ムーンライトながらとサッカー
JRのムーンライトながら号が無くなる、との報道が1/23の新聞紙面に載った。自分はこのムーンライトながら号と縁があった。理由は「サッカー観戦の際によく利用した」からである。
1972年5月ペレ来日
初めて利用したのは1972年5月、ペレ率いるサントスFCが来日し国立競技場で日本代表(当時は全日本と呼称)対戦することになった。当時、自分はうら若き高校3年生だった。日本代表vサントス戦は中間テストの真っ最中。これは不利な条件でもあり、有利な条件でもあった。不利なのは「テスト中に東京へ行くことは何事か」と、一般的な親は言うだろう、という点である。幸いうちの両親は息子の好きなことを応援する親だったので問題はなかった。有利な条件は、テスト中は午前中で学校が終わることだ。昼前に学校が終われば、名古屋から東京へは余裕で行くことができる。問題はどうやって翌日名古屋へ戻りテストを受けるか、である。そこで登場するのがムーンライトながらである。当時は大垣発東京行き、東京発大垣行きの普通夜行列車が毎日運行されていた。 この列車に乗れば翌朝に名古屋に戻ってくることができ、家に帰ることなく直接学校へ行くことができた。その時のテストの成績はよいわけはない。しかしムーンライトながらのおかげで落第せずに済み、ペレを拝むこともできた。
1987年10月ソウル五輪最終予選 日本v中国
次の思い出は987年10月ソウル五輪最終予選 日本対中国である。最終決戦は中国との対戦となった。アウェイで右コーナー付近のFKを水沼がキックし原がヘディングで決めて1-0、その虎の子の1点を守り切って何と日本の勝利。ホームの国立競技場での試合に勝てば1968年メキシコシティ五輪以来の出場が決まる大一番。これは行くしかない。それは当然である。それだけでなく、この歴史的場面を当時、小1年になった長男にも是が非でも見せたい。そんな思いがつのり実行にうつした。決戦の日は確か月曜日。自分も長男も早退をし東京に向かった。結果は知ってのとおり0-2の完敗で、20年ぶりの五輪出場は夢と散った。雨降りしきる東京・国立競技場。濡れながら東京駅に向かった。そこでムーンライトながらを待った。ホームを見ると、自分と同じような親子連れが何組かいた。皆自分と同じ考えだったようだ。その親子も静岡駅で降り、浜松駅で降り、わたしたち親子だけになった。わたしたちは刈谷駅で降り名鉄三河線に乗り換えて自宅に戻った。
後日、長男にこの日のことを聞くと、「覚えているよ。試合内容は全く覚えていない。ただ寒かった」と言っていた。蛇足だが、この長男は、サッカー好きに育った。
2002年6月 日韓ワールドカップ 日本vロシア
続いての思い出は2002年日韓ワールドカップである。1次リーグ第1戦でベルギーと引き分けた日本。第2戦は横浜国際競技場でのロシア戦だった。キックオフは当時の日本では考えられなかった20:00。自分にとって横浜国際競技場は行きやすいスタジアムだ。(見にくいスタジアムでもあるが)なぜなら首都圏では最も愛知県に近いし、何といっても最寄駅が新横浜という新幹線の駅、というのがいい。ここだと帰りの新幹線の指定席を予約しておけば、試合終了後に勝った場合には祝杯をあげてからでも余裕で帰宅することができる。しかし、20:00キックオフとなると事情は違ってくる。これはもうムーンライトながらにお世話になるしかない。当時のムーンライトながらは、かつての普通列車ではなくなって、全車指定の快速列車になっていた。そこでJRの駅へ行き、ムーンライトながらの指定席を予約しようとしたら問題発生。「全席売り切れです」という駅員の言葉。「同じ事を考える連中がそんなにいたか」と、がっくり。しかし、すばらしいかったのは対応してくれた駅員さんだった。「ちょっと待って下さいよ」と言って何やらコンピュータに向かいだした」しばらくすると「何とかなりました」と言って説明をはじめた。簡単にいうと次のようになる。
・ムーンライトながらは全席指定だが、一部小田原から自由席になる部分がある。
・小田原までの指定席は取ることができた。
・小田原から先もそのまま乗っていればよい。
・ただし自由席になるので、席を空けると違う人が座ってしまうのでご注意を
ということである。駅員さんの機転をきかせた行動のおかげでワールドカップ初勝利の瞬間に立ち会い、祝杯もあげ、ムーンライトながらに乗り帰宅することができた。
2004年 3月18日 アテネ五輪最終予選 日本vUAE
アテネ五輪最終予選の思い出も忘れられないものがある。試合は3-0で日本がUAEに勝ちアテネ五輪出場を決めた。大久保嘉人が2ゴールを決めた試合である。会場は国立競技場。いつものように祝杯をあげ、いつものようにムーンライトながらに乗って帰り、翌日は何食わぬ顔で出勤する。それだけのことだ。しかしその時はそうではなかった。試合翌日の3月19日は卒業式だったのである。自分は卒業学年の担任だった。遅れるわけにはいかない。
その頃は列車に自らの意思でとびこむ人身事故が多発していた。ムーンライトながらがそんな人身事故の影響を受けたら万事休すである。この日ほど列車の安全、無事を祈ったことはない。ムーンライトながら号が豊橋駅に着いた時には胸を撫で下ろした。なぜならここまでくれば、タクシーをとばしてでもして家に帰ることができるからだ。
この日も刈谷駅で降り、帰宅し、礼服に着替えて立派に(?)職務を遂行し涙の卒業式は終わった。
JRのムーンライトながら号が無くなる、との報道が1/23の新聞紙面に載った。自分はこのムーンライトながら号と縁があった。理由は「サッカー観戦の際によく利用した」からである。
1972年5月ペレ来日
初めて利用したのは1972年5月、ペレ率いるサントスFCが来日し国立競技場で日本代表(当時は全日本と呼称)対戦することになった。当時、自分はうら若き高校3年生だった。日本代表vサントス戦は中間テストの真っ最中。これは不利な条件でもあり、有利な条件でもあった。不利なのは「テスト中に東京へ行くことは何事か」と、一般的な親は言うだろう、という点である。幸いうちの両親は息子の好きなことを応援する親だったので問題はなかった。有利な条件は、テスト中は午前中で学校が終わることだ。昼前に学校が終われば、名古屋から東京へは余裕で行くことができる。問題はどうやって翌日名古屋へ戻りテストを受けるか、である。そこで登場するのがムーンライトながらである。当時は大垣発東京行き、東京発大垣行きの普通夜行列車が毎日運行されていた。 この列車に乗れば翌朝に名古屋に戻ってくることができ、家に帰ることなく直接学校へ行くことができた。その時のテストの成績はよいわけはない。しかしムーンライトながらのおかげで落第せずに済み、ペレを拝むこともできた。
1987年10月ソウル五輪最終予選 日本v中国
次の思い出は987年10月ソウル五輪最終予選 日本対中国である。最終決戦は中国との対戦となった。アウェイで右コーナー付近のFKを水沼がキックし原がヘディングで決めて1-0、その虎の子の1点を守り切って何と日本の勝利。ホームの国立競技場での試合に勝てば1968年メキシコシティ五輪以来の出場が決まる大一番。これは行くしかない。それは当然である。それだけでなく、この歴史的場面を当時、小1年になった長男にも是が非でも見せたい。そんな思いがつのり実行にうつした。決戦の日は確か月曜日。自分も長男も早退をし東京に向かった。結果は知ってのとおり0-2の完敗で、20年ぶりの五輪出場は夢と散った。雨降りしきる東京・国立競技場。濡れながら東京駅に向かった。そこでムーンライトながらを待った。ホームを見ると、自分と同じような親子連れが何組かいた。皆自分と同じ考えだったようだ。その親子も静岡駅で降り、浜松駅で降り、わたしたち親子だけになった。わたしたちは刈谷駅で降り名鉄三河線に乗り換えて自宅に戻った。
後日、長男にこの日のことを聞くと、「覚えているよ。試合内容は全く覚えていない。ただ寒かった」と言っていた。蛇足だが、この長男は、サッカー好きに育った。
2002年6月 日韓ワールドカップ 日本vロシア
続いての思い出は2002年日韓ワールドカップである。1次リーグ第1戦でベルギーと引き分けた日本。第2戦は横浜国際競技場でのロシア戦だった。キックオフは当時の日本では考えられなかった20:00。自分にとって横浜国際競技場は行きやすいスタジアムだ。(見にくいスタジアムでもあるが)なぜなら首都圏では最も愛知県に近いし、何といっても最寄駅が新横浜という新幹線の駅、というのがいい。ここだと帰りの新幹線の指定席を予約しておけば、試合終了後に勝った場合には祝杯をあげてからでも余裕で帰宅することができる。しかし、20:00キックオフとなると事情は違ってくる。これはもうムーンライトながらにお世話になるしかない。当時のムーンライトながらは、かつての普通列車ではなくなって、全車指定の快速列車になっていた。そこでJRの駅へ行き、ムーンライトながらの指定席を予約しようとしたら問題発生。「全席売り切れです」という駅員の言葉。「同じ事を考える連中がそんなにいたか」と、がっくり。しかし、すばらしいかったのは対応してくれた駅員さんだった。「ちょっと待って下さいよ」と言って何やらコンピュータに向かいだした」しばらくすると「何とかなりました」と言って説明をはじめた。簡単にいうと次のようになる。
・ムーンライトながらは全席指定だが、一部小田原から自由席になる部分がある。
・小田原までの指定席は取ることができた。
・小田原から先もそのまま乗っていればよい。
・ただし自由席になるので、席を空けると違う人が座ってしまうのでご注意を
ということである。駅員さんの機転をきかせた行動のおかげでワールドカップ初勝利の瞬間に立ち会い、祝杯もあげ、ムーンライトながらに乗り帰宅することができた。
2004年 3月18日 アテネ五輪最終予選 日本vUAE
アテネ五輪最終予選の思い出も忘れられないものがある。試合は3-0で日本がUAEに勝ちアテネ五輪出場を決めた。大久保嘉人が2ゴールを決めた試合である。会場は国立競技場。いつものように祝杯をあげ、いつものようにムーンライトながらに乗って帰り、翌日は何食わぬ顔で出勤する。それだけのことだ。しかしその時はそうではなかった。試合翌日の3月19日は卒業式だったのである。自分は卒業学年の担任だった。遅れるわけにはいかない。
その頃は列車に自らの意思でとびこむ人身事故が多発していた。ムーンライトながらがそんな人身事故の影響を受けたら万事休すである。この日ほど列車の安全、無事を祈ったことはない。ムーンライトながら号が豊橋駅に着いた時には胸を撫で下ろした。なぜならここまでくれば、タクシーをとばしてでもして家に帰ることができるからだ。
この日も刈谷駅で降り、帰宅し、礼服に着替えて立派に(?)職務を遂行し涙の卒業式は終わった。