本社側の当時の財務担当部長が私と同期の川崎航空機出身の横山昌行さんであったことなどが、単車と本社を近づけたと思うし、本社との関係改善では私自身も大いに貢献できたと思っている。

 

 

★これが当時の大庭本部長2年目と3年目の動きなのである。

いろんな出来事があったのだが、その中での幾つかをご紹介しよう。

まず1984年

●この年の9月ごろまでは、為替の円安246円もあって絶好調、販社も事業部も大幅な黒字が見込まれて、10月ごろにはアメリカKMCの新社屋建設の話が持ち上がっている。当時は何か所にも社屋が別れていて、当時の本社社屋を売ることによりIrvineに広大な土地の取得が可能で、そこに社屋を建てることで全社統合を目指したのである。川重監査役からはまだ累損のある子会社がと反対の指摘もあったが、本社サイドの賛成もあってそれは実現し現在のKMCとなっているのである。

今は立派な町になっているが、当時は見渡す限りただ広大な土地が広がっていたのである。

● この年の11月に国内のジェットスキーのレース組織を固めるためにアメリカのIJSBAから日本にJJSBAというレース組織を導入する認可を取りに苧野豊秋さんと一緒にKMCに出張している。ちょうどデーラーミーテングもあってそれにも出席した。ここから日本のJJSBAはスタートし、初代苧野豊秋会長で日本に組織的なジェットスキーレースが始まったのである。

 

1985年

● この3月期が最高だったかも知れない。単車に関係する全事業が黒字になり、大庭さんは常務から専務に、高橋さんは取締役に、私は企画部長から企画室長にそれぞれ昇格したのである。

この時点の為替が253円なのである。そんな為替の円安状況も受けて、計画の数値はいずれも大幅な黒字を計画していたのだが、前述したように一転の円高で年末には200円、年が明けると200円を切ってしまうのである。この急激な20%から25%の円高の事業部経営に与える影響は強烈極まるものであった。

当時の事業部の規模でも1円の動きが8億円ぐらいだったから、単純計算で300億から400億円の利益が吹っ飛んでしまうのである。

この急激な円高対策は簡単には手の打ちようはなく、そんな環境下でもKMCの経営を最優先に考えて対応をした結果最後には何とかなったのだと思っている。

 

●この年の12月に『クライスラー』と言う記述があるが、

これは単車のエンジンを使った、クライスラーとの4輪プロジェクトのことである。

KMCの百合草さんの担当で、大庭本部長も大乗り気のプロジェクトであったが、実現せずに終わってしまった。

 

カワサキZの源流と軌跡』(三樹書房)の中で百合草三佐雄さんが詳しく記述されているので、ご関心のある方はぜひお読み頂きたい。

 

 

 

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カワサキ単車物語50年  その16 コーヒーブレイク

2013-06-30 05:36:29 | カワサキ単車物語50年

 

 

★カワサキの単車事業の激動期は、1982年ごろから始まり、約3年でほぼ収まり、その後数年間で最も問題児であったアメリカのKMCが、38百万ドルもあった累損を見ごとに消去してその後の安定成長期に繋がっていくのだが、

その時期のKMCの社長を務めたのが百合草三佐雄さん、百合ちゃんである

会社に40年も務めると、いろんな人と繋がるのだが、

振り返って考えてみても、『仕事で付き合いのあった人』は何百人も居ても、『一緒に仕事をした』と言える人はそんなに多くは居ないことに気付くのである。

 

川崎航空機に入社し、その後合併して川崎重工業となりいろんな仕事をやってきたのだが、『一緒に仕事をした人』を書きあげてみたのだが、なかなか50人に届かないのである。

まず一緒に仕事をする機会に巡り合わない のである。

私自身は、会社の仕事上は、全て『八方美人』で、『好き嫌い』は一切なく、むしろ性格的には合わない人たちと一緒に仕事をした機会の方が多いのかも知れない。

私は専門分野、技術とか、法律とか、経理知識など専門分野はどうしても苦手で、幾ら勉強してみても専門家の域に達するのは、不可能だから、そんな人と一緒に上手に仕事をする方がいいと思っている。

 

★現役を卒業して、遊んでいる身だが、『異種、異質、異地域をみんな繋いで、楽しくいい時を過ごそう』となどと言っているのも、そんな発想からである。

あまり同種ばかりが群れると、いい結果は出ないと思っているのだが、

ホントに気の合うと思える人と、組んで仕事が出来ると、それは『最高に気分がいい』のである。

でも、そんな人とは、現実には滅多に出会えないし、仮に出会えても一緒に『仕事をする機会』などには巡り合えないのが普通なのである。

カワサキの激動期の最中1982年から1987年ぐらいの間でも、いろんな人と組んでの仕事だったが、

この人と組めてよかったと心からそう思い、気分よく仕事をさせて頂いた方は誰なのかな?

 

山田煕明さん、当時の副社長

私をこのややこしい時期に企画に持ってきた張本人なのだが、山田さんとは、山田さんがまだなりたての部長のころから、レース関連で一緒に仕事をさせて頂いて、気心が解っている中学校の先輩でもある。 当時は副社長で単車事業の最高責任者であったが、山田さんのためにちゃんとやらねばと思っていた。

特に副社長を意識したことは一度もなかった。そんなことを感じさせないのが、山田さんの良さだと思う

何度も直筆の手紙を自宅にも頂いたし、言いたいことは殆ど100%言えた上司だった。

 

武本一郎さん、当時の企画部長、

この期間ずっと私を援けてくれた。私の初めての企画時代も直ぐ下にいて手伝ってくれた。

山田さんもそうだが彼も東京大学の秀才である。でもそんなところが全然見えない。この時期私に企画をやれと言われて真っ先に決めた人事が武本一郎さんたった。

彼がいていろんなことをやってくれたから、何とかなったと思っている。

単なるサービス部門であった電算部門を、今後はこのような部門こそ企画に必要と企画部門に持ってきたのも彼である。

大庭浩本部長からのムツカシイ宿題を次々に片づけてくれたのも彼である。

間違いなく『一緒に仕事をした』し、気分的にもぴったり合っていた人である。

当時は発動機事業部からリンカーン工場にエンジンを提供し、そこでジェットスキーに仕上げてKMCだけで販売していたジェットスキーを、ちゃんとした単車事業本部の製品にしなければ、単車の事業にしなければと提言してくれたのも武本一郎さんである。

そんな山田さんも、武本さんももうこの世にはおられない。寂しいことである。

 

★当時は明石の単車事業部の中には誰ひとりジェットスキーのことが解る人も、勿論乗れる人もいなかったのである。 部門がないのでやりようがなく、企画室企画部企画課の中にオーストラリアから戻ってきた鶴谷将俊くんを一人あてがって、発動機事業部で趣味でジェットスキーのレースに出ていたりした福井昇君を引っこ抜いて、ホントに数人で、企画の中でその事業展開を始めたのである。

当時はまだ400、500ccのエンジンの時代で、これを440、550ccにボアアップしようと言うことになり、それを手伝ってくれたのが、

百合草三佐雄、百合ちゃんなのである

 

百合草三佐雄さん、武本一郎さんも百合草さんも、いずれも昭和35年入社の同期生で、二人とも非常に息があっていた。

私は正直百合草さんはよく知っていたが、それこそ『一緒に仕事をした』のはこの時が初めてである。

エンジン改良のための開発予算がなくて、確か武本一郎さんが『忍術を使って』製造部の費用か何かをごまかして数千万円の開発予算を捻出したりしたのである。

その440、550ccがなぜかアメリカでめちゃめちゃ売れて、KMCも事業部も大助かりだったのである。

その時の百合ちゃんと、別に直接細かい仕事をしたわけではなかったのだが、いたく『トーン』があって、

田崎さんの後のKMC社長は『百合ちゃん』と勝手に決めてしまったようなところがあったのである。

1985年の4月に、百合草三佐雄さんは、企画に異動してその年の夏、KMCに出向したのだと思う。

 

 

 

左から高橋鉄郎さん(元川重副社長)田崎雅元さん(元川重社長) 平井稔男さん(元チームグリーン監督) 百合草三佐雄さん(元川重常務)稲村暁一さん(Z1エンジン開発責任者)

後の写真もみんな、『カワサキの想い出、そして未来』の時のものである。みんなカワサキの単車事業を背負ってきた連中で、みんな40年前のままでのお付き合いだから、平井さんが錚々たる人たちを左右に侍らしているのである。

 

 

和田将宏と一緒に喋っているが、大槻幸雄さんも、百合ちゃんも、レース監督経験者で、ちょうど和田の時代が百合草さんだったはずである。

 

★そんな百合草三佐雄さんだが、彼のKMC社長時代は、私はホントに彼と『一緒に仕事をした』  販売会社の社長経験など全くなかった百合草さんだが、歴代のKMC社長の中で、最も財務状態を大幅に改善し、当時まだ残っていた累損を綺麗に消去したのは彼の社長時代なのである。

別に財務が解っていたわけではないだろうが、当時の財務を担当していた若い連中を上手に使って、見事な経営状態にしたのである。

私も当時、しょっちゅうKMCには行っていたが、特に難しいことなど言わなくても、何となく信頼関係が確立していて、ゴルフなど楽しんでいたら、上手く回って行ったのである。

そういう意味では、私にとって、百合草三佐雄さんは、一緒に仕事もしたし、お互い確りとした信頼関係の上に繫がっていたのではないかと思っている。

彼がKMCから日本に戻って、さらに航空機のジェット部門に異動したのちも、何回かお誘いがあって箱根でゴルフなどしたりしたものである。

 

それから何年も経って、Z1会のゴルフなどでは一緒になるのだが、

この7月7日、KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE に『カワサキZの源流と軌跡の執筆者の一人として参加してくれることになっている。

私の片想いかも知れぬが、『百合ちゃん』はホントに数少ない、『一緒に仕事もし』かつ『気分よく付き合えた』 そんな特別の仲間のような気がする。

 

私の勝手な定義だが、

仲間とは数多くの想い出を共有する人たち』のことを言う。

単に、知っているだけでは『共有する想い出』など生まれないのである。

 

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カワサキ単車物語50年 その15  この激動期にカワサキが得たものは?

2013-06-24 05:36:46 | カワサキ単車物語50年

 

★1982年7月1日、この日に私のカワサキにおける運命みたいなものを感じる。

そして、そこから大変な時期の、大変な役を背負うことになった。

そして、それからの半年で、ほぼ再建の目途はたった。

いろんな人たちが、いろんな方面でその実力を発揮した。

その全体の『仕組みの構築』が私の仕事だったと思う

それは120%成功して、今カワサキがあると秘かに思っている。

 

これからの4,5年でカワサキの単車事業は変わった。

川崎重工の本社の信頼も得たし、それまで単車のメンバーは川重の役員には殆どその名はなかったのだが、その後、川重の中枢を動かしてきたのは、単車事業に関係したの人たちが、急激に増えて行ったのである。

敢えて言うなら、決められたことを着実にこなす受注産業などに比べて、自らの意思で事業を世界的に展開をする単車事業は、自然に人が育つ経営環境にあるとも言えるのだろう。

そんな始まりの半年間であった。

 

 

 

● 82年7月から、半年ちょっとで全体の仕組みはほぼ完成したのである。

世界に広がる販売会社の損益は間違いなく黒字化する確信が得られた。

その最も大きな課題であったアメリカのKMCに対しては川重本社財務から徹底的な支援体制がとられたのである。

若手中心のプロジェクトチームではあったが、その発想はドラスチックで、とても事業部育ちの事務屋では発想し難いスケールだった。

例えばKMCに山積みされていた在庫車の評価金額は全て中古車市場の中古車価格に再評価されたりしたのである。在庫車と言っても間違いなく新車なのだから、そんな車が中古車価格なら幾らでも売れるし、利益も十分発生する。

それで発生する赤字対策としては2月末に大幅な増減資を行ったのである。

これらの対策は、社長直轄の経営会議の席上で具体的に検討され決定されたのである。

まだ部長格ではあったが、本社財務の同期の横山部長などと一緒に、起案の当事者として会議を片隅で聞かせて頂いたのである。

 

全ての対策が、事業部次元ではなく、川崎重工次元の問題として対策内容の決定がなされたのである。

この時の本社財務の担当常務が、単車事業部企画室長をされていた堀川運平さんであったこと、担当役員の松本新さんが単車事業に非常に好意的であったことが、スムースに事が運んだ一番の要因だったと思っている。

 

 

 

 

 

● この1年間、こんなことを私はやっていた。

事業は大きく動いたのである。

7月には大庭浩本部長が着任されたのである。

 

大庭さんは当時川重社内では『再建屋』と呼ばれていて、経営立て直しを幾つもの事業部で手掛けてこられたのだが、それは全て受注事業部の事業部本体の期間損益の黒字化であって、単車事業のように海外子会社を擁し、その期間損益だけでなく、累損までも消去して優良会社に生まれ変わらせるような『経営再建』は大庭さんにとっても初めての経験だったのである。

大庭さんに、『KMCの累損38Mドルを消去しないと再建とは言えません』と言ったら『俺はそんなこと聞いとらん』などと仰っていたが、ちゃんと説明するとちゃんと聞いて頂ける上司であった。

怖かったが、現役生活の中で一番言うことを聞いて頂いたのは大庭さんだった。

私を始め企画を担当する連中にとってみれば、大庭さんが下の意見をちゃんと聞いて頂けることが如何に励みになったことか、旗を振るために高橋鉄郎さんにお願いしたのだが、さらに強力なリーダーを得て、単車事業はこの1年でほぼその目途が立ったのである。

ただ、大庭さんにちゃんと説明するのが、なかなか難しいのだが、それは私の特技みたいなもので、当時の企画スタッフが出す提案の説明役と言うか、大庭さんへの説得役は、殆ど私がやっていて、それが私の仕事みたいなものだったのである。

 

7月に来られて、9月のはじめの本社幹部との単車懇談会の席上、

大庭さんから『単車は、思ったより確りしている、川重のなかで、将来性のある事業である。』と発言頂いたりした。

 

 

★これからの数年で単車は確りと再建され、大庭さんは川重本社に副社長で戻られ、単車事業本部は初めて単車事業の中で育った高橋鉄郎事業本部長が、川重の取締役にも昇進されて、その経営にあたることになるのである。

いろんな評価はあるのだろうが、大庭さんが世界展開の単車事業を経験されたことは、川崎重工業にとっても非常に大きなことだったと思う。

自らの意思で事業展開をする単車事業は、受注事業にない厳しさをいっぱい持っている。

川崎重工の重厚長大の体質の中に幾らかでも民需産業の血が注がれたのは、大庭社長になってからだろう。

その後、副社長以上でだけでも大庭―高橋―田崎―佐伯ー三原と多くの単車メンバー達が川重を引っ張った。みんな海外事業や子会社とは言え社長経験者なのである。

田崎雅元社長時代は、川崎柔工業を目指したりしたし、何よりもバランスシートの中味が飛躍的によくなったのである

 

そして、今年7月に、副社長になられる

松岡、高田両副社長はともに単車経験者で、特に松岡京平副社長は、

この1983年時代、本社財務からKMCに出向し、38Mの累損が完全に消えたKMC百合草社長時代まで、KMCの企画スタッフとして頑張ってくれた仲間なのである。

 

 

★大庭さんが単車に再建屋として来られた時、

、『KMCの累損38Mドルを消去しないと再建とは言えません』と言ったら『俺はそんなこと聞いとらん』といわれたのだが、

多分、本社の大西副社長以下財務のトップの方たちも、まさかKMCの38Mの累損が、消去出来るとは思っておられなかったのだと思う。38Mドルとは為替の評価で異なるが日本円にして百億円近いお金なのである。

この累損が消去された時、大西副社長以下の当時の関係メンバーで神戸で盛大なお祝いの会をやったのである。

出来る出来んはよく解らなかったが、大庭さんに『38Mの累損を消去しないと再建とは言えません』とその目標を挙げたのは私だが、

それを本当に頑張って実現したのは田崎社長の後のKMC百合草社長時代で、その中心になったのはカワ販から出向していた富永、日野、そして本社財務から出向してた松岡京平くんなどの当時の若手諸君なのである。

 

★単車事業は安定期には経営を支え活気づけるのは、間違いなく『商品』なのである。

事業の仕組みさえ確りしていれば、いい商品を適正に供給し、上手に販売すれば安定した経営が見込める事業だと思う。

然し、量産事業は一つ間違えば、大きなリスクを背負っている

昨今のパナソニックや、シャープを見てもそれは明らかである。

あのような状態になってしまうと、その基本の仕組みが、時代や事業規模にあったものでないと、人の努力や、商品だけではどうにもならないのである

カワサキがあの時期、あの危機を乗り越えられたのは、みんなも頑張ったが、仕組みや資金の力がなかったら、努力だけではどう仕様もなかったと思っている。

 

そんな知恵が、何となく川崎重工の体質の中に残っていたのだが・・・・

ちょっと薄れたかな? と思っていたら今回は松岡、高田とまさに単車出身の経験豊かな副社長なのである。

 

大庭―高橋―田崎―佐伯ー三原 と続いた単車のいいところを、もう一度、松岡―高田ラインで復活して欲しいものである。

30年前の単車の激動期を思いだしながら、

あれからさらに30年の経験を積んだ人たちに、川崎重工のカワサキの将来を託したいなと思っている昨今である。

 

余談だが、松岡京平くん、早い時期からのNPO The Good Times の会員さんなのである。

 

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