豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

1980年6月15日 シュタルハイム発・ヘルシンキ着

1980-06-15 15:52:56 | Weblog
1980年6月15日 シュタルハイム発・ヘルシンキ着

                             


 とうとう地の果てまでやって来た。ここはノルウェーのシュタルハイム--北極圏は目と鼻の先だ。ボクが今いるホテルはフィヨルドの絶壁にへばりつくように建っている。氷河の爪跡が刻まれた対岸の岩肌は手を延ばせば届きそうだ。時計は午前1時を指している。山頂には残雪が白夜の太陽に輝き、雪解け水が幾筋もの滝となって、1200メートル下の谷底へゆっくりと落ちて行く。窓から下を眺めるとはるか遠くに、鈴の音を響かせて登って来る羊の群れがケシ粒ほどに見える。比較的遠くには、絶壁のほんのわずかのくぼみに狭い緑が拡がり、赤い屋根、白い壁のおもちゃのような家が建っている。ヒステリックな女の叫び声が谷間にこだまする。耳を済ますと言い訳をする男の低い声も聞こえるようだ。しかし滝の音かも知れない。

 旅はボクから日常性を奪う。平和と怠惰と依存がその根拠を失う。環境が違えば自然、考え方も改まる。不安と孤独と緊張が心地良い刺激となってハートを揺さぶる。そしてボクは普段見失っている自分を見付け出したような錯覚に溺れる。朝食を済ませるとボクは鳥を眺めて半日を過ごした。双眼鏡を持って山道を歩き続けた。岩陰の灌木の茂みにヤマドリの巣があった。毛のはえ揃わないヒナが三羽、身をすり寄せながら鳴き声もあげずに、キョトンとボクの方を見つめていた。道端では5センチ以上もある黒光りするカタツムリが数匹、タバコの吸い殻をなめていた。ボクはこの奇妙なカタツムリを「ニコチンマイマイ」と命名した。

 北欧の福祉施設の視察が今回の旅行の主な目的である。ボクの友人には海外旅行評論家、洋酒洋モク収集家、都市風俗研究家など口うるさい連中が揃っているので、秘密裡に準備を進めた。6月5日、妻と子供達、名犬ジョン、忠犬タロー、四羽の鶏、三羽のウズラ、二羽の十姉妹、百一匹の金魚、石亀の毛沢東、甲虫のヨーコとレノンに別れを告げて十和田を後にした。
 コペンハーゲン空港でボク達を迎えたのは老人のデモだった。前日ある国会議員が「死期の迫った老人に薬や酸素を与える必要はない」という勇気ある発言をしたのだそうだ。「北欧は福祉の先進国と言うけど嘘っぱちさ。今の政治家ときたら、まるでヒットラーかトージョーさ。ところであんた、中国人かい?」

 高福祉高負担が北欧諸国の原則だ。所得税もさることながら、物品税のため驚くほど物価が高い。ビールは小ビンが600円もする。チボリ公園のバーで大学生のカップルと飲んだ時のことだ。「福祉は充実、年寄りは長生き、全く結構なことさ。労働者は給料の半分を税金でふんだくられる。アパートを買おうと借金すれば利息は年間25パーセント。それも給料から天引きとあっちゃ、子供も作れやしない」。それを聞いてクリスチーナは、「私は子供を産むのは厭よ!」とペーデルを突き飛ばした。出生率の低下は北欧四国共通の悩みである。

 視察は適当にお茶を濁し、あとは街に繰り出してドンチャン騒ぎ--こんな日本的な美風も北欧人には通用しない。時には米国人やドイツ人の視察団と一緒のこともあった。そんな時には、いやが上にも愛国心が鼓舞されてボク達は、落ちこぼれては大変と必死でノートを取った。

 各地で米国の老人の旅行団と出会った。金髪、シワクチャ、シミだらけ、サングラス姿の女性がわざわざ観光バスから降りてやって来た。「北欧では老人は快適な施設に押し込められている。米国では年金で旅行を楽しむ。どちらがベターだと思いますか?」ボクはそんな国威発揚的な愚問につき合っちゃいられない。「日本では残念ながら、欧米並の無駄遣いはしません」

 オスロ空港で、チェコでの学会に参加した日本の医師旅行団と合流した。一行は口々に、東ドイツとチェコで受けた苦い体験を語り、「もう二度と共産圏には行かない」と宣言していた。初夏の明るい太陽の下でも、やはり東欧は暗かったようだ。中立政策を掲げる北欧諸国でも徴兵制が施行されていて、ソ連を仮想敵国とする軍事訓練が行われている。

 1960年6月15日、ボクは日米安保条約に反対するデモの渦中にいた。1970年の同じ日も--詳しいことは忘れた。心の健康を保つため、過ぎたことは早く忘れるように心掛けている。

 ヘルシンキには午後11時に着いた。ボクはガイドの山下君と、フィンランド航空勤務のマリアッタと深夜営業のバーへ向かった。突然道端のベンチからヒゲモジャの大男が起き上がって、山下君に抱きつくと大声でわめき始めた。数分間の押し問答の末やっと解放された。「彼は北欧名物のアル中よ」とマリアッタは笑った。しかし山下君は興奮して、蒼白な顔で叫んだ。「あんな奴等死んじまえ!政府が生活保護の年金を支給するから、奴等はますます悪くなるんだ」マリアッタは立ち止まると両手を腰に当てて、確信に満ちた口調で説教を始めた。「そんな考えは人間的じゃないわ。彼はいつかは社会と自分自身の力で救われると思うの。きっと彼は幼い時に悲しい事があって、心の傷がまだ治っていないだけなのよ」「君達フィンランド人はいつでもそうだ・・・」山下君はウンザリした表情で首を振った。

 午前2時にバーを追い出された後もボク達はホテルの部屋で飲み続けた。そしてどうやら山下君もアル中らしい事を知った。「俺は死にたいよ。日本へ帰りたいよ。だけど金がないんだ」と彼は何度も何度もつぶやいて、そして酔い潰れた。32才というが40過ぎに見える。10年前旅行者としてやって来て、年は4才下、背丈は14センチ上の現地女性と深い仲になり、居着いてしまった。夏の3カ月間はガイドの仕事で稼げるだけ稼ぐ。冬は翻訳の仕事を細々と続ける。アルコールのタタリか、日光浴不足の影響か、彼は冬期間1、2ケ月寝込む。もちろん医療費は無料だし、生活費も支給される。快適な病室で、1日6時間しか太陽の昇らない冬を、憂うつな気分で過ごすのだ。夏場3カ月間は70万円、その他は30万円の月収の大半は税金と飲み代に消える。彼を支えているのは、かろうじて生活保護だけは受けていないというプライドのようだ。この国では犯罪は驚くほど少ない。殺人は年間5件前後--自殺者は千人前後だそうだ。

 マリアッタはボクを「トシヒコ」と呼んだ。現地語で「真面目くさった人間」という意味だそうだ。ボクは昔からそんな雰囲気があるようだ。他人の目なんてどうでも良いのだが、どちらかと言えば迷惑なことだ。世間的な道徳を強要されているような負担を感じるからだ。俺は駄目な人間だ--などとは言わない。そんなことを言う資格があるのは、十分利口な人間だけなのだ。ボクの最大の欠点は、物事をあるべき姿で見ずに、あるがままに見ることだ。こんな素直さはこの世では悪徳なのだ。もたれ合いの精神に欠ける思いやりのなさが友人や親戚から嫌われる。地上の人々は善意に満ちて、人生は素晴らしい。だからこそボクは鳥や花に興味を覚えるのだ。ある時「生きていることが楽しくて仕方がない」と口を滑らせた。おせっかいな友人が「軽率な人間と思われるから二度とそんなことを口にしてはいけない」と忠告してくれた。

 ボクは北欧の老人問題について、もっとリアルにマリアッタから聞き出そうとした。しかし彼女は面倒くさくなると決まって「トシヒコ!」で片付ける。これには「ヤボテン」という意味もあるようだ。フィンランド人は短い夏を遊び狂うのだそうだ。その後には長くて暗い冬が待っている。北欧では子供は18才になると例外なく親元を離れて自立する。マリアッタは22才、金髪で瞳が青く、陽気で大柄な典型的な北欧女性だ。遠くで雷が鳴っている。人間はいつか老いて行くが、若者達はそれを信じようとしない。マリアッタ、君もだ。
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